その39
本心から死を覚悟しているのか、カイキが剣を振るわないと高を括っているのか、女帝は潔く言い放つ。ようやく己の罪を認めたのかもしれない。だが名指しされても、カイキが直接手を下すことはできない。
カイキはマーキュリを振り返った。マーキュリはこくりと頷くだけで言葉を発さない。並んだ兵士たちを見回して助言を仰いだが、誰もが固唾を呑んでこちらを窺っている。
そうだ。
いつだってブヴボン国民は女帝の所行に目を瞑り、ただ成り行きを見守っていただけの傍観者の集まりだった。以前のカイキと同じく他人のことに干渉せず、神と王を盲目に信じ、身近な者が殺されてもじっと耐え忍ぶ。けして王には逆らわない。王家は絶対であり、王家の支配なしには生きられない。
カイキがやるべきなのはわかっている。女帝の胸に剣を突き立て、首を斬り落とせばいい。民衆の意志でもある。そうしてやりたい。だが契約がそれを阻む。女帝が死を望むのなら、死を与えてはいけないのだ。
カイキが逡巡していると、女帝が首にかかったネックレスや指にはめた宝石類を外し始めた。それを価値のないゴミのようにぽいぽいと地面に投げ捨ててゆく。結った髪をほどいて女帝は何度か首を振った。
「ブヴボンが継続されてゆくのなら、王は誰が任しても良い。たとえ王族でなくとも良い。国を治められる者があれば、その者にブヴボンを託す」
本気で玉座を捨てる気だろうか。
王は王族である必要はない。常々パシャが言っていた批判を模倣した言葉を、まさか揶揄された本人の口から聞くとは思わなかった。
「トテジは言うておった。王たる称号は王たる資質を持つ者に似合う。王族の血統に意味はなく、その名だけでは信頼を得るに値しないと。我も同意した。ゆえに王族ではない我が王につき、国を治めようとした。結果、我に王の資質はなかったようじゃがの」
女帝はわずかに苦笑した。
「――我は玉座を降りる。皆の者。姫の弔いであるポリョジン国との戦いは、次代の王が采配することとなった。どうか、ブヴボンの存続に力を貸しておくれ。残りは語るべきではないの。勝利を祈っておる」
「なにをいってる?」
カイキは困惑気味に目を細めた。
なぜ、ブヴボンの存続を危惧しているのだ。何との勝利を祈っている?
支離滅裂な言葉に不可解さを覚えるカイキとは裏腹に、兵士たちからは歓喜の声が怒濤のように押し寄せた。女帝が玉座を放棄する。それは――不興をかえば女帝に殺されるという、恐怖政治から解放されたことを意味していた。喜んでいるのは兵士だけではない。女帝を警護してきた護衛士たちですら、銃を放り出して喜びを噛みしめている。抱き合って涙を流す者までいる。
(待て)
カイキは長年放置した抽斗のように乱れた思考を整理しようと努めた。
女帝の圧力から解放された、と単純に喜べない。少し前――ほんの少し前に、パシャの弔いと称して、兵士たちに犬死にを命じたばかりではないか。女帝が玉座を降りることでポリョジンとの戦いは、戦わずして終結することになる。では、ポリョジンを襲撃するといったのは戯言だったのか。
噛み合わない。
女帝は前王を愛し、パシャを愛していたと公言した。本心なのか嘘なのか。大虐殺を繰り広げた独裁者の言葉を易々と信じることはできない。
何よりも驚いたのは――女帝が《声》を聞いたことがあるということだった。到底信じがたい話だが、簡略に嘘だとも断定できない。なぜなら、カイキは《声》との遭遇を他言していないのだから。しかし女帝を信じるなら《声》は複数あることになる。
(どういうことだ?)
もっとも懸念されるのは最後の言葉だ。ポリョジンとの戦いを断念しているはずの女帝が、どうしてブヴボンの勝利を祈る必要があるのだ――。
女帝は、天から祝福を送る女神のように満足げに微笑んでいた。兵士の声が増幅する最中、女帝が振り返り、カイキは複雑な表情でそれを迎えた。女帝はいつものように緋色の口唇を横に引く。
「我を殺せ」
「なぜ、俺にいう?」
苦し紛れに、カイキは質問を返した。
「我が憎いのだろう。我を必要とせぬのだろう。我の死を願っているのだろう。そなたの悲願が叶う時ではないか。さあ、我を殺せ」
カイキは黙って女帝を見つめた。無抵抗な人間を殺す主義ではない、などと綺麗事をいうつもりはない。本気で女帝を殺したいと思った。今でも思っている。だが女帝から迫られるほど、胸の圧迫感が増していった。女帝への殺意を成就したい気持ちと、契約に逆らえない葛藤に押し潰される。
「我は、もっと早くに死ぬべきだったのかもしれぬ。だが決断を鈍らせたのは神の教え。それに姫と民の存在じゃ。そうでなければ……我は……本当は……死を……」
「なぜだ」
女帝は両手を広げながら、無防備な格好で一歩一歩近づいてくる。それに反して、カイキはじりじりと後退した。
「我を殺せ、カイキ」
カイキはふるふると首を振った。パシャへの弔いとして、女帝に剣を向けるべきなのはわかっている。玉座を降りるというだけで、一万人の命を償ったとはいえない。許すべきではない。殺すべきなのだ。わかっているのに、カイキはただ首を降り続けた。
あれだけパシャに誓ったはずなのに――自分の命に替えてでも女帝を討とうと、心に誓ったはずなのに――今、女帝の言葉に従って女帝を殺せば、あの猛毒に苛まれることになる。己の命と引き替えにしてでも女帝を殺すと、あれだけ心に刻み込んだのに、剣を向けることができない。
「聞こえぬのか、カイキ! 我を殺せ! 我は死にたいのじゃ!」
女帝は叱責するように詰め寄ってくる。こちらの騒動に気づいたのか、中庭に静けさが戻ってきた。今まで国を治めてきた独裁者と、そのお気に入りが諍いを起こしている。興味本位の者はにやにやと破顔し、同僚の護衛士たちは真剣な眼差しで様子を窺っている。
「頼む……殺してくれぬか」
女帝の口調は哀願に変わっていた。カイキは得体の知れない化け物から逃れるように、じりじりと摺り足で退がる。
「この機を失えば、我はまた死を恐れてしまう。慈悲じゃ。どうか、我を殺しておくれ」
女帝が両手を伸ばして必死に訴える。
これは誰だ。これが数万人の命を奪った独裁者の末路か。改悛した姿なのか。カイキは動揺したまま、女帝に見入っていた。
その時、中庭を揺らすように一陣の風が吹き抜けた。対峙していたはずの女帝が、ゆっくりと前のめりに倒れる。その背中から噴水めいた血飛沫が鮮やかに舞い散った。
倒れる女帝と相反するように人影が現れる。地面から生える太い幹のように、人影が浮き上がってきた。
「……お前……どうして……」
カイキは驚きのまま、その人影――血を啜った剣を振りかざしながら、悠然と近寄ってくるバジを見つめた。予想もしていなかった。バジだけは女帝に牙を剥かないと、バジだけは女帝を擁護し続けるのだと、そう思っていた。
女帝の背中には、鋭い太刀傷が斜めに走っている。衣服を浸食する血がおびただしい。まだ意識を保っているのだろう、女帝は苦しそうに息を吐きながら悶絶していた。
バジは女帝の傍に辿り着くなり、縦に握った剣を女帝の背中に突き立てた。女帝の身体が微弱に波打ち、口から大量に吐血する。何かを呟いているようだが、口腔に詰まった血のために聞き取れない。バジは痛ましい顔で女帝から目を背け、カイキに問いかけた。
「満足ですか?」
カイキは答えられなかった。
女帝の死を願い、何度も実行しようとした。女帝が言ったように悲願を果たした。だが心はどこか空虚を彷徨っている。女帝が死ぬという安堵と毒に襲われずに済んだ安堵、そして、そんな自分を卑劣に想う心がせめぎ合っている。
「満足ですか」
バジは剣を腰に納めながら、もう一度繰り返した。
「以前、あなたはこう聞きました。私が女帝の愛人ではないか、と。答えはノーです。女帝に愛人など存在しません。彼女は前王と姫を何より愛していました」
どこか焦点の合わない目がカイキを捉えている。バジからは怒りも憎しみも感じられない。あるのは僅かな悲哀だけだ。
「あなたは、私に聞きました。大切な者はいないのか。本当に愛する者はいないのか。答えはイエスです。あなたはこう続けました。だが、お前にとって女帝という王がすべてなんだろう。イエスです。そしてあなたは聞きました。女帝が、私の愛する者を殺せと指令したらどうするのか、と」
バジは今にも泣き出しそうな顔で、足許に転がる女帝に悲しげな一瞥をくれた。
「これが答えです」
悄然と肩を落とし、精気の萎えた農作物のように萎みきった顔で小さく呟く。
カイキにはまだ事態が把握できていなかった。バジが女帝を刺した。二度も。女帝の傀儡が主人を刺した。その事実が頭から離れない。
「私はあなたが羨ましかった。彼女の寵愛を受けていたからです。だが私はあなたが憎かった。彼女の寵愛を無碍にしつづけたからです。私は言いました。私の愛する方は、絶対に私を愛しはしないと。だけど私は彼女を愛していました。美しい瞳。気高さ。甘い声。私はすべてに酔いしれました。私は女帝の虜です。私のすべてです。彼女が望むことはすべて叶えます。たとえ、それが彼女を殺すことになろうとも……」
「お前……」
この時、ようやく悟った。バジは純粋に――ごく純粋に女帝を愛していたのだ。
外交参謀官であるバジが、女帝のためなら越権行為を冒して冷徹に剣を抜き、殺傷を続ける。心を押し殺して女帝の殺意を満たしてきた。女帝の狂気的な愉悦さえ、バジには至福であったのだろう。民が神や王家を慕うように、バジも盲目に女帝を愛した。
僅かながらも、まだ女帝の息は続いている。女帝はバジの気持ちに気づかなかったのだろうか。バジは女帝を見下ろし、自分の恋慕を恥じるよう自嘲気味に笑った。一度納めたはずの剣を引き抜き、静かに自分の首筋にあてる。止める暇はなかった。バジは悲しげに笑いながら、力強く剣を引いた。鋭い切れ味を誇るその剣は、見事にバジの首を斬りつけた。力が足りなかったのか、骨に到達したところで刃が止まっている。引き抜く力は残っていなかったのだろう、バジは首に剣を生やしたまま斜めに倒れた。粘った血液が溢れ出てきて、女帝から流れた血と混ざり合う。損傷したバジの喉笛からは、ひゅーひゅーと息が抜けていき、やがてそれも途絶えた。
酸味の強い血の匂いが鼻につく。カイキは放心したように立ち尽くした。目前には屍体がふたつ。討ちたかった女と倒さねばならなかった男。傲然と立ちふさがり続けたふたりが呆気なく横たわっている。
聴覚が音を遮断してしまったように、音というものを感じなかった。宿敵が死んだという実感が湧かない。パシャの時と同じく、屍体を屍体と判断することを知覚が拒否しているみたいだ。まだ血の気のある肌の色は、やがて石膏のように白く変化する。失血と共に体温は奪われ、パシャのように冷たくなる。頭ではわかっている。でもわからない。同情も後悔もしていないのに、喜びも充実感も達成感も生まれてこない。胸にぽっかり穴があいたような感覚に包まれる。
その時、女帝の指先が僅かに動いた。まだ息があったらしい。カイキは静かに歩み寄ると、女帝を仰向けに抱きかかえた。
「あんたは何を危惧していたんだ。あんたが死ぬと、なにが起こる?」
女帝は必死に言葉を唱えるが、声にならない。顔面にも白い腕にもドレスにも渇いた血が張りついている。
女帝は《声》を聞いた可能性がある。それを婉曲に問い質すことしかできないことがもどかしい。言葉にして正面から聞いた場合は、カイキ自身が《声》と遭遇したことを認めることになってしまう。それは契約違反だった。逸る気持ちを抑えながら、女帝の耳元で一語一語を丁寧に区切って聞いた。
「あんたは、なにを、願ったんだ?」
「――しほう」
女帝はそう呟くと、カイキの腕から折れ曲がるように、がくりと首を垂れた。しばらく屍体を抱いていたが、剥き出しになった白い咽喉が上下することはなかった。
ゆっくりと屍体を地面に置くと、しばらく茫然と立ち尽くす。後ろからマーキュリが肩を叩くまで、なにも考えられなかった。
マーキュリが女帝とバジの手首を順につかんで脈を確かめたが、すぐに首を振る。
「この国は葬式ばかりやっているね」
「……確かにな」
カイキは笑うことができなかった。
先日はパシャの葬儀があり、その前にも名もない女官や兵士たちの葬儀が数え切れないほど執り行われてきた。――その終幕。




