その21
言葉が出てこない。だが目を離すこともできない。パシャは蝋人形のように、身じろぎ一つできず茫然と女帝を見上げている。
「我は姫に話がある。離れておきや」
女帝は護衛士たちに一瞥をくれると、低く指令した。護衛士たちは、パシャと女帝を見比べながら自分たちがどう行動すべきか迷っている。パシャを見つめて適切な指示を仰いできた。そこでパシャは、やっと覚醒したように目を見開く。ひとつ頷いて。
「大丈夫。離れていて」
情けないことに声が震える。
護衛士たちは、一様に心配そうな表情を浮かべながらも敬礼した後に踵を返した。離れるとはいえ、廊下を数メートル離れるにすぎない。だが不安に支配されたパシャにとっては、数キロも離れているように感じられた。不安だった。心から不安を覚えた。
異例の事態である。
最後に女帝と言葉を交わしたのは、一体いつだったろう。いつであろうと、忘れてしまうほど遠い過去には違いない。それが日に二度も顔を合わせた。手を伸ばせば触れられるほど近くにいる。
例えようもない畏怖に襲われる。パシャにとって女帝は母親だ。しかし、相手は人を殺すことを厭わない恐ろしい怪物であり、母などとは思えない。逆に女帝も、パシャを娘だとは思っていないだろう。単純に王家の血を継いだ者として扱うはずだ。
恐ろしかった。
これまで二人きりで話などしたことがない。なぜだろう。王家の血を継ぐ邪魔者を抹殺しにきたのだろうか。警戒しきっているパシャとは対照的に、女帝は毅然とした態度で部屋に入ってゆく。つられるように後を追うと、鳩たちの巣が目に飛び込んできた。
まずい。
八羽の鳩たちは、女帝が虐殺した鳩たちの生き残りだ。話題が鳩に触れたなら、どう説明すればいいのだろう。――いや。
パシャは腹を括った。話が鳩に関わることならば、強く非難してやればいい。自分は間違っていない。間違っていないと強く言い聞かせる。しかし、女帝は巣箱などに気づきもせずにパシャを振り返った。
「貧相な部屋じゃな」
軽く周囲を見渡して、ぽつりと呟く。女帝の金銭感覚からすれば、恐らく質素で地味な部屋なのだろう。しかし余計なお世話だ。
パシャはずっと黙り込んでいた。話があるのは一方的に女帝の方なのだし、できることなら言葉を交わしたくもない。女帝は勝手にソファに腰を下ろすと、足を組んだ。いつもより軽装ではあるが、派手な緋色のドレスを纏っている。先ほどとは違う服だった。日に何度着替えれば気が済むのだろう。あのドレス一着で、どれだけの人間が夕食を食べられるのだろう。無意識に軽蔑の視線を送っていたらしく、女帝の眉間に皺が刻まれる。
「何という顔じゃ。一国の姫たる者が見せる表情ではないであろう。久々に逢ったのじゃから、ゆるりと話さぬか?」
言葉の最後には微笑さえ浮かべている。何とめまぐるしく遷ろう気性なのか。パシャは強張る顔で、意識的に笑んだ。緊張して顔面の筋肉が固定してしまったみたいだ。無理にでも作り笑いをしなければ、胸中の畏怖を悟られてしまうようで恐ろしかった。ぎくしゃくする足取りで、何とか正面に腰を下ろす。――沈黙。居心地の悪い冷えた空気が室内に溢れ出した。だが、パシャから話を切り出すのだけはどうしても嫌だった。
「何年ぶりであろうな」
女帝は演技的に感情を含んだ声で切り出した。
厚く塗った化粧を見つめながら、将来の自分の顔を想像してみる。いつかベールを脱いだ時、年老いた時、女帝のように化粧をするのだろうか。女帝のような姿になってしまうのだろうか。不愉快なことに、口唇の形が自分とそっくりだ。いつか女帝に瓜二つだと言われるのなら、一生ベールを外さずにいようとパシャは誓った。
「トテジが生きていた頃からじゃから、もう何年ぶりであろう。我の記憶では、一緒に食事をしたのが最後であろうから、そなたが五歳の頃になるかの。そもそも姫はちっとも我に懐かなかった。いつもトテジの背を追い、いつもソテジの愛を求めた。姫は我を嫌っておったからの」
「――話は?」
耐えきれず、パシャは率直に訊いた。
昔話をしにきた訳ではあるまい。例え、女帝がそう言い張ったとしても信じられない。二人に共通する想い出などないのだ。ソテジを媒介しなければ、何一つないのだ。
用件があるならさっさと終わらせてほしかった。この緊張感には長く耐えられそうもない。本音をいえば、口を利くのも汚らわしいと思っているのだから。
「急くものではない。そう慌てなくとも良いではないか。久々に親子としての会話を育むのも一興だろうて」
「――話は?」
パシャは更に強い口調で切り換えす。
女帝は口許だけで笑むと、少しだけ身を乗り出してきた。
「残念なことじゃ。仕方あるまい。実は、姫に相談があるのじゃ」
「相談?」
何を企んでいるのか。嫌な予感がする。無意識のうちに腕を組むと、女帝の目尻が悪辣につり下がる。
「姫は、ポリョジン国を知っておろう?」
近日この国を来訪するという噂のある隣国だった。女帝はパシャをまっすぐ見据え、真剣な口調で語りだす。
「ポリョジン国の軍事力は目を瞠るものがある。彼の国は狭い国土ながら、兵の屈強さは他の追随を許さぬ。我が国が誇る壮麗さとは天地ほどの差もある無骨で野卑な国ではあるが、兵力のない我が国には欠かせぬ国じゃ。我としても、ポリョジン国と隣国であることは大変心強いこと。できうる限り、穏便に友好を保ってゆきたいと考えておる次第じゃ。彼の国の兵力があるからこそ、我らブヴボンの平和と未来は築かれてゆく」
知識上ではわかっていることばかりだ。
それから数分、ポリョジン国に関する情報が淡々と紡がれていった。パシャはそれでも我慢して耳を傾けている。
「……姫もわかっておろうが、ポリョジンとブヴボンは古くから国交ある友好国である。じゃが、彼の国から更なる強固な絆が欲しいとの申し出があった。ある種、今よりも結束の固い同盟を望まれているのじゃ」
「それはもう聞き及んでいるわ。近くに、宴を用意しているのでしょう?」
「知っておったか」
女帝は感嘆を漏らし、パシャは呆れ気味に溜息を吐いた。だから何だというのだ。外交が趣味なのだから、せいぜい金をばらまいて友好を築けばいいではないか。政策に口を出すつもりはないし、意見を挟む気もない。実質的に国を動かす権利を持つのは女帝であり、どんな案を出しても、考慮されることなく女帝の心のままに決定される。パシャに相談を持ちかける要素はないはずだった。
時間と気力の無駄だ。パシャは力の入らない足で立ちあがり、お引き取り願おうと考えて扉に向かって歩き出した。
「ついては、ポリョジンの皇子から姫に婚姻の申し出があったのじゃ」
パシャは足を止めた。
何をいわれたか理解できず、フル回転で思考を働かせる。婚姻――とは結婚するということだろうか。聞き間違えたのだろうか。
パシャはゆっくり振り返ると、大きく首を傾げた。女帝は余裕のある顔で頷く。
「ポリョジンの皇子が、是非に姫を迎え入れたいと申してきたのじゃ。無論、ブヴボンより貧国ではあるが、強国には変わらぬ。我とて資金の援助も惜しまぬ所存じゃ」
「まってよ!」
パシャは喝破するように叫んだ。
「私はまだ十四歳よ? 結婚なんて早いわ。それにポリョジン国の皇子って、皇子とはいえ四十歳を越えているじゃない」
「四十二歳じゃ」
どこに障害がある、と聞き返しそうな態度で女帝が飄然という。パシャの頭は混乱していた。何が相談なのだろう。どこが相談なのだろう。ポリョジン国の皇子が来訪することは決定しているというのに、今更何を相談しているというのか。相談ではなく、事後承諾をもらいに来ただけではないか。
パシャは怒りの為に全身をわななかせた。どこまで勝手なのだろう。国の為なら平気で人を傷つける。――わかっている。それは王として当然だ。仮に、強国であるポリョジン国から侵略を受ける危機にさらされているのなら、王家の人間として責任を取る覚悟はある。パシャが嫁に行かなければ戦争が始まるというのなら、婚姻も仕方あるまい。
だが今は平和だ。
ポリョジン国と敵対している訳でもない。近く戦争が勃発するという兆しもない。
なぜ結婚しなければならないのか。なぜ、今すぐに。
嫌だ。
明日の食に困って売られる娘とは訳が違う。今の話は、少しだけ高価なものが欲しい為に、身売りさせられるのにも等しい。
結婚なんて嫌だ。
いつかは必要かもしれない。いつかは誰かと結婚するかもしれない。だけど、今はまだ嫌だ。そもそも王家に生まれついたのだから、人並みに幸せで平凡な結婚を遂げられるとは思っていない。覚悟もしていた。だが今はその時期ではない。必要性を感じないし、実感も湧かない。
パシャは固く口唇を噛みしめた。女帝は徐に立ち上がるとパシャの御前まで悠然と歩いてきて、手を握りしめる。
「宴に出席してくれぬか? まずは互いによく話し合ってからでなければ、心を決められまい。逢ってから結論を出せば良いのじゃ」
嘘だ。
女帝の頭には、すでにパシャ用に作られたシナリオが完成しているに違いない。王家に生まれついた、単なる駒としての。
「無論、姫がどうしても嫌というのなら婚姻の話は白紙に戻そうとは思うておる。安心しておくれ。その為に、我はいろいろと策を錬ってきたつもりじゃ」
嘘だ。
パシャは俯きながら奥歯をぎりぎり鳴らした。女帝の冷たい手が、パシャの小さなそれにぎゅっと力を込める。
「……信じられぬかもしれぬが、我は姫のことをずっと気にかけてきた。姫に自由を与えてきたつもりではあるし、姫の幸せを考えなかったこともない。我は、姫に幸せになってもらいたいのじゃ」
幸せ。
何と白々しい言葉だろう。どんなに甘い言葉で懐柔を試みようと、通じるはずがない。浅はかな演技にはだまされない。
「とにかく宴に出てくれれば良い。婚姻のことは、後に考えて返事すれば良いのじゃ。とにかく姫が出席すれば、彼の国の皇子の顔に泥を塗ることはない。ひいてはブヴボンの面目も立つということじゃ」
絶対にだまされない。
心のこもらない言葉の数々。こんなに説得力のない台詞を誰が甘受するというのか。第一、簡単に人間を殺してしまうような人間の言葉をどうして信用できるだろう。
「冗談じゃないわ!」
パシャは悲鳴のような大声で拒絶し、女帝の手を振り払った。
女帝に目もくれず、懸命に駆け出して部屋を飛び出す。女帝の顔など見たくない。二度と目にしたくもない。おぞましい。おぞましい冷血漢。
パシャは廊下に敷かれた絨毯を蹴り上げ、少しでも遠くを目指して走り続けた。
護衛士たちが気づいて追いかけてきたが、構わず走り続ける。護衛士を振り切ると、途中でマーキュリと擦れ違った。焦ったマーキュリの声が背後に聞こえたが、足を止めなかった。階段を駆け下りると、広い踊り場で転んだ。膝を擦り剥き、血がにじむ。走るたびに痛みがひどくなった。だけど、足を止めなかった。涙が出てくる。悔しい。悔しくてたまらない。無力な自分に対しての怒りなのか、理不尽な女帝に対しての憤りなのか、それすらわからなかった。
無性に涙が溢れてくる。泣いている自分に腹が立って、余計に涙が出てきた。




