15
お待たせしました。
夜、ナタリーは眠れず、飲み水を求めて部屋の外に出た。するとガチャリとフレデリカの部屋から、焦りと後悔のないまぜになった表情のエリックが出てきて、突然近くの壁を殴りつけた。
が、妙なことに打撃音が静寂を震わせるようなことはなく、どうやら拳を寸止めしたらしい彼は、そのままそこに佇んでいる。
やがて彼はゆっくりとナタリーを振り向き、
「……おまえか」
呆れたように首を振る。その姿には先ほどの激高の名残はない。
「あの、ユークさんは……」
「ああ、単なる意見の相違だ。あのバ……じゃない、フレデリカとのな」
それ以上話す気はない、といわんばかりに軽く手を振り、自室へと戻っていく。
その後ろ姿にナタリーは、例えようもなく悲しく、何か大切なことを見落としているようなのに、それを尋ねることもできないもどかしい気持ちが膨れあがってくるのを感じていた。
深夜。夜空には美しい月が出ていた。屋根の上にあがってそれを見上げていたヨナは、ふと昔聞いた歌を思い出し、そっと口ずさんでみる。
“暁よ、暁よ。疾く、疾く急ぎ来よ。夜の化身が現れる”
続きがどうしても思い出せず、何回か繰り返していると、
「あ、こんなところにあがってるー。この寒いのに」
下からフォルミナが顔を出した。
「眠れないの?ちゃんと薬は飲んだ?」
聞かれたヨナが静かに頷く。それから小さくもう一度歌を口ずさみ、
「……歌の続きが、思い出せなくて」
「この歌、確か続きは“暁よ、暁よ。疾く、疾く、急ぎ来たれ。夜の使いが眠りに沈み、夜の化身が現れる。その手が皆に届かぬうちに”だったっけ?すべてを呑み込む夜の化身に、その手下の私たちって……人は想像力逞しいよね」
とヨナに向かい皮肉げに言う。
それからひょいっと屋根に上がり、
「早ければ明日の夜には事が起こるから。手順確認しとこっか?」
との言葉にヨナが小さく頷くのを待って、
「まず、隊長が領主館全体に眠りの結界を張るから……サキが領主を、私が渡り廊下を担当する。ティーラーはまわりね。ヨナは同じく外で待機。何かあったらすぐ連絡すること。アッシュとハウエルは別働隊。どう、大丈夫?」
「わかってる。でも、僕は……気が進まなくて。もうどうにもならないのかな」
悲しそうに呟く。
「大丈夫よ。確かに私も、急すぎて気持ちがまだついていってないとこはあるけど……隊長がいるから。きっと大丈夫。必ず、うまくいく」
励ますフォルミナのその言葉にヨナは頷き、もう一度月を眺めてから、今度は二人一緒に暖かい家の中へと戻っていった。
ジョナサンはその時、たまたま煙草を吸いに外に出てきていた。二人の様子を煙をくゆらせながら眺め、ふーっと息を吐く。
空には白々とした月がかかり、身を刺すように冷たい空気。こんな澄んだ空気の夜は、あいつの、‘未来予知’の特殊能力者であった、亡きジェイクの警告を、思い出す。
ほんの刹那に浮かぶ、‘未来予知’の能力者。容姿は、いってしまえば、普通。茶髪にヘーゼルナッツ色の目をして、いつも笑みを絶やさず、誰に対しても穏やか……そんな印象を作っていたが、中身は苛烈で常に研いである鋭利な刃物のような性格をしていたジェイク。
『ジョナサン。おまえのその優しさは、特殊能力者には毒でしかない。それは彼らの不幸を招き、おまえ自身を滅ぼす』
今、まさにそのとおりになろうとしているのだろうか。
ジェイクが寿命を向かえ、ほどなくしてフレデリカが‘影’を出ていき……その頃、何人も特殊能力者を引き取って育てていたジョナサンは、『すべてを連れていくことはできない。危険は高いがので一人ずつなら……』と、彼らを手放すことを提案したイシューの提案に首を振り、
ここで家族として彼らを育てることを選んだ。
ーーーーあの頃は、‘影’の位置も安定していた。
あの時、別の道を選んでいればこうはならなかったのだろうか。
苦悩と自嘲が入り混じる笑みを浮かべ、静かに胸元を押さえる。
ーーーー結局薬は完成せず、残ったのはこの、似ても似つかない偽物だけ。
ちゃぷん、と茶色の小瓶の中で揺れる液体を眺め、またジョナサンは物思いにふける。
捨てられて処分されるはずだったユークを拾ったのはジェイク。彼は、それこそ自分の持てる知識、技術すべてを注ぎ込んで、〈影〉の足りない部分を補うための―――――《カラス》を作り上げた。
ジェイクの死後、彼を見つけた時はもう―――――何ものにも心を動かさず、自分の役割を意識し、ただ淡々とフォローを熟すためだけの存在となっていた彼は……怖ろしく、ジェイクに似ている。
「…………すまない。ふがいない私を、許してくれ」
いざという時は、これを使うことも厭わない。
自分がひどく醜い存在になったような気がして……ジョナサンは、瓶を握り締め、絞り出すような声でジョナサンはジェイクに謝罪した。……そして、ユークにも。
……迫害されていた特殊能力者。彼らを愛するあまり、その担うべき責を、すべてユークに押しつけてきた。今もなお。