その2 第一章
伯禮期八五一年――新年を迎えて程なく、ブヴボンの国王・トテジが崩御した。
三六代目を数える国王として即位してから四五年の月日が流れ、トテジはようやく安息を得ることができた。享年八十五歳であった。
とはいえ、トテジが激動の人生を歩んだ訳ではない。
国を治め、世継となる子を成し、他国を侵略せず、他国に侵略させず、常に安政を望み続けた彼は、国王としては至って無難で凡庸な人生を歩んだといえる。
幼くして帝王学を叩き込まれた彼は、逝去するまでに二人の妻を娶った。
一人目は隣国から政略的に迎えた妻ではあったが、信念に似通った部分があった為か、そう不仲でもなかった。二人に夫婦愛が芽生えることはなかったが、友情に似た絆で固く結ばれていた。しかし、その妻は病を患って天に召されてしまう。
その数年後、トテジは二人目の妻を迎えた。見る者が嘆息を漏らすほど若く美しい妻だった。時にトテジが六十二歳、新妻は十六歳である。
一度目の婚姻が政治的なものであった為か、トテジはその妻をたいそう溺愛し、妻の贅沢や我儘には目を瞑り続けた。否、我儘を言われれば言われるほど嬉しそうな笑顔を浮かべていたと伝えられている。
トテジは妻を愛していた。まるで、娘を甘やかせるだらしない父親のように、目に入れても痛くないといわんばかりの耽溺ぶりだったという。新妻にどれだけ浪費癖があろうとも、王は喜んで望みを叶えた。妻に対して金を惜しむことはしなかった。
ブヴボンは他の追随を許さぬほど国庫に富み、肥沃に満ちた広い国土と善良な民衆という豊富な労働力に恵まれている。
つまりブヴボン国は金持ちだった。ただし永きに渡り戦争がなかった為か、ブヴボン国の軍事力は他国に劣っている。トテジの亡き後、富裕に満ちたブヴボンを狙う他国の侵略を恐れていた民衆達は、雄々しき次代の王を待ち望んでいた。
そして、果敢な王が立つ。
外交に才を受け、他国の軍事力にも怯まぬ王がブヴボンに誕生した。
王位を継いだのは、トテジの妻であるイルマその人であった。ブヴボン王家が、王家の血が流れない者を王位にすえたのは極めて稀有な事態である。血を重要視する絶対的な王政であったブヴボンだったが、その秩序が崩れた時、安政な歴史も大きく変貌を遂げた。
イルマは残虐そのもので、即位と同時に国でもっとも恐れられる存在になった。
裏切りなどの背信行為や罪人を罰するのは当然としても、気に入らない者を密かに毒殺することも日常茶飯事。時には監獄入れた囚人の四肢を削ぎ落とし、その傷跡を焼き閉ざしてから、咽喉を塞いで声を出せないようにすることもある。囚人は生きながら意識がなくなるまで苦痛に耐えるしかなかった。彼女が罪無き人間を戯れに罰することも珍しくない。王城に働く者たちは千人を越えていたが、その面々はすぐに交代していった。
そして――イルマ女帝には恐ろしいほどの浪費癖が身についていた。
前王であるトテジが亡くなってすぐ、イルマは城の改築を行った。葬儀を行った次の日から建築家や職人を集めて会議を開き、喪が開ける頃には数十万人以上もの労働力を雇った。莫大な費用をかけた宮殿は一年後に完成した。
王家の権威を誇示するかのような広い敷地に、美しい様相を呈した精緻な装飾の数々は他国の王侯貴族たちの目を圧倒するばかりだった。
城を改築した為に、蓄えていた国庫の半分は使ってしまっただろう。使われた金銀、石や材木などの資材はもちろん、何より民衆への賃金が一番の出費だったかもしれない。イルマ女帝は、功績をあげた職人には惜しまずに高い賃金を支払った。高い賃金を目当てにして過分に精を出し、過労死した者も少なからずある。
しかし、金を使ったのはそれだけに留まらない。
世界各国から値打ちのある装飾品を集め、珍しい宝石類や絵画なども寄せ集めた。これだけで、数年分の国庫予算が使われてしまったらしい。責任を感じたのか、王城の金庫番は胃に穴をあけて辞職したという。
ともかく城は完成した。
イルマの浪費癖は昔から知悉されていたことだし、王が決断した贅沢ならば民衆は了承するしかない。加えて彼女は自他共に認める着道楽だった。同じドレスを二度着ることはないので、いつも新調したドレスを身にまとっている。むろん資金は国庫が賄い、彼女専属の服飾職人は常に十人は城に勤務していた。
服飾職人のひとりに、マーキュリという新進気鋭の若手職人がいる。彼は頭を丸坊主に刈り、いつも奇抜な衣装を纏っていた。
彼は女帝の要望を無視してドレスを作るのだが、女帝からむごい仕打ちを受けたことは一度もない。それどころか、女帝からはドレスと共に可愛がられる始末である。
その日、マーキュリは新作のドレスを仕上げたばかりだった。
徹夜して縫い上げたドレスを胸に抱えて、つかつかと長い回廊を進んでゆく。この回廊は、城の中でも最大の距離を誇る廊下で『鏡の回廊』と呼ばれている。廊下の片方の壁に等間隔で鏡を埋め込み、奥行きを広げていることから名づけられた。
「おはようございます、マーキュリ様」
女官たちが立ち止まって丁寧にお辞儀すると、マーキュリは軽く手をあげて爽やかに笑った。女官たちは驚いたように目を瞠り、屈託ない態度に好感を持ったのか、にっこり微笑して立ち去ってゆく。
処遇に傲ることなく気軽に挨拶を返してくるマーキュリは王城でも女性に優しい軽薄者だと噂されていた。
回廊を進み、幾つもの部屋を過ぎると――女帝の私室である『王の間』に辿り着く。
国家の中心である王は、城の中心に棲まねばならないという思想があるらしい。以前は王妃の間を私室としていたイルマも、王位を即位したと同時に部屋を移した。
マーキュリは扉にノックもせずに、毅然とした態度のまま『王の間』に入室した。
ノックしなかったのは、けしてマーキュリが不作法だということではない。
女帝曰く、
王たる者にはプライベートなどなく、私生活というものは王に劣るものたちが持つもの。
とされるらしい。
だから、歴代のブヴボン王たちは己の寝室なども常に公開している。イルマが就寝していようが、情事の最中だろうが、自由に入室することは許されていた。誰に何を見られようが構わないというのが、王の持論なのだ。
「おお、マーキュリかえ。遅かったのう、随分と待ちわびたものじゃ」
女帝は目尻を垂らした。
イルマは背凭れの大きな一人用ソファに身を沈め、孔雀の羽を使った扇子で半ば顔を隠している。眉や双眸は凛と細く、赤と青を基調に絶妙な配置で化粧を施していた。頬や口唇はやや厚めだが、けして弛みや皺がある訳ではない。部分だけを見てゆくとそれほど美人だと感じないが、全体を通して観察すると、目を瞠るほどの妖艶さが浮かび上がってくる。四十歳をすぎて、この美貌だ。外見だけならば、まだ三〇歳前だと偽っても信じる者は多いだろう。
マーキュリは軽く会釈してから片膝をつき、そっとドレスを差し出した。女帝は陶酔するような瞳で、ドレスの端々をじっくりと検分している。
女帝の今日の衣装は異国のドレスらしい。長く切れ上がったスリットの隙間から投げ出された美しいイルマの脚には目もくれず、マーキュリはちろりと上方を覗き見た。
女帝の傍には、いつも一人の側近が付き添っている。
若くして外交参謀に加わっている、バジという男だ。
二十歳そこそこのバジは、女帝の薦めのままに髪を腰まで伸ばし、いつも女帝の選ぶ服を着ている。女帝を警護する役目を担っている訳でもないのに、バジは片時も女帝の傍を離れない。女帝の望みのままに行動し、女帝の言われるままに動く。まるで女帝の操り人形だった。バジが女帝の愛人ではないか――などという憶測が流れているが、真偽のほどは定かではない。
バジに一片の興味もないが、この男が着ている服が非常に不愉快だった。バジの体格に見合うようなデザインではないし、瞳や髪の色にも似合わない。誰が仕立てたものなのか、目にするだけで不快になる色使いだ。幾ら女帝の望みとはいえ、それを平然と着ているバジの美意識は許し難いものがある。
口唇をねじ曲げていると、バジがマーキュリの視線に気づき、かち合った。目を合わせる理由がないので素直に目を逸らすと、女帝が扇子でポンと膝を叩く。
「よくやってくれた、マーキュリ。我はしごく満足じゃ」
「では、失礼します」
「……そう急がずとも良かろう」
女帝は駄々を捏ねるようにして引き留めたが、マーキュリは素っ気なく首を振った。
「僕は、そのドレスを縫い上げるのに慣れない徹夜をしました。つまり非常に睡眠不足であり、一刻も早く疲労感を拭い去りたい気持ちでいっぱいです」
「だから、休めというておるのじゃ」
ドレスを届ける以外に用がないのだが、女帝の機嫌を損なうのも得策ではない。いつもこうして引き留められるのに、断りきれないのがマーキュリの悪い癖だ。
何を話すでもなく、女帝の脇に立ち尽くす。
反対側に立つバジは、マーキュリに一瞥さえ寄越さない。気ままに投げかけられる女帝の言葉に相槌を打ち、女帝の哄笑に合わせて愛想笑いを浮かべる。
ご苦労なことだ、と思う。
やがて、両手で抱えきれないほど膨らみのあるドレスを抱えた女官たちが、行列を作って入室してきた。一礼しては一歩、一礼をしては一歩ずつ進んでくる。みんなが同じ動きなので気持ちが悪い。
「またですか……」
マーキュリが辟易するように呟く。
バジは初めてチロリと一瞥してきたが、何も言わず沈黙を守った。女帝が、からからと大きく笑い出す。
「衣服というものは保存しているだけでは腐ってしまう。時には風に当てねばならぬ、とそなたが申しておったであろう?」
「お言葉ですが、それは僕が言っている主旨と大きく食い違っています。僕が苦心惨憺の末に仕上げたドレスたちを、たまには着ていただきたいと進言したのですよ。生地は生きてますからね、酸素も吸いたいでしょう」
マーキュリは大袈裟に溜息をついた。
何度も何度も懇願してきたが、女帝は同じドレスを二度と着ない。作ったドレスは一度きりの主役を終えるとゴミと化す。
不思議なことに女帝は着ないドレスをずっと保管している。それだけでなく、月に一度はドレスの点検を欠かさない。時間の空いた使用人たちにドレスを持たせ、一つ一つを丹念に眺めるのだ。理由はわからないが、たっぷり時間をかけて眺める。製造者であるマーキュリとしては、気に入ったドレスがあれば何度も着て欲しい。女帝が着ないのなら、背丈の合う民衆たちの誰かに譲ればいい。似合う者に着て欲しい。そう願うのが親心だ。
嬉しそうにドレスを眺める女帝を見ていると不愉快さが増してくる。咎めを受ける覚悟で、退出を願い出ようとした瞬間――女帝の口から嘆くような悲鳴が迸った。
「ひいいいいい」
女帝の膝には、いつかマーキュリが仕上げたドレスが乗っていた。数ヶ月前に仕立てた今は哀れなドレス。
女帝は鬼女のように両眼を吊り上げて、ドレスをマーキュリに突きつける。
「見てみよ、マーキュリ! このシミはどういうことなのじゃ!」
「ふむ」
マーキュリは顔を近づけて、ドレスのシミを探した。指先ほどのシミ。明らかに、飲み物が零れたことに気づかぬまま放置した様子だ。それほど目立つ汚れではないし、適切な処置を施せば再生可能だろう。だが、着ないドレスが汚れようが破れようが構わない。
女帝は口唇をわななかせ、御前に跪拝する若い娘を睨みつける。
「――その方か」
娘は怯えた表情でふるふると首を振り、自分ではない、と意思表示している。だが恐怖の為か言葉を失っていた。
「その方が、我がドレスを穢したのじゃな」
女帝は立ち上がり、椅子の小脇に立て掛けてあった棒状のものを手に取る。マーキュリが気づいた時には、女帝はそれを娘の肩口に振り下ろしていた。娘が倒れる。肩を押さえて、苦痛を噛みしめるように口唇を噛んでいた。
見た限りでは、丁寧に磨かれた純銀の杖である。太さは子供の手首ほどもあった。仮に中が空洞だとしても、あれで殴られればかなりの衝撃が走るだろう。
「なぜ、我の宝を穢したのじゃ。よくもよくも!」
女帝は狂ったように殴り続けた。
優しげに垂れていた瞳はこじ開けられ、娘だけを一点凝視して、執拗に殴り続ける。娘の頬には血がにじみ、やがて蒼く腫れあがった。誰もとめられる者はいない。娘は身体を丸めて懸命に耐える。杖は背中に振り下ろされ、続いて頭を殴打された。娘が転げ回る。女帝は殴るのをやめない。時に女帝は、的を外したのか床を殴った。ふたたび肩口に杖が降ろされると、骨の折れる鈍い音が聞こえた。
娘は悲鳴一つあげなかった。
「よくも、よくも……」
女帝は息を切らして、何度も呪詛を繰り返す。
床に散った緋色の血飛沫が、娘に引きずられて四方に伸びている。生々しい血痕。この場にいた誰もが悲愴な面持ちでうつむき目を逸らした。バジとマーキュリ、そして女帝を除いて。
「申し開きがあるならば聞いてもよいぞ」
娘は明らかに衰弱していたが、よろよろと半身を起こすと、女帝に向かって叩頭した。許しを請うように額をこすりつけて、無言のままに何度も叩頭する。
女帝は娘を嘲るように鼻を鳴らすと、銀色の杖を娘に投げつけた。杖は弾かれて床に転がる。まるで虫けらを俯瞰する目つきで娘を見下ろし、女帝は無情な言葉を下した。
「死ぬがよい」
途端、場にいた誰もが息を呑んだ。