その5
女帝の気まぐれで殺されてゆく人々――だが、国に棲む者たちは城内での仕事が与えられることを待ち望み、倍率の高い試験を受けて、待望の勤務につく。城内での勤務は、他よりも断然に賃金が高かった。街で働くより三倍も高い。
街では、城での実状が噂となってまことしやかに囁かれている。だが金の魅力には抗えない。毎日毎晩、湯水のように人が殺される訳ではないし、女帝の不興を買わなければ殺されることはない。革命を起こそうなどと考えず、言われるまま女帝に従えばいい。
カイキが入城を許されたのは幾つの頃だったろう。ブヴボン国には、天才児を発掘し育成するシステムが古くから存在する。幼い頃に試験を受けてそれに合格すれば、一定時まで教育費が免除されるというものだ。合格したカイキは、親のないヒオンと共に入城し、それからは必死に勉強した。剣術も覚えた。
やがて一人の兵士として認められた。
カイキは女帝が産んだ娘――ブヴボン王女を護衛している。思えば、あれから女帝から一目置かれるようになったはずだ。
護衛士の試験に合格したのは今から五年前で、まだ一二歳だった。まだ先代の王が病を煩っていた頃だろうか。試験に合格した者は数名だったが、ひときわ若かったカイキは、すぐに女帝の目にとまった。即座に「そなたを我の護衛士に命ずる」と言われ、カイキはそれを断った。なぜならカイキは誰にも従ってはいけない――。
(それが約束だ)
遠い日に遭遇した不幸の源。それは未だにカイキを束縛し続けている。
ただ断るわけにもいかなかったので、姫の護衛を志願した。いわば、今の職務は成り行きで決定したともいえる。だが女帝を護衛するより遙かに充実した。姫の護衛士になったことで、極力、女帝の顔を見ずに済むからだ。
黙り込んだカイキを見かねて、マーキュリは拳を降ろした。
「落ち込むことはないさ。女帝の言動に虫酸が走るのは、誰もが感じていることなんだ。だが誰にも止められない。何しろ彼女は人が持つべき尊厳がわからないんだ。彼女曰く、彼女は人ではなく王だそうだからね。君の無鉄砲さは相変わらずなようだけれど、気をつけないと命が幾つあっても足りない」
「仕方ない。性分だ」
今度はカイキが肩を竦めた。
マーキュリは苦虫を噛み潰したように渋面を作り、やがて諦めたように溜息をついた。
「……君の性分というヤツは厄介だな。僕はいつも近くで見ていてハラハラさせられる。心臓に悪いから、できれば控えてくれないか」
「できない。俺は誰にも従わない」
カイキは真顔で断言した。
その潔い返事に絶句したマーキュリは、風船が萎むように脱力する。
「わからないな。君が女帝にとって特別なのは承知しているけれど……君が殺されないとどうしてそうもキッパリと言い切れるのか、僕には不思議でならないよ」
カイキは死を恐れないのだろうか。
死を甘受できる人間が、この世に存在するのか。
女帝に逆らうことはイコール死に繋がる場合が多い。ほとんどだ。毒殺されるか、死を宣告されて囚人として投獄されるか、その場で殺されるか――方法はまちまちだが、女帝の気分のままに刑が執行される。
カイキは不本意そうに眉間を歪めた。
「ここではっきりさせておきたい。いいか。俺は特別扱いを受けているわけじゃない。お前と同じで城に勤務しているだけだ。女帝と特別な関係にあるわけじゃないし、女帝に特別な感情を抱いてるわけでもない。女帝を尊敬もしてないし服従もしてない。ただ護衛兵として勤務しているにすぎない」
「その意見がまかり通るならば、城内の誰からも死人が出ないよ」
カイキの発言はしごく尤もだ。しかし女帝にその理屈は通じない。王は絶対なのだ。誰も許されはしない。カイキ以外には。
カイキは意地悪く含み笑った。
「そういうお前こそ、女帝にずいぶんと可愛がられてるだろう」
「それこそ――僕の作ったドレスが好きなだけさ」
「どうだか」
胸を張ったマーキュリを一蹴するように微笑を浮かべる。
カイキは、なぜマーキュリが女帝から恩恵を受けているのか、その理由を知らない。これまで興味を持ったこともない。だが、大体の想像はつく。マーキュリは女帝に似合うドレスを繕うばかりが能ではなく、若くして医師や教師や錬金術師などの資格を持つ、いわば頭脳派だからだ。女帝の戦略は武力よりも外交で他国と対等に渡り合うことだと明言している。いつか自分の勢力や権力が衰退することもわかっているのだろう。人間はいつか老いる。その時に備えて使える頭脳を持つ人間を優遇しておきたいのだ。
カイキは寝台の端に腰かけ、ヒオンの額に手をあてた。少し熱を帯びている。
背後からマーキュリの声が追いかけてきた。
「もう発熱がはじまったのかい?」
「少し」
「心配しなくても、夜まで付き添える介護人を用意しておくよ。氷水は僕が持ってきておく。なにせ、君はまだ職務中なのだろう? 姫の傍を離れて妹を助けに行ったのならば、きっと姫がやきもきして待っている」
マーキュリの気の利いた台詞にカイキは目を丸めた。普段なら、けして見せない表情だった。カイキの狼狽を見たマーキュリもそれに驚いて目を丸める。
カイキはまず、他人であるマーキュリが妹の安否に頓着するのに驚いた。どうしてそこまで他人を気遣い、優しくするのだろう。さっき言ったばかりではないか。
他人の死は救わない――と。
マーキュリは、茫然とするカイキの眼前で手を左右に振って視点を確かめた。
「聞こえているのかい? 僕も今日は姫に朗読を聞かせてあげる約束していたから、すぐに追いかけることになるけれど、君は先に行くべきだ。護衛士だからね」
揶揄めいたマーキュリの笑声で、カイキは我に還った。わざとらしく咳払いしながら表情を戻し、涼しげな顔つきでマーキュリを眺める。ポケットに手を突っ込み、皮で作られた財布を取り出しておもむろに訊いた。
「治療費は幾らだ?」
「もう貰っているよ」
カイキは不審そうに目を細めた。マーキュリが放った言葉の意味がわからなかった。
マーキュリはヒオンを診療した。その上で無料なのは不自然だし、無償の善意などと言われては逆に信用できない。カイキは無償の善意など信じていない。つき合いの長いマーキュリから「友人だから料金はいらない」などと言われても迷惑なだけだ。
友人だからこそ自分を助けてくれる。だが、友人でも払うべき金は払う。友人同士で金銭トラブルが起きた場合、既にそれを友人関係とは呼べない。常識だ。
それに――ここでマーキュリに借りを作ったとしても、カイキには借りを返すことができない。何を頼まれたとしても、命令やお願い事は叶えてあげられないのだから。
「幾らだ?」
「くたばれ」
マーキュリは麗らかな笑みを浮かべながら、下品な侮蔑を口にした。カイキは理解できずに沈黙する。
「君が女帝に言った言葉だよ。僕は、いつもいつも女帝に言ってみたかったんだ。それが治療費代わりさ」
「お前は阿呆だな」
カイキは思わず苦笑して、所在なかった財布をポケットに戻した。
「でも、介護人への料金は別だから」
マーキュリがおどけた口調でつけ加えると、カイキは口唇だけで笑みを返した。
マーキュリには、カイキの本質的な部分はほとんどわかっていない。だが表面的には、充分わかっているつもりだ。金に対してだけでなく、カイキは自分が決めたことは徹底して実現させていく意志の強さを持っている。女帝に従わないといえば絶対に従わないし、金を払うといえば絶対に払うのだろう。
マーキュリは柔和になった空気を更に和らげるように皮肉を続ける。
「君が家族を大切にするなんて意外だったな。まあ……僕は、君に家族がいたこと自体が信じられないけれどね」
「そんなにおかしいか?」
「おかしくはないけれど、意外だった。家族の為に必死に走ってくる姿には、少しばかりの感動を覚えたよ」
カイキはいつも透明な膜に覆われている。他人を信じない警戒心という厚い膜だ。
共に学童であった頃は、勉学に励むのに忙しくて友人など作る余裕はなかった。無口な少年時代を過ごした。少なくともマーキュリはそうだった。カイキとの会話だって、必要以上の会話など交わさなかった。それから互いに職につき、黙々と仕事をこなす毎日が続いた。だが、顔を合わせれば自然と挨拶する仲になっている。それは単に顔見知りだったからかもしれない。
しかしマーキュリやカイキには、気軽に挨拶をする者が他にいなかった。城内で、女帝から特別な扱いを受ける人間を友人に迎えようなどと酔狂な考えを持つ者は少ないだろう。触らぬ神に祟りはない。仮に酔狂な人間がいたとしても、よほどの野心家か、偽善者か――どちらにしても、マーキュリが友人になりたいと判断する者は現れなかった。
友人と呼べる友人らしい者など誰もいなかった。マーキュリはカイキを友人として扱っているが、それはマーキュリが一方的に思っているだけにすぎない。友人であるか否かなど、一度だって確かめたことはない。
だが、マーキュリにとってカイキは友人と形容すべき人間なのだ。
「マーキュリ、お前に家族はいるのか?」
唐突に投げられた質問。マーキュリは冷や水を浴びせられたように背筋を伸ばした。そして苦笑する。まさか、自分の素性を聞かれるとは思わなかった。
「確かに……君と家族の話なんてしたことがなかったかもしれないな。君は余計な詮索はしない性分だろうからね」
「お互い様だ」
カイキは目尻を垂らして、皮肉げに笑う。
「一緒にされるのは不本意だけれど、まあいいか。そうだな……僕に父はいなかったけれど、母は立派に僕を産んでくれた。兄弟はいない。その母親も今はいない。天涯孤独さ」
水がゆるい谷を下るような滑らかさでマーキュリが告白する。
カイキは言葉に詰まった。カイキも同じく両親を早くに亡くしている。今はたった一人の妹だけ。二人しかいない家族。だが、天涯孤独という響きはもっと寂しく耳に残った。
両親を亡くした時の喪失感――汚い山小屋で過ごした荒んだ毎日――鉱場で飛び交う大人の怒声――妹を抱えて生きていかねばならない使命感――将来への不安――絶望。
だが、天涯孤独という言葉が奏でる寂寞が重くのしかかってくる。どちらが不幸なのかは秤にかけられない。だがカイキとて妹を失えば、マーキュリと同じ立場だった。
いつも空腹を抱えていた。何かに縋らなければならないほど逼迫していた。そして、あの忌まわしい声が――。
過去が頭を席巻する。忘れたくても忘れられない声。激しい眩暈を覚えて頭をかかえた時、マーキュリが控えめに声を漏らした。
「僕の母は死んだ。女帝に殺されたからね」