その4
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辿り着いたのは城の中心部から外れた場所だった。
宮殿の裏にある造庭園を抜け、階段を降り、身分の低い者が通る為に設置されたぬかるんだ道筋を進む。一面の芋畑を過ぎると、身分の低い使用人たちにあてがわれた粗末な小屋の群れが並んでいる。マーキュリは、ただ黙ってカイキの後ろを追随してきた。カイキの背中が殺気立っていて、何も話しかけることができなかった。だが、カイキはマーキュリが後続してくることを黙認していた。
カイキは迷うことなく一つの小屋を目指し、施錠されていない扉を開く。
石畳で作られた粗末な部屋は、まるで牢獄さながらの殺風景を保っていた。違いと言えば、窓に格子がないことと扉の開閉が自由に許されていることぐらいだろう。
マーキュリが物珍しさに目を巡らせる。
「僕は他人の家にお邪魔した経験がないから、こういった感想は見当違いかもしれないけれど、ここが彼女の部屋だとしたら、彼女は随分と倹約家だってことが推測できるね」
「ここは俺の家だ」
カイキが毅然とした口調で言い放つ。
一人用のベッドが壁際に置かれ、反対側の壁には衣装を収納する木箱が置かれている。タンスと呼べるものではない。無造作に開かれた木箱の中には兵士としての衣装が三着と数枚の部屋着、換えの下着が数枚に二足の靴が見え隠れしている。
机は必要ないらしい。時計もない。装飾品など一切ない寒々とした光景には台所さえない。かろうじてトイレはあるかもしれないが、恐らく風呂はないだろう。
はじめてカイキの部屋を訪れたマーキュリはその質素さに驚いた。ひとつ頷く。
「ふむ。なるほどね。でも、ひとつ質問してもいいかな。君の役職からして、こんな辺鄙な場所に部屋が用意されているのは疑問が残る。君のような立場にある人間ならば、もっと上等な部屋があるだろう?」
「ここが気に入ってるんだ。俺の趣味だろう。放っておけ」
「君は剛胆だけれど無欲だな」
マーキュリはふたたび部屋を見渡して、呆れた口調で呟いた。
マーキュリより賃金が低いとはいえ、カイキだって常人よりも多く金を稼いでいるはずだ。だが人の趣味嗜好は千差万別である。確かに、マーキュリが口を挟むのは余計なお世話だった。
負傷した妹を丁寧に寝台に横たえると、ようやくカイキは安堵の息をついた。
「診てやってくれ」
「診療するのは構わないけれど――しかし、君の妹はすごい忍耐力だな」
ヒオンの服を肩口からハサミで切りながら、マーキュリは呟いた。
マーキュリはドレス職人が本業だが、他に医師の資格と教師の資格なども持ち、錬金術の研究も行っている。いわゆる天才児なのだが、彼は芸術家としてドレス職人になる道を選んだ。今だって、女帝に従っているという腹づもりはない。女帝に仕えていれば、費用を考えずに自由にドレスを作れる権限が与えられる。城で働く魅力はそれだけだ。
カイキは腕を組みながら壁際に背凭れると、軽く小首を傾げる。
「なぜ俺の妹だと知っている」
やはりカイキは、怒りで興奮していたらしい。マーキュリが同席していたことに気づいていなかったようだ。
マーキュリは軽く溜息をつく。
「くたばれ、だったろうか。つい今しがた君の雄姿を見たばかりだからね」
「さっき廊下で逢ったのは偶然じゃないのか。道理でタイミングが良いはずだ。もしかして、ヒオンが打たれていたのをずっと眺めていたのか?」
「言っておくけれど、僕はその前からあの場にいたよ。女帝にドレスを届けてから、ずっと拉致されていたからね。それから恒例のドレス検査につき合わされた」
マーキュリはヒオンを診察しながら、ひょっこりと首を竦めた。患部である肩に触れると、ヒオンが苦痛に顔を歪める。
「君の妹が女帝のヒステリーに巻き込まれたのは災難だけれど、まだ救いようがある。ひどい部分でも脱臼と骨折で済んだからね。骨折といっても軽くヒビが入ってる程度だから、何日か安静にしていれば日常生活に戻れるはずだよ。肩って意外に頑丈なんだ。痛いのはたぶん脱臼の方だろうし、脱臼は間接に入ればすぐに治るし――よっと」
ヒオンの身体を起こし、肩を組むようにヒオンの脇に滑り込む。ヒオンは不安げな表情を浮かべながらも、まだ痛みが続いているのか下唇を噛んで懸命に堪えていた。
「痛いかもしれないけれど」
マーキュリは呟いてから、意表をついて突然ヒオンの脱臼箇所を間接にはめ込んだ。激痛に襲われたはずのヒオンから悲鳴があがることはない。確かな手応えを感じたのか、マーキュリは満足げに頷く。
ヒオンの身をふたたび横たえて、マーキュリはカイキを振り返った。
「けど、君に妹がいたなんて知らなかったな。美人じゃないか」
「まだガキだ」
「若いけど美人だし、それに気丈だ。正直にいえばいいさ。美人だから、妹の存在を隠してたんだろう? 心配しなくても、兄に内緒で口説こうなんて考えてないよ」
「別に隠してたわけじゃない」
カイキはやや俯き、足下を見つめながら数秒ほど沈黙を守った。
あの傲岸不遜な女帝は、何かにつけてカイキに絡んでくる。カイキが目立つ行動を取れば取るほど、妹に被害が及ぶのではないかと危惧していた。だから妹の存在を隠すようになった。これまでは、カイキの妹であるからという理由でヒオンが体罰を受けたことはない。まさか、今日のようにヒオン自身がヒオンの罰として叱責されるとは考えていなかった。城内に勤務していれば、誰にでも起こりうる危険――その可能性までは防げない。
マーキュリはポケットから小さな裁縫道具を取りだした。たやすく針に糸を通して、さきほど裂いたばかりのヒオンの服を縫い始める。
マーキュリの器用な手先を見つめながら、カイキは問いかけた。
「ヒオンはどれだけ打たれた?」
「偶然にも、彼女の持っていたドレスが汚れていた。たったそれだけのことで、全身を殴られていたよ。傷跡を見る限りじゃあ、あれでもかなり手加減して打ってたみたいだな」
言葉尻に合わせるように、マーキュリは縫合の終わった糸を噛みきった。
ドレスにシミが残っていた理由は、すぐに見当がつく。酒に酔った女帝が自分で酒を零したに違いない。もしや、それを知っていながらドレスを収納させたのだろうか。
後々、誰かを裁けるように。
本気で殴りたい訳じゃない。本気で死を宣告している訳でもない。女帝は戯れに誰かを殴りたくなるのだろう。
「しかし気丈な娘だね。女帝に打たれても全く悲鳴をあげず、激痛にも耐え、気絶もしていない。自殺を強要されても泣き言ひとつ言わなかった。今だって呻き声ひとつ漏らさないじゃないか。全くすごいことだ。その精神力は感服に値する」
マーキュリの賛辞に重なり、カイキが言葉を乗せた。
「違う。ヒオンが悲鳴をあげなかったのは、痛くなかったからじゃない。ヒオンは喋れないんだ」
「ふむ、いつから?」
「両親が亡くなってからすぐだ。ヒオンが五歳の頃から……あれから少しの声も出ない。だから呻くこともできない。俺ですら、ヒオンの声を覚えていない」
「なるほど。それは声帯に異常をきたしている可能性もあるけれど、心因性と考えた方が正しいかもしれないな。両親を亡くした喪失感が、彼女から声を奪った。どちらにしろ、治療を施してみないと正式にいえないけれど」
服の具合をチェックしてから、マーキュリは指で輪を作ってヒオンに見せた。
「普通、事故や激しい衝撃で声帯を損傷しなければ声は出るはずだよ。せめて呻き声くらいは出るものさ。彼女が意識していない無意識の中で、発声を拒まない限りね。僕の浅い知識では、それくらいしか言えないな」
「……そうか」
カイキにヒオンの望みはわからない。
言葉を取り戻したいのか、それとも声の出ない現状に満足しているのか。
彼女は言語を理解している。彼女が何かを伝えたい時にはジェスチャーや筆談で意志の疎通を行ってきた。これまでヒオンが、失った声について治療を希望したことはない。
マーキュリは毛布を掴み、ヒオンの首までかけてやった。
「不幸中の幸いともいえるけれど、やっぱり可哀想なものだな。僕だって、君の妹だと知っていれば……」
「助けたのか?」
マーキュリは天井を見上げて犬のように低く唸った。髪についた雫を払うような仕草で軽く頭を振る。
「いやそれはありえない。僕にその権限はないし、女帝を止める力もないからね。そんなことは君だって知っているだろう? 助けたい気持ちはあるけれどそれは非常に難しいことだよ。彼女の持つドレスを事前にチェックしておくぐらいはできるけれど――」
マーキュリはそこで言葉を切った。カイキが軽蔑の光を宿して、マーキュリを見据えていたからだ。マーキュリは不満げに口唇を尖らせ、カイキの肩に拳をあてた。
「そんな目つきをしたって怖くないさ。なら聞くけれど、君は今までに危険な目に遭った女官たちを救ったことがあるのかい? 身内に限らず、誰かれ構わずに身を呈して守ったことがあるかい?」
「いや一度もない」
カイキは目を伏せて自嘲した。