10
お待たせしました。
夕方。領主の館の離れにある〈影〉の本拠地では、領主たちの動向を調べて帰ってきたジョナサンが、焦げくさい異様な匂いに気づいた。
まさか火でもつけられたかと、慌てて声を張り上げる。
「おい、誰かいないか!」
「は、おはえりははい」
鼻と口に布を当てているせいで、いまいち不明瞭なヨナの声が、階段の上から響いた。
「ヨナ。いったいどうした?何があったんだ」
「いえ、僕とフォルミナとで例の調査をしていて……」
ゲホッゴホッと咳き込みながら降りてきて、
「詳しい話は下で。ほぼ全員ホールに集合してますから」
と広間へ向かう。
部屋では窓がすべて開け放され、サキ、アッシュ、ティーラー、ハウエルが落ち着かない様子でテーブルについていた。
「アッシュ、もう起きてもいいのか?」
心配そうなジョナサンに、アッシュがゆっくりと首肯し、ティーラーがその横から、口を出す。
「まだ声がうまく出ないようですが、後二、三日で、それも治るかと。隊長のおかげですね」
「それはいいんだが、が、この騒ぎはなんだ?まさか領主側の……」
その言葉に沈んだ表情のヨナが、
「いえ、まあ、なんていうのか……。とりあえず、先に任務の報告をしますね」
グラスをとり、水で喉を潤してから続ける。
「これまで、僕とフォルミナとで、市内の心当たりの場所を探したんですが残念ながら書類は見つかりませんでした。手がかりも他になく、隊長の心労がまた増えることを心配して、せめて何か力になりたいと、フォルミナが厨房に籠っているんです」
ジョナサンの顔がやや引きつった。そして噂をすればとばかりに部屋の扉が開き、その彼女がお皿に黒い物体を山盛りにして運び入れてきた。
「隊長、それにみんなも。どうですか、これ」
どうですか、と言われても……な表情で、その場の全員が皿の上の物体にくぎづけになる。
「……フォルミナ、これは?」
おそるおそる尋ねたサキに、
「木の実のパイとか、いろいろですよ」
彼女はにっこり微笑んで答えた。
さっそくハウエルが手を伸ばして口に入れ、ジャリッジャリッと音を立てて咀嚼し始める。
次いでフォルミナと目が合ってしまったヨナが慌てて、
「ごめんなさい。僕、朝からお腹が痛くて」
「あ〜、おれもおれも」
サキと二人して速やかに戦線離脱した。
フォルミナが肩を落とし、
「今回はほとんど道具を壊さずに、これまでで一番上手にできたんだけど……やっぱり駄目ですよね」
と悲しげに言うと、
「大丈夫。ちょうど少なくなってたところだったんだ。有効利用させてもらうよ」
ティーラーが安心させるように彼女に笑いかけ、ナフキンにいくつか塊を包んだ。
ほっとしたように笑みを浮かべる彼女を見て、アッシュとジョナサンもティーラーにならい、炭の塊を取って袋にしまう。
何とも言えない微妙な空気が収まり、その場にいるほとんどが安堵しかけた時、ずっと黙って噛んでいたハウエルが、不味い、と呟いた。
その後しきりに謝るフォルミナをなんとかなだめ、ティーラーとヨナが予め用意していた夕食を皆が食べ終わってからしばらく。
他の者が自室に帰ってからも、ジョナサンとティーラーだけは談話室に残っていた。
ティーラーは部屋の隅からイーゼルを取り出すと、立てかけてカンバスを置く。
「ティーラー。……訊かないのか?」
「はい?何を……って、ああ、《カラス》の件ですか。僕は隊長の判断に従うだけですよ」
そう言って淡い青灰色の瞳を細めて苦笑する。
「そうか。すまないな」
「ただ、説明不足なのは否めないですね。そろそろ話してくれないと、不安が募り、また誰かさんが暴走してしまうんじゃないですか」
「ああ、そのうちには」
「そのうち、ね。それほど待てませんよ、彼らは」
そういうとティーラーはフォルミナの会心作である炭の塊を取り出し、膝の上に置いた。
「……ティーラー。無理する必要はないぞ」
「いえいえ、せっかく彼女が作ってくれたんですから」
黒い塊を丁寧にナイフで切り分けると、自然な動作でカンバスの上に滑らせる。
最初からデッサンに使うつもりだったのか。
ジョナサンは唖然として、ティーラーの繊細な指が人物画の輪郭を描くのを眺めていたが、ふと上着のポケットにしまった袋を思い出し、取り出してみると、残念なことに中身はボロボロと崩れていた。
ほぼ同じ夕刻。イシュー・グランマニエ宅では、外から早めに帰ってきたエリックとイシューの協力により、今までにないほど食卓は賑やかになっていた。
チーズをふんだんにかけたハーブサラダ、クリームスープ、肉のローストに、バケットのライ麦パンはプレーンと干しぶどうの二種類。
このところ次々起こる暗い出来事で気が滅入っていたナタリーも、これには思わずほころばせた。
「全部お二人で作ったんですか……?」
「いや、ほとんどが彼だ。わしは少し手伝っただけで」
イシューが耳元に痣のある青年へちらりと視線を送る。髪の毛が落ちないようしっかり布を巻き、エプロンを来ているその姿は、似合わないとは言わないけれども、どうしても違和感が先に立ってしまう。
「……毒は入っていないでしょうね」
「入れてどうする」
鋭い突っ込みが入り、それを合図代わりにフレデリカとイシュー、ナタリーははめいめいに好きな席へと座る。
「調理した人はともかく、粗食ばっかりだったから、こういう豪華なディナーは本当に嬉しいです」
「……粗食か」
イシューが沈んだ口調で呟くと、ナタリーが慌てて、
「いえ、あれはあれでダイエットになったから大丈夫ですよ」
「フォローになってない」
老人の渋い顔にフレデリカは笑い声を立てる。
「ユークの料理は美味しいよ〜。次はひよこ豆のポタージュがいいな」
「すり潰すから作るの大変だとわかってて言ってるだろ」
そんな和やかな(?)話をしているうち、ナタリーはふと自分の気持ちが軽くなるのを感じていた。
「なんか、いいですね。こういうの」
せっかくだから、と思いきってパンをもう一つお代わりする。
続いてユークもパンを取り、干しぶどうが嫌だったのかナタリーのプレーンタイプとすり替えた。
少女は全く気づかず皿の上のそれを手に取り、口へと運ぶ。
正面にいてうっかり見てしまったフレデリカは、スープを吹き出しかけた。
「おい。もっと落ち着いて食え」
「だ、大丈夫ですかっ?」
「んく……変なとこに、入った」
咳き込んだフレデリカがなんとか立ち直るころには、テーブルの食事はあらかた無くなっていた。
フレデリカがスープを最後の一滴まで綺麗に飲み干し、ナフキンで口を拭う。
「それで、そっちの調査の方はどんな感じ?」
「そうだな。町中の監視は相変わらず厳しいままだ……特に外との出入りに関しては念入りにチェックされている。……とりあえずこれを」
ユークはヴォイド紙を取り出し、皿を除けてテーブルへ置いた。
「今日の分だ。相手もなりふり構わなくなってきたな」
大見出しの一つに、【駆け落ちか?花屋の少女行方不明。見つけた人には領主より多額の報奨金】とあった。
「な、何ですかこれ」
「こういう手を使ってきたか」
ナタリーとイシューがそれぞれ反応し、フレデリカが一面を飾る記事を眺めて苦笑する。
「【少女は領主の隠し子の可能性も】とはね。突っ込みどころ多いなー」
「しかしこれで、ますます危険が増える……二人とも、絶対に外へ出てはいかんぞ」
「そうですね」
ナタリーが素直に頷いた。
「このことも気になりますが、〈影〉の人たちも私たちを探しているんですよね。これから、いったいどうするんですか?どんなことに気をつければいいんでしょうか」
ナタリーのもっともな質問に、フレデリカは紙とインクと羽ペンを用意して、
「じゃあ、これまでのことを整理するよ。……まず最初に、〈影〉の大切な書類を、領主の命令でナタリーの父親が持ち去った。ところが、彼は領主には渡さず隠してしまったため、それを領主と〈影〉の双方が必死になって探している」
「それは、わしもエリックから聞いた」
イシューがしっかりと頷く。
「で、これからあたしたちがしなければいけないのは、どちらからも身を隠すこと。それから、なんとかこの事態の打開策を探し出すこと、の二つ」
「でも、これだけ大ごとなのに……本当に解決するんでしょうか。それに、〈影〉にいるのがどんな人たちなのかもわからないし」
「そういえば、〈影〉で探索に秀でている者はおらんのか?ここに踏み込まれる可能性は?」
老人が尋ねると、フレデリカは、
「ん〜、植物系能力を持ってるティーラーがそんな感じ。でも、そこまですごい能力じゃないよ。木や花を操ったり、意識を飛ばして近くにあるものをぼんやり感じる程度。特定された所なら威力を発揮するけど、カーゼルの使うリリアンの方が脅威かな。ユ、エリックには話したけど、他のみんなもカラスには気を付けてね」
「使い魔、というわけか」
イシューが真剣な表情で聞いていると、
「あんたの力はどうなんだ」
エリックが口を挟んだ。
「察してくれ……わしは火を少し操れるのみだ。そもそも大技が使えるようならすでになんらかの相談を持ちかけておる」
「……」
その場に落ちた微妙な沈黙を破り、フレデリカが、
「話を戻すけど……鳶色の髪と目の双子は力の圧力で押し潰すのが得意で、一見労働者風の筋肉質の男は人より倍のスピードで動けるし、他には灰色の髪の陰気な男で手足を獣化できる奴、見た目柔そうな少女なのにものすごい怪力の持ち主とか」
説明を続けるフレデリカに、ナタリーがおそるおそる、
「あの、聞いてるとだんだん絶望的になってくるんですが……」
「まあ、考えなしなのは三人ぐらいで、後は揉め事を避けるタイプだから。まず人前で襲われることはないから大丈夫」
「ううう……頑張ります」
ナタリーはその横で平然と、そろそろ皿を片付けていいか、と尋ねてきたエリック青年を恨めしげに睨みつけた。