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(ユークはちゃんと渡せたのかな……)
後押しをしておいてなんだが、フレデリカは落ち着かず、リビングでうろうろとしていると、
「……フレデリカ。こんな冷えた部屋で何をしておる」
イシューが厳しい表情で声をかけてきた。
「薬を飲んだ形跡もなかったが……」
「あっ……忘れてたわー」
「……フレデリカ」
額を押さえ低く唸るイシューに慌てて、
「待った!たまたまよたまたま!ちょっと切らしちゃってて!」
「わかった。常に食卓近くに用意しておく。それに……やはり一度しっかり診ておこう」
暖炉の火を起こし、有無を言わせず座るように促したイシューに、フレデリカが、いたずらで叱られた子どものようなしゅんとした表情をした。
イシューはその手首と首元から脈を計り、その体の冷たさに、さらに顔を険しくする。
「不整脈……時折消える……冷えは相変わらずか。最近、体調は?」
「特におんなじかな。ま、時期が時期だし。こんなもんでしょ」
深刻な表情のイシューとは裏腹に、フレデリカの表情と口調は軽い。
「あやつは知っておるのか?」
問いかけに肯定の意味を込めて肩をすくめてみせると、なんてことだ……と呆然と呟き、短く神への祈りを呟いた。
「イシュー、教えて。カーゼルと何があったの?私がイシューと会ったのはそりゃ遅すぎたかもしれないけど、もし前にカーゼルに会っていたのなら、どうしてあの子たちはあのまま、」
「落ちつくんじゃ、フレデリカ。わしらの組織の人間は、この国には数えるほどしかいない。この国では、わしらも気をつけなければ、異端と見なされるからの。そんな中で、あやつがあれだけの特殊能力者を集められたのは、行幸じゃった。しかし、移動するには……あの人数では目立つ。どれだけかかるかはわからんが、せめて一人か二人ずつなら、とわしが持ちかけたが、あやつは首を振ったよ。私たちは家族だから、とな。ここで居場所を作っていく、と。それがずっと、引っかかっておってな」
またここに戻るとは、その時は思わんかったが……とイシューは痛みを堪えるような顔をした。
「あいつの甘いところは、昔から治んないのね」
フレデリカが苦く吐き捨てるように言う。
「そんなことをいうもんじゃない。わしの国では、特殊能力者は少なくとも人として認められていた。ここで彼らを守るのがどれだけ辛苦を伴うことか……」
「イシューの言ってることはわかる。けど、あいつは‘影’の隊長としては失格だった。求められたものに不足が出れば、どこかで誰かが無理をしてでも補う破目になる。見て見ぬふりを続けていた、あいつをあたしは許さない」
「何があったのかわしにはわからんが……ただ、今の状況から察するに、なにがしかの答えが出るのであろうな……それがいいか悪いかは別として……」
まるで自分に言い聞かせるかのように呟くイシューの後ろで、暖炉の薪がゴトン、と音を立てた。
次の日の朝。あまり眠れなかったナタリーは、イシューに頼み込み、仕事関係やその他の書類をまとめるのを手伝っていた。
「これと、それをまとめて、それから、足元の本を取ってくれるか」
何も聞かずにいてくれるのをありがたいと思いながら、言われた通りに紙に番号を振っていく。
「これ、全部イシューさんが?」
「ああ。医者にとってカルテは財産だ。時間があるときにこうして整理しとかなければな」
「そういえばずっと休業ですけど……お客さんは大丈夫なんですか?」
「いやどちらにしろ手伝いの者がいなければどうにもならんよ。わしも年だからそれほど多くの患者は診れん。ここだけの話、通り向こうの角にしばらく前に新しく開業したのがおってな、最近では皆そちらに行きおる。……ああ、こちらの資料も頼む」
イシューが紙の束を机に置いたところでコンコンとノックが響き、フレデリカがトレイの上にポットとカップを乗せて、顔を覗かせる。
「お茶入れたんだけど、ちょっと休憩にしない?」
まったりしたお茶の時間の後。イシューはまだ途中だからと作業に戻ったが、ナタリーはリビングに残ることにした。
「あれ?書類の整理はいいの?」
不思議そうな表情をするフレデリカ。
「フレデリカさん。私に、特殊能力者のことを教えてください」
「ど、どうしたのいきなり」
驚く彼女に、考えをゆっくりまとめながら、
「父さんが、殺されたって聞いて……それも、おそらくは〈影〉の誰かに。どうしてそんなことになったんだろうって。……自分が何も知らないことに気づいて、悔しかったんです。そもそも……父がそんな領主様の重要な書類をどうして盗んだのか、それも納得できなくて」
「あ〜それは……エリックに聞かなかった?」
ナタリーが黙って頷くと、あいつは肝心なことをいつも言わないんだから……と呟いて額を押さえ、
「実はね……あの書類は〈影〉の重要書類で、あなたのお父さんはそれを盗むよう領主から命令されていたらしいの」
「え……」
「少し前から領主と〈影〉のあいだには確執があってね……それにきっと巻き込まれたんじゃないかと」
「あ……父さんが領主さ、領主アグノン・ラターのところに就職できたって言ってたのは……」
「もしかすると、その重要書類を盗ませることが、目的だったのかもしれない」
フレデリカは歯切れ悪く、言う。
「そんな……でも、そこまで求めるその書類の中身っていったい」
「詳しくはいえないけど、それが領主の手に渡っていたら、とんでもないことになっていたと思う。あなたのお父さんは、頑張ったんだよ。だってその危険性に気づいて、領主の目から隠すことができたんだから」
「でも、どうして……。父さん……」
震えるナタリーにフレデリカは、どう声をかけようか悩んでいるようだったが、やがて蜂蜜をたっぷり入れた香草茶を持ってきた。辛い時は甘い物がいちばんだから、と言葉を添えて。
渡されたそれを一気に飲み干すと、ナタリーはぼろぼろと涙を溢れさせた。
「わ、私、もうどうしたらいいのか……。あなたたち特殊能力者のことも……領主に追われていることも」
フレデリカは手を伸ばし、ナタリーの肩をゆっくり安心させるように叩く。
「迷うならもっと簡単に考えればいいよ。きっと、一週間後には全部うまくいって、普通の生活に戻れてるって、ね。特殊能力者については」
いったん切って逡巡したが、言葉を続けて、
「なるべく関わらないでいれば、それでいい」
「で、でも……」
「でもはなし。ほらほら、まず顔洗っといでよ」
フレデリカは突然バサッとナタリーに布を被せた。
「ちょ、何するんですか!」
「そうそう、そんな感じで元気出して。空元気でもさ、出していれば気分が上向いていくから」
薄い布越しのフレデリカの声は、肌寒い空気に凜と響き、ナタリーを奮い立たせようとしているかのようだった。