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かなえるもの  作者: 田中志摩貴
8/46

その8


*


 顔を合わせるなり、マーキュリは娘を叱る父親のごとく腰に手をあてた。

「やっぱり庭にいると思った。カイキに居場所を訊いておかなかったことが悔やまれる。一度、姫の私室に寄ってしまったよ」

「バカね、マーキュリ。私は私室にいるよりも、冬になる前に外の空気をたくさん吸っておきたいの。ね、行きましょ」

 パシャはマーキュリの腕も絡め取り、二人を引っ張るようにして駆け出した。マーキュリが問いかけるようにカイキを覗き見たが、カイキは苦笑するしかない。

「やれやれ。どこに行くんだい」

「行きたい場所があるの。さっき見つけたのよ。二人にも見せてあげる」

 詳しい説明は一切せず、パシャの足は加速していった。だが庭園は広い。駆けても駆けても芝生が続いている。先頭をきって走っていたパシャは、容易く疲労しただろう足を緩めた。目的地はまだまだ先にある。

 パシャは振り返ってマーキュリを見上げた。

「ねえマーキュリ。今日は神話を聞かせて」

「……別にいいけれど、それにしたって唐突だなあ。いきなり走り出したと思えば、今度は修学の時間かい? まったく、女心は計り知れない」

「ダメ?」

 小首を傾げた姫が甘えた声で反応を窺う。いつのまにこんな仕草を覚えたのだろう。マーキュリは内心苦笑しながら、両手を広げて騎士のように一礼してみせた。

「仰せのままに、姫。では悲劇がいいかな、それとも喜劇が?」

「悲劇がいいわ。うんとロマンチックな悲劇が」

 パシャは両手を組み合わせて、祈るように天を仰いだ。恐らく、大きな双眸を爛々と輝かせているに違いない。どうして女性は破滅的な愛を直接な浪漫と結びつけるのだろう。

 健康的な蒼い空の下で散歩しながら語る悲劇――マーキュリはひとつ唸ったが、良案を思いついたのか、指を鳴らして提案した。

「じゃあ、こういう話はどうだろう」

 パシャは興味津々といった態度で耳を傾けているが、カイキは黙然と歩を進めるに留まった。

「英雄オリオンの話だよ。とはいっても、彼の神話は幾つもあるんだ。他の物語は次の機会でいいかな? では悲劇をひとつ――ああ、そうだ。これは悲劇は悲劇でも、滑稽な悲劇でね。冗談みたいな話だけれど、意外と盲点をついた話だよ。ああ、前置きが長いね」

 マーキュリは幾ばくかの間をあけて、隙をみて深呼吸した。

「昔、オリオンという見事な体躯を持った美しい青年狩人がいた。その狩人に恋をした女神がいたんだ。彼女は月の女神でね、オリオンにすごく恋い焦がれたのさ。それはもう盲目的なほどに恋をしてしまったんだ。だけど、月の女神の双子の兄である太陽神はそれが気にくわなかった。太陽と月は対になる者であって、妹の興味が人間に移るのが許せなかったんだろうね。つまらない嫉妬だ。仲の良かった双子の神は、そのことでいつも喧嘩ばかりしていたんだ。それまでは、とても仲の良い兄妹だったんだけれどね」

 妹と聞き、カイキはヒオンを連想した。

 仲の良い兄妹――それは自分たちも同じだ。それが、ある日を境に均衡が崩れてゆき、会話を失ってしまった。ヒオンが声を喪失したことや城へ移住した忙しさや勉学に追われる時間の少なさなど、原因をあげればキリがない。だが、どれだけ距離があろうとも実の妹には変わりがないし、妹が可愛いあまり心配する兄の気持ちは充分に理解できる。

 もし、ヒオンが誰かに恋したら祝福できるだろうか。度量のある男ならばいい。カイキが認めるほどの男ならば。

 しかし、そうでなければ――?

 いつか妹の傍らでヒオンの肩を抱くであろう恋人像を想像してみたが、うまく形にならない。架空なのだから当然だ。カイキの目は、自然とマーキュリの横顔を追っていた。

 マーキュリならばいい。彼ほどの男ならば、素直に祝福できるだろう。

「ある日太陽神は、海で泳いでいるオリオンをみつけた。そこで太陽神は名案を思いつく。大好きな妹と喧嘩ばかりするのはオリオンの所為だと一方的に恨んでいたのさ。ついに太陽神は、弓の上手な妹に相談を持ちかける。――キミの凄腕で、海を彷徨する珍しい獣を射ってくれないか。ボクはその獣が大嫌いなんだ――とね」

「それって……」

 パシャが口を挟もうとした瞬間、遮るようにマーキュリが声を高くした。

「そうさ、罠だよ。もちろん、月の女神は喜んで了承した。彼女も兄である太陽神とうまくいかない状態に嫌気がさしていたんだ。兄との仲を修復したい気持ちでいっぱいだったし、兄の嫌いな獣を退治するくらい彼女の腕なら造作もなかった。そして――矢は見事に命中したんだ」

「月の女神は標的を確認しなかったの?」

「そのようだね。そこは何と言っても神様だから、遠く離れた場所で泳いでいた点みたいな獣だって射抜けるんだよ」

「ふうん」

 パシャは納得のいかない声をあげながらも、そのまま傾聴していた。

「女神は、射殺した獣を捕らえて兄に差し出そうとする。もう心配いらないよって意味を込めて、海に浮いた無惨な獣の屍体をすくい上げようとする。そこで女神は、獣の正体がオリオンであることに気がついた。随分と間抜けな話ではあるけれど、そういうことだったらしい。女神は嘆いた。幾晩も泣き腫らして、悲しみのあまり夜を照らすことすら忘れるくらい嘆き悲しんだ。幾晩も世界中の夜は真の闇に包まれた。それでは生活できない人々の訴えもあり、女神の父親である全能神は決断した。月の女神が闇夜を通り過ぎる天道の近くに、オリオンを星座として配置したのさ。そうしてやっと寂しさを忘れて、月の女神は仕事を再開した。毎晩、オリオンが美しく輝けるように世界を照らしたんだ」

 マーキュリがパンと手を叩いて終了を告げると、パシャが呆れ顔で項垂れた。

「それって悲劇じゃなくて喜劇じゃない?」

「立派な悲劇だよ。愛する人を自分の手で殺してしまったんだからね。僕ならとても正気を保てそうにない。後悔と自責の念に駆られて身動き一つできそうにないよ。いや、悲劇というよりも悲喜劇というべきかな。それに――オリオンの話は幾つもあるといったじゃないか。他の話もあるけれど、聴くかい?」

「今度はもう少しマシなのにして」

 期待を裏切られたパシャは露骨に冷たい声で依頼した。マーキュリにしてみれば、この晴れやかな天の下で暗鬱な話をあえて選ばなかっただけだ、と反論したい。神話の中に悲劇ならば、それこそ星の数ほどもある。

「カイキも不満だったかい?」

「俺は興味ない」

 カイキは素っ気なく言葉を落とした。神話にまつわる悲劇などに興味はない。単に二人の緩慢な足取りに歩を合わせているだけだ。

 そもそも姫がどのような形で勉学に励んでいるのか知らなかった。実体を知れば呆気ないものだ。二人が顔を合わせれば、こんなくだらない話で盛り上がっていたらしい。

「じゃあ、オリオンで別の話をしよう。先にいっておくけれど、さっきの話とは全く別のお話だよ。じゃあ、ふたたびオリオンを登場させるとしようか――」

 マーキュリが咳払いしてから口を早める。

「素晴らしい腕前を持ったオリオンは、月の女神に辣腕を認められて部下になった。部下といっても神に仕えるんだから立派なものだったんだろうね。今度は逆に、オリオンが月の女神に恋をしてしまうんだ。さっきの女神のように狂うほどに恋い焦がれて、遂には求婚する。考えてみれば、身分違いも甚だしい話だけれどね。だけど、月の女神はオリオンを拒む。結婚など冗談ではないと、拒み続ける。しかし、オリオンが諦める様子はない。いっそう情熱は深まってゆくばかりだ。月の女神は困り果てて、大地の女神に相談をする。――すると、いっそオリオンを殺してしまえという結論に辿り着いたんだよ」

「そんなことで殺してしまうの? 神様って横暴なのね」

 パシャは思わず仰け反って驚いた。

 すぐに姿勢を直すと、真摯な声で非難の呟きをこぼす。恐らく、女神たちの陰惨な奸計に女帝の姿を重ねたのだろう。

 マーキュリは生真面目な顔でひとつ頷き、姫の心を読んだように皮肉を放つ。

「そう、神様は横暴なんだよ。偉い立場を持つ者は、みんな横暴なのさ」

「ただ好きだっただけなのにね。結婚がいやなら、オリオンを解雇しちゃえば良かったのに。でも、相当しつこかったのかしら」

「すごく執着していたみたいだけれど、恋したからといって殺されたんじゃたまらない」

「そうね。それでオリオンはどうやって殺されたの?」

「大地の女神が放った蠍の毒で、瞬く間に秒殺さ。だから今も、西の空に蠍座が出てくる頃には、オリオン座は逃げるように天を去っていく。ふたつの星を巡る皮肉な因果だね」

 白目をむきながらおどけて、マーキュリは屍体を演じた。

 マーキュリが事も無げに言い放った言葉。その単語がカイキの聴覚を抉るように貫く。

(サソリ?)

 思わず、カイキは足を止めていた。

 忌まわしい記憶は、今も尚カイキを呪縛している。

 呪われた身体。

 体内で密かに息づく誓約。

 蠍の猛毒。

 子供のように無邪気な声――呪詛――誰にも従ってはいけない誰も愛してはいけない誰にも喋ってはいけないのろいのろいのろい呪いのろいのろい呪いのろい誰にも従ってはいけない誰も愛してはいけない誰にも喋ってはいけない誰にも従ってはいけない誰も愛してはいけない誰にも喋ってはいけないだれにもしたがってはいけないだれもあいしてはいけないだれにもしゃべってはいけないだれにもだれにもだれにもだれにもだれにもだれにもだれにもだれにも。

 頭が混乱する。

 次第に血の気が退き足許から力が抜けてゆく。全身の毛穴が開き、脂を含んだ汗が噴き出してきた。耐えきれずに、カイキはその場で崩れ落ちた。辛うじて地に膝をついて昏倒だけは免れたが、嘔吐感を消し去ることはできない。胃から吐瀉物が迫り上がってくる。何度も吐いた。背を丸めて何度も何度も、胃液で咽喉が爛れるまで吐き続けた。

(あの声が)

 カイキは嘔吐の為に半ば涙目になり、潤んだ網膜が視野を狭める。世界の色彩が奪われて、現状を認識できない。ごほごほと咳き込むと、やっと周囲の景色が把握できた。

「大丈夫、カイキ!」

「しっかりしろ!」

 マーキュリやパシャや、同僚である護衛士たちが上からカイキを覗き込んでいる。一様に狼狽の表情を浮かべ、怒号のような太い声が上空で飛び交っていた。

 カイキは腕を交差させて顔を覆い、思わず笑った。

(みっともない)

 こんなはずではなかった。

 あの《魔女》の声を受け入れたのは、幸せになる為だったのに――それがどうだろう。今は戦慄し、怯え、惨めな姿を晒して生き長らえている。誓約を破った訳でもなく、猛毒に苦しめられた訳でもない。ただ《蠍》の名を聞いただけで、こんなにも動揺する自分がいる。

 情けない。

 自嘲しながらカイキは半身を起こした。身体はまだ少し震えている。だが気力を振り絞って立ち上がる。

「平気だ」

 カイキは虚勢を張りながら剛胆を装い、袖口で口許を拭った。護衛士たちの巨躯を掻き分けるように押し退ける。醜態を晒してしまった恥辱の為に、皆に礼をいうどころか顔を合わせることもままならない。

 カイキは足先に過分な力を入れて、すたすたと歩き始めた。まだ多少ふらついてはいるが、我慢できないほどではない。重かった頭も徐々に明朗となってきた。

(考えるな)

 躍起になって己に言い聞かせる。

 今更後悔しても遅い。契約は成就されたのだ。カイキは近衛兵として城で勤務することが叶い、ヒオンと共に食い扶持に困ることはない。寒さに震え凍える心配もない。

 他にどうしようもなかったのだ。

 七歳の自分が選択した道。あの契約が縛る意味がどれだけ重いものだったか、当時は何もわからなかった。貧しい困窮から逃れる為ならば、何でもできると信じていた。

 あの時、カイキが未来を予測できていれば現在はない。毒に怯えることもないが、安定した生活を得ることもない。どちらが幸せだったのだろう。わからない。全ては、己の無知が招いた結果なのだ。仕方がない。そう諦念するしかなかった。

 契約を破棄する方法はある。

 簡単なことだ。誰かに正直にありのままを告白してしまえばいい。話を聞いた人間が、カイキの正気を疑おうが笑って一蹴しようが構わない。誰かに喋ってしまえば全てが終わる。カイキの死という結末によって。

 忘我を努めようと固く瞑目していると、背後から肩を叩かれた。振り返ると、マーキュリが不安な色を湛えた顔で正視してくる。

「君は何らかの持病を患っているのかい? とつぜん嘔吐するなんて尋常じゃない。顔色もまだ真っ青じゃないか。横になって少し休んだ方がいい」

「平気だといったはずだ」

 カイキは強い眼力を放ち、マーキュリを威圧する。ふたりの間に緊迫した空気が流れ、張りつめた糸のような緊張が漂った。その静寂を解いたのはマーキュリだ。口許にふっと気障な笑みを浮かべて破顔する。

「君はまるで野性の獣だな。弱点や欠点を人に晒したくないんだろう? だが人の好意に甘えるべき時は甘えるべきだし、医者の指示には従った方が得策だよ」

 カイキは視線を逸らして首を振り、断固として拒絶した。

 マーキュリは肩を竦めて苦笑する。医者が患者に療養を強要しても、本人がそれを望まない限り快復は見込めない。

「なるほど。神話がよほど刺激的だったらしいね」

 その通りだ。カイキは心の中でマーキュリの冗舌に相槌を打った。マーキュリの肩越しには、心配げな表情を浮かべた姫や護衛士たちが立ち尽くしている。カイキが黙っていると、場を和ませるつもりなのか軽口が続く。

「それとも、もっと扇情的な方が良かったかな。まあ、どちらにしろ……今度はもう少しマシな話を用意しておくよ」

 マーキュリは姫の言葉を真似て、軽薄そうにウインクしてみせる。そんな仕草から、カイキの肩から一気に力が抜けた。



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