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かなえるもの  作者: 田中志摩貴
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その3

 娘も腫れあがった顔を手で隠しながら、驚愕のままに女帝を仰ぎ見る。

「我の問いにも答えず、言い訳もせぬとは何と生意気な娘よの。我の前で死んで詫びよ。そして去ね」

 女帝は口の端に笑みを作り、貴婦人の足取りで己の椅子に戻った。娘は蒼白然とした顔を更に白くする。言い訳や泣き言は言わない。女帝の含み笑いは消えない。

 娘は震えながら杖に手を伸ばした。

 どうせ死ぬのならば、その杖で女帝に牙を剥けばいい。マーキュリは思っていた。せめて一矢報いてから死ねばいいのだ。自分ならばそうする。

 娘が杖を左右に引っ張ると、内側に仕込まれた細い剣が現れた。あれは杖ではなく、剣と鞘であったらしい。剣が現れるなり、室内の緊張感が重苦しく濃密なものに変化する。

 誰もが娘の最期を確信し、悲哀し、心の中で神に祈りを捧げていた。

 ブヴボン国民のほとんどが信仰する神は、けして自殺を許しはしない。

 自殺した者は永遠に神とは切り離され、成仏できずにいつまでも地上を彷徨すると言い伝えられている。粗末な共同墓地に埋められ、誰にも供養されず、生きてきた事実すらも否定され、魂すらも忌避されてしまう。刑罰などでも最も非情な処罰に値し、目を覆うような凄惨な殺人を犯した者たちなど、神をも恐れぬ不届き者に用意された罰である。幾らイルマ女帝でも、滅多に自害を宣告することはない。しかし――。

 娘は現実味のない虚ろな瞳で剣身を見つめた。

 その鋭い輝きは目にするだけで寒気を誘い、恐怖を煽る。おそらく、ほんの少し力を加えただけで皮膚に食い込み、骨に達するだろう。娘は一度女帝を見上げたが、女帝から制止を促す声があがることはない。娘は諦めたように項垂れ、光る刃を首にあてた。

 娘は覚悟を決めたのか、最期まで言葉を発しない。涙も出ていない。

 マーキュリは信仰を持たないので、自殺に対する見解が他と違う。侮辱された上に残酷な拷問を受け、屍体を弄ばれるくらいならば、一思いに自殺してしまった方がマシだ。

 マーキュリはある種、自殺を恩情とも解釈している。だが他の者は違う。耐えられないほどの痛みや屈辱を受けた上に殺されても、自殺するよりは幸せなことだと信じている。自ら命を絶たなければ、死後に神が救ってくれるのだと信じている。

 空気が張りつめる。目を覆う者がいる。

 娘が頸動脈に当てた刀身を前に引こうとしたその時、乱暴に扉が開かれた。

「お待ちください!」

 背の高い少年が声をはりあげて、俊敏に駆け寄ってきた。その額には玉のような汗が生まれ、走るたびに頬へとすべり落ちる。

 少年の声に反応したのか、それまで精気の薄かった娘の瞳に光が戻る。娘が男の顔を確認するなり、娘は人生に満足したような笑みを浮かべて、ゆっくりと目を閉じた。

 娘が刃を引こうとした時、若い男が娘の手を思いきり蹴り上げる。その反動で弾かれた剣が、空中で回転しながら放物線を描いて床に転がった。

 マーキュリはとつぜんの闖入者に驚きを隠せない。目の錯覚かと思ってよく確かめてみたが、やはり顔なじみだった。なぜ彼――カイキが、あの娘の窮地を救ったのだろうか。

 カイキは、娘の腕を掴んで強引に立ち上がらせた。二人が並ぶと背丈の違いが目立つ。痛みの為に、娘が直立姿勢を保っていられないからかもしれない。

「なんじゃカイキ。そなたを呼んだ覚えはない。退がっておれ」

 女帝は扇子を振りながら破顔した。

 カイキの両眼は強い光を放ち、女帝を見据えている。マーキュリには、カイキの目が憎しみに燃えているようにみえた。カイキが娘の細い身体を庇うように両手で包み込む。

「いいえ、退がれません」

 女帝の笑みが歪んだ。

 この国で王に逆らう者などいない。いないはずだった。室内でまた息を呑む音が木霊する。女帝は顔にあった扇子を下げて、パチンと閉じた。

「我が退けというた時は退け」

「普段ならそうしたいところですが、退がる訳にはいきません」

「よくいうものよ。そなたが我の言葉に従ったことがあるものか。じゃが……この娘がどうしたというのじゃ。そう意固地になる問題ではあるまいに」

「これは私の妹です」

「ほう」

 女帝は面白そうに顔を崩し、しばらく声を殺して笑った。ひとしきり笑った後は、扇子で膝を叩いて身を乗り出す。

「その者はカイキの妹御か。なるほどのう。じゃが一つ聞きたいものじゃ。その者がそなたの妹ならば、我はなんじゃ。答えてみよ――我は何者か」

 女帝は悠然と笑った。

「くたばれ」

 カイキは言葉を吐き捨て、床に唾を吐き捨てる。

 女帝は声高らかに笑声をあげた。心地よい賞賛を浴びた時のように、気の利いた冗談を耳にしたように、なかなか靡かない男を跪かせたように、高く笑った。部屋にいた他の者はちっとも笑えなかった。

 カイキは妹の折れた肩に気づき、ヒオンを掬うように抱き上げて踵を返す。女帝を振り返ることもなく、まっすぐ扉に向かって歩いてゆく。マーキュリが同席していたことにも気づいていないようだった。

 カイキの後ろ姿を見送りながら、マーキュリは心の中で感嘆を漏らした。

 さすがはカイキだ。城の者たちは皆マーキュリを変人扱いするが、本当の変人というものはカイキのような男を指すのだろう。変人というより気が触れているとしか思えない。

 城内で――否、ブヴボン国において、王たる者にぞんざいな口を利けるのはカイキ以外には存在しなかった。

 なぜか女帝はカイキを罰することをしない。

 理由はわからない。

 どれだけ侮蔑を含んだ雑言を吐かれようが、カイキならば許す。寛大な処置を施す。カイキが女帝の愛人ではないことは、既に本人から聞き及んでいた。特別な関係にあるはずもない。元より、カイキは女帝など歯牙にもかけていない。女帝が振りかざす権力などに甘んじたりしない。始めは、なんて無鉄砲な男だろうとどれだけ心配したことか。

「マーキュリ、気になるのなら行くがよい」

 女帝が振り返って、嬉しい言葉をかけてくれる。バジを横目で覗くと、女帝の笑みに合わせて無感情な愛想笑いを浮かべていた。

 女帝が侮辱されたというのに、バジは怒りもしない。女帝が「カイキを捕らえよ」と指令を出すまで、絶対に動いたりもしない。女帝の前では、けして自分の意志で動くことのない、完全なる傀儡――。

「カイキとは友人じゃと聞いておる」

「ではお言葉に甘えて休ませて戴きます。僕は睡眠不足で身体が衰弱しきっていますから、そろそろ寝ないと死んでしまいそうです。死んでしまってはあなたに似合う素敵なドレスを縫うことができません」

「たいそうな理屈じゃ」

 女帝はくつくつと笑った。

 マーキュリは自分が特別な処遇を受けていることは知っている。よほどのことがない限り、女帝は自分を罰したりしないだろう。だがカイキは格別だ。格別待遇だ。

 くたばれ。

 心の中でそっと呟いてみる。だが口にする勇気は起きなかった。



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