その1 序章
カイキは七歳という若さで世間の荒波を知った。
その発端は両親が亡くなったことに始まる。両親がふたりそろって今年の春先に他界した時、棲んでいた邸宅や農地などの私財はほとんど没収されてしまった。途方に暮れた。狩りの為に建てた汚い山小屋だけが残され、春からはずっとここに棲んでいる。近しい親戚はない。引き取ってくれる酔狂な後継人もいない。
五歳の妹がいる。金が必要なので働かなければならない。貧しい為に満足な食事など用意できず、山で狩った獣の肉や密生する山菜で食いつないできた。何とか鉱山での仕事にありつき、その僅かな賃金が一家を支えている。しかし大人と同じ仕事量をこなしても、賃金は大人の半分。社会とはそういったものだ。若さは何の言い訳にもならない。
神は不公平だ。
両親を奪っただけでなく、どこまでも苦渋を強いようとする。幼い身では受け止められないほど過酷な現実。いつも空腹を抱えていた。手はあかぎれ、肩の筋肉はパンパンに張り、足は棒のように固まっている。他の同世代の子供が呑気に勉強している中、カイキは生活のために身を粉にしてきた。
ある日、不思議なことが起こった。
いつものように仕事を終えて帰宅すると、食卓には豪勢にもパンが並んでいたのだ。思わず目が飛び出すほど、カイキは目を瞠った。我が家に存在するはずのないパンがある。それもひとつではない。卵を塗って艶を出した丸いパンが籠に積まれ、こんがりと焼けた長いパンが二本も顔を突き出していた。
「パンじゃないか。どうしたんだ、コレ」
カイキは呆れたような、それでいて感激するような声で質問した。小麦で焼かれたパンなど、ここ二月も見ていない。
大きな古木を組み立てただけの貧相なテーブルの横では、幼い妹が誇らしげに胸を張っている。何処から入手してきたのだろう。うちは貧しく、パンを買う余裕などない。無論五歳のヒオンが金を稼げる訳もなく、自由になる金もないはずだった。
「まさか、盗んだ訳じゃないだろうな?」
カイキはパンとヒオンを交互に見比べながら、訝しげに問いかけた。ヒオンはすぐに弁釈しようとするが、口が開閉するだけで声が出ない。カイキと口を利きたくないのか、咽喉の調子が悪いのか、ヒオンの咽喉から声が漏れることはなかった。
カイキは、指先で卓上をとんとんと鳴らす。
「説明しろよ」
ヒオンはふたつの拳を振り上げて、懸命に口を開閉させる。だが、声は出ない。声が出ないことに苛立ったのか、ヒオンは枯れ木めいた足で地団駄を踏んだ。
(新しい遊びか?)
カイキは目を細めると、ふうと溜息を吐いてヒオンを直視した。
「正直に言え。街へ降りて、パンを盗んだのか?」
ヒオンは心外そうに首をふるふると振った。
盗んだという単語に対して不本意そうな態度を示したことから、パンは盗んだものでないことがわかる。では、この山を通りがかった人間から恵んで貰ったのだろうか。
ヒオンは、まだもがくように身体を捻って暴れている。
疑われたことに腹を立てているのなら、声を出して怒ればいいのだ。いつものヒオンならばそうする。細い身体から絞り出すように高い声を張り上げ、見苦しく暴れたあげく、わあわあと泣き喚く。カイキが宥めるまで赤ん坊のように泣き喚く。
だが、今日のヒオンは違った。反抗期特有の嫌がらせなのかもしれないし、カイキが生んだ猜疑心への抵抗なのかもしれない。
「じゃあ、誰に貰ったんだ。旅人か?」
ついにヒオンは口をひん曲げて、頬を膨らませてしまった。そのまま踵を返して、戸口から出てゆく。野山を駆けるヒオンの足音が遠退き、木戸が軋む音だけが残された。
カイキは切り株で作った椅子に腰掛けた。
ヒオンを追いかけて宥めるなど、今のカイキにはできそうもない。もし今追いかけたなら殴りつけてしまうかもしれなかった。
(疲れた)
ヒオンが喋らなかったことに対しての苛立ちだけでなく、カイキは疲れ切っていた。少年は七歳にして疲弊しきっていた。
鉱山では肥えた大人たちが偉そうに怒鳴り声をあげ、手足はマメや傷だらけで節々も悲鳴をあげている。なのに、働けど働けど賃金は上がらず、生活も楽にはならない。
(このままじゃ駄目だ)
カイキは切実に思っていた。貧しいながら、これまでは何とか生活してきた。だがこの生活が半年を過ぎて冷静に考えると、いつまで生活が保てるのか不安でたまらなかった。近いうちに、日々の食事に事欠くことがあるだろう。仕事に疲れた時には、ヒオンさえいなければ、と妹をお荷物扱いしてしまうかもしれない。
カイキは澱んだ両眼で虚空を見上げる。
(どうすればいい?)
ヒオンを連れて街へ降り、もっと賃金の高い職を探すか? しかし、七歳が手にできる賃金などたかが知れている。街での家賃が嵩むだけ、もっと生活が苦しくなるだけだ。
現在、この家には食べ物を貯蔵するほど余裕はない。あるのは隙間風が吹き抜ける山小屋と粗末な暖炉だけで、まともな家具一つない。蓄えもない。頼れる者もいない。冬になれば暖や衣服が必要になり、今より金がかかる。カイキもヒオンも日々成長してゆくにつれて、服を新調しなければならないし食事量も増える。また金が必要だ。
来年になれば何かが変わる、などと楽観的な希望は持てなかった。現実は甘くない。いつまでこの悲惨な暮らしを続けるべきか。一体いつになれば楽になる? 事態を好転させることはできるのか。どうやって? 何をすればいい? いつになったら?
(いつになれば――)
カイキは項垂れた姿勢で頭を抱え、思考を巡らせた。
自分が力のない子供であることは充分わかっている。だけど、食べなければならないし、生きなければならない。楽をして贅沢に暮らしたいなどとは思わないが、安定した収入のある仕事が欲しかった。
両親が死んでしまわなければ、こんな苦渋を強いられることもなかっただろう。両親がいた頃は、カイキは学問を学び、剣術を学んでいた。凡庸な七歳児であった。
「違う。父さんたちの所為じゃない」
闇色に染まりつつある思考を頭から振り払った。苦しくなると必ず、自分たちを残していった両親を恨んでしまう自分が嫌だった。
その内、ぐぐうと腹の虫が鳴き、自分が空腹であったことを思い出す。カイキは食卓に居座った神々しいパンの群れを見つめた。今朝から何も食べずに仕事を終えてきたので、腹が空いて穴があきそうだった。何でもいい。土でも木でも水でもいい。何か口に入れなければ辛い。だが、カイキはパンを食すことに躊躇した。
食事はいつもふたりそろってから始める。それは両親を失ってから守ってきた家訓のようなものだった。仕事で家を空けているカイキとヒオンを繋ぐものは食事時間くらいしかない。せめて絆は壊したくなかった。
増幅してゆく食欲。挫けそうになる理性を奮い立たせ、カイキは妹の帰りをひたすらに待ち続けた。なのに、予想に反してヒオンはなかなか帰ってこない。また溜息が出る。
(仕方ない)
限界に近づいた空腹を抱え、カイキは黄昏に染まる森に足を踏み入れた。
山小屋に移り住んでから半年経つが、これまで夜の森をうろついたことはない。肉食の獣が出没することも恐怖の対象であったが、何よりも闇が恐ろしかった。
闇には『何か』が潜んでいる。
視界に映らなくても、肌身に感じられる気配が恐ろしい。得体の知れない化け物がつかず離れず追いかけてきて、いつしか自分を覆い尽くす錯覚に陥るからだ。吹き抜ける風、風に揺れる草木、獣の咆吼――それらが頭中で渦巻いた時、絵本にも描かれていない化け物が頭中に姿を現す。化け物はいつも自分を狙っている。だから闇に入ってはいけない。
(大丈夫、平気さ)
完全に陽が落ちる前にヒオンを連れ戻せば、闇に遭遇することはない。一刻も早くヒオンを見つけ出せばいい。自分を奮い立たせる為に、胸の中で何度も何度も反芻する。
ヒオンは単純に拗ねているだけだ。もしくは、ばつが悪くて帰るに帰れないのだろう。きっとカイキの迎えを待ち望んでいるに違いない。とにかく、ヒオンが森で迷っていないことを願うばかりだった。
二人の棲む粗末な山小屋は、山肌の中腹辺りに建てられている。
家の近くには野兎や狐が巣を持っているくらいだが、山奥や頂上近くには野獣や化け物が居を構えていると父から聞いた。本来は森ではなく山頂なのだが、彼等は森と呼ぶ。
(森には恐ろしい魔女がいる――)
いつか父はそう言ってカイキを脅し、怯懦する子供たちを見ては剛腹に笑っていた。陽が暮れて薄闇が空を包むと、そのお伽話が真実味を帯びてくる。
魔女。
耳まで避けた緋色の口唇を吊り上げて、大きな鷲鼻を揺らし、鴉のように濁った声で下品に笑うのだという。大釜に湧かした煮え湯は地獄を彷彿させるほど熱く、魔女は素手でそれを掻き回すらしい。子供を浚っては湯に放り込み、骨まで溶かしてからスープを啜る。そのスープを飲むから、魔女は永久に死なないのだ。
(ヒオン!)
妹が戻らないのは、魔女に捕まったからではないか? 不安に駆られたカイキは、木の根が交錯する凸凹の斜面を駆け昇った。
如実に色濃くなってゆく恐怖は、更にカイキから体力を奪ってゆく。ふらつく足を止めて天を仰ぐと、完全に世界は薄黒い闇に包まれていた。近くの葉や幹の位置はわかるものの、全体的に景色が暈けて見える。森が闇に呑み込まれているのだろう。闇は少しずつ訪れて、やがて浸食し、全てを覆い尽くす――。
カイキは恐怖を感じながら身を竦ませた。
初めて踏み入れた夜の森を無造作に昇ってきたので、現在地がわからない。歩くことが辛くなってきた。足が棒のように突っ張って、膝が曲がってくれない。空腹の為に、眩暈と吐き気が容赦なく襲ってくる。
カイキは半ば倒れ込む形で地面に横たわった。土の香りが強く鼻腔をくすぐる。闇に呑まれる土の上を、見慣れない虫が悠然と歩いていった。全身を禍々しい褐色に染めた、尾の長い節足動物だった。
「……疲れた」
手足の痺れが全身に伝わり、やがて息苦しくなってきた。このままではいけないとは思う。だが、それでも心の何処かが安堵している。カイキは、歩くことに疲れていた。
少し休憩を取るつもりで寝そべったものの、このままでは二度と起きあがれない気がしてきた。底なしの沼に埋もれてゆく二本の足が、幾人もの手で引っ張られているかのように、あがいてもあがいても抜け出せない。頑張れば頑張るほど、力んで抜け出せなくなる。力めば力むほど絡む手が増えてゆく。
身体が重く、地の底まで沈みそうな感覚――まるで、身体が大地に溶けて泥になってしまったみたいだ。長く伸びた木々を見上げると、四方の枝が忙しなく上下していた。枝が風に揺れるたびに、化け物が両手を揺らしてカイキを嘲笑っているようにも見える。
(疲れた)
指先の感覚までもが失われつつあったが、それが不思議と心地良い。
それではいけない。立ち上がれ。奮起しろと、脳裏で懸命に呼びかける。そんな心の声を、頭では理解しているのに、身体がちっとも動かない。――本当に疲れていた。
少しだけ休もう。そして体力が回復したら、一度小屋へ戻ってみよう。
きっとヒオンは全てを忘我したように、屈託ない声で「お兄ちゃん、何処に行ってたの?」と笑うだろう。人の気も知らず、先にパンを頬張っているかもしれない。口の端にたくさんパン屑を張り付けて――。
カイキは口唇の端に笑みを浮かべながら、鉛のように重い瞼を降ろした。
人は死ぬ時に何を思うのだろう。それまでの人生が走馬燈のように駆け巡ると聞いていたが、頭に浮かぶものは、家族の笑顔でもなく友人との会話でもない。暖かいスープ、湯気を立てたほかほかの芋や干し肉。ただただ食べ物ばかりが頭に浮かんできた。
「……腹減ったなあ」
憔悴しきった呟きを漏らすと、カイキの意識は急速に白濁していった。意識が途切れると同時に苦しみも痛みも薄れてゆく。どれだけ眠ったのだろう。カイキは自分にかけられる声に気づいて目覚めた。
「だーれ?」
声帯から頭の天辺に突き抜けるような甲高い子供の声が聞こえ、カイキは素早く身を起こした。ヒオンの声であるような気がしたからだ。
「ヒオンか? どこにいる?」
慌てて辺りを見渡したが、ヒオンの姿はどこにもない。闇の中で木々の影が揺れ、騒がしい葉音が耳に響く。ヒオンを見つけたという達成感は空腹を忘れさせてくれた。
「だーれ?」
「早く出てこい。どこにいるんだ?」
「あなた、だーれ?」
「ヒオン……?」
カイキの顔は歪み、全身が総毛立った。声が震える。ヒオンが悪ふざけしているとは思えない。暗闇に怯えて泣き縋ってくるのなら話はわかる。だが声の持つ余裕は、欠片もヒオンを連想させなかった。
「ど、どこにいる? ふざけてないで早く出てこい」
カイキは落ち着きなく首を巡らせて声の主を捜したが、何処にも姿が見えない。
ヒオンではないのか。しかし、この山に他の人間が棲んでいるという事実はない。なら、この子供は誰なのだ。
(――魔女?)
咄嗟に想像して背中に悪寒が走った。いや、馬鹿げている。そんなお伽話が現実のものであるはずがない。怖がるな。空耳だ。そう必死に言い聞かせる。
「あなた、だーれ?」
ふたたび声が質問してきた。
カイキは挙動不審に目を泳がせたが、暗闇が広がるばかりでなにも見えない。まるで金縛りだ。恫喝されているわけでもないのに、恐怖に駆られて動けなかった。
「こたえないとたべちゃうよ」
「ひっ」
ようやく声が出たかと思うと、しゃっくりのように情けない返事だった。咄嗟に背を翻して逃げだしたかったが、足に根が生えたように固まってしまっている。
「じょうだん。たべないよ」
声は磊落にけらけらと笑った。
声はどこから届くのだろう。見えないだけで目の前にいるのか、物陰に隠れてこちらを窺っているのか、それすらもわからない。それきりしばらくの間、辺り一帯に静寂が舞い降りる。測ったようなタイミングで風もピタリとやんだ。
魔女なのか?
ヒオンなのか?
押し殺したような静けさの中で、カイキの鼓動だけが急速に騒ぎ出した。胸騒ぎと呼べるものを超越した不気味さ。心臓が皮膚を突き破って跳び出しそうだ。歯の根ががちがちと震えて噛み合わない。
これから何が起きるのだろう。やはり空耳だったのか。魔女かもしれない。いや違う。声など聞こえなかった。逃げ出したい。けど足が動かない。恐ろしい。この沈黙はいつまで続くのか。錯綜する想いの中、カイキは尋常ではないほどの冷や汗をかいていた。
(魔女)
魔女が子供の声を模倣してこちらを油断させる作戦ならば、気を抜いてはいけない。嫌な予感ばかりが頭を巡る。もし相手が魔女ならば、自分は喰われるのだろうか。
ふくらむ不安に押し潰されそうになっていると、声は唐突に質問をきりだした。
「なにかおねがいごと、かなえてあげる」
脈絡のない話だった。
どんな意図があって、それをカイキに聞いているのかも判然としない。またも沈黙が降り注がれる。カイキは咽喉から声を振り絞るようにして、逆に質問を返した。
「魔女……なの?」
「まじょじゃないよ。たべたりしないよ。きいてるだけ」
「本当に食べない?」
カイキがおずおずと確認すると、声はからからと笑う。
「だいじょうぶ。けいかいしないで。わたしはおねがいごとをかなえてあげるだけ」
「本当に?」
「ほんとうだよ」
声は屈託なく答えた。
「じゃあ、何処にいるの?」
「わたしはここにいるよ」
「何処?」
地面も木の根や草むらを何度も確かめたが、人が隠れている気配はなかった。
どちらにしろ身体の自由が利かない。少しだけ警戒心をほどき、カイキは強張っていた身体から力を抜いた。
願い事。
早くここから逃げ出したいという気持ちもある。早く家に戻ってお腹一杯ご飯を食べたいという気持ちもある。――しばし考えたが、やはり願いはたった一つだけだった。
カイキは一度深呼吸してから言った。
「安定した収入のある仕事が欲しい」
幾ばくかの間をおいたが、声はカイキの言葉をじっと待っているようだ。
「今は……とにかくお金が必要だから働いてる。はじめは、子供の賃金は通常の半分っていう条件でもいいと思ったんだ。けど、同じだけ働いてるのに半分なのはおかしいと思わない? だって僕は子供だけど、子供だからって手を抜いてる訳じゃないし、労働時間も仕事量も、大人の人たちと同じだけ仕事してる。給料って、年齢で支払われるものなの? 僕が子供だから賃金が安いの?」
つらつらと続けているうちに、自分が愚痴を言っているだけなのに気づいた。だが口は止まらない。教会へ赴き、牧師に懺悔しているつもりで独白を続けた。
「働いた分だけ平等に賃金が欲しい。僕に両親がいないけど妹がいるんだ。生活しなきゃならない。ちゃんとご飯を食べたいし、冬支度も必要だし、服も必要だし、家には隙間風が入ってくるし、できれば妹を学校に通わせてあげたいし、父さんみたいな立派な大人になりたいし。だから、できれば一定収入のある仕事が欲しいんだ。お金がたくさん入る仕事がほしい」
一気に言葉を吐きだし、カイキはようやく酸素を吸い込んだ。相手は無言。そうしてカイキは、自分がどれだけ子供じみた戯言を発しているのかに気づく。腹の底から貧乏を力説している自分が、ちっぽけで不甲斐なくて頼りない子供であることを主張しているみたいで恥ずかしかった。
相手は無言。
羞恥の為に顔を紅潮させていると、声がけらけらと笑い出した。
「いいよ。それかなえてあげる」
「え!」
カイキは心の底から驚倒して、思わず背を仰け反らせた。身体に自由が戻っていることさえ些末なことに思えた。
「だいしょうはもらうけど」
「何ですか、代償って!」
後ろから背を押されるように気が急いていた。急がなければ、相手の気が変わってしまいそうな気がする。そうなれば、願いを叶えて貰えなくなるかもしれない。
安定した仕事、明るい未来、平凡な生活。それが手に入るのならば、何でもする。何だってできる。
「かくにんするね。おにいちゃんのしょうらいをやくそくするよ。おかねがもらえるあんていしたしごとがしたいのね。おにいちゃんはうんがいいよ。それをかなえてあげる。でもかわりに、おにいちゃんのたいせつなものをもらうね」
相変わらず緊迫感のない脳天気な口調だった。反してカイキはごくりと息を呑む。
本当はまだ迷っている。これは魔女の囁きだと本能が教えてくれている。聞いてはいけない。惑わされるな。
わかっていながら、カイキは抗うことができない。願いを叶えてくれるのだ。安定した仕事に就き、生活を支えてゆける。パンを腹一杯になるまで胃に押し込むことができる。
カイキは力強く頷いた。
「代償は払います。払えるものならば、何だって払います。でも――命はあげられませんし、家族も渡せません。それ以外に僕が持っているものなら、何だって差し出します」
カイキは実に真摯な気持ちで答えた。
悪魔に身を捧げたのかもしれない。魔女に身を委ねているのかもしれない。
だけど――カイキには他に方法がなかった。このまま鉱山でボロ布になるまで働き、ヒオンを養いながら、これからの生活を続けてゆく自信がなかった。
「いのちはいらないよ」
その声にホッと胸を撫で下ろす。
威勢よく口にしたものの、カイキには捧げるものが何一つない。立派な家も家具も土地もない。みすぼらしい山小屋が一軒あり、鉱場での仕事があるだけだ。
(そうだ)
腕の一本くらい差し出す覚悟はある。それで幸せが求められるのなら、安いものだ。この声を聞いたことが運命。願いを叶えてくれる魔女に出会えた今こそが僥倖なのだ。
カイキの決意とは裏腹に、声が提示した条件は意外なものだった。
「あなたのこころをもらうことにする」
「心……?」
「よくきいてね。あなたののぞむしょうらいをあげるけど、かわりにこころをもらうの。でもじょうけんはかんたん。ここでかわすやくそくをまもるだけなの」
「それだけ?」
カイキは拍子抜けしたように目を丸める。
腕を渡すくらいの覚悟を決めていた。当然、その痛みに耐え抜く覚悟もあった。
呆気に取られたカイキは、声の主を捜すように周囲を見渡した。
「本当に約束を守るだけでいいんですか? 本当にそれだけ……?」
「できる?」
念を押すように反復されると、不安に襲われる。声が提示する約束事というのは、想像を越えるより遙かに難しいことなのかもしれない。
けど、今更引き下がることはできなかった。
「――やります」
その刹那、首にチクリと痛みが走る。針で刺されたような瞬間的な痛みだった。虫に刺されたのかと思い、掌で首筋をパチンと叩く。掌を確かめてみたが、虫の死骸もなく血も付着していなかった。
「やくそくはみっつ。ひとつめは――だれかのめいれいにしたがったり、だれかのおねがいをかなえてあげてはだめ。ずっとだよ」
カイキは魂の抜けたような顔でポカンと口を半開いた。
いまいち約束事の意味を把握できずにいる。
「ふたつめ。だれかとまじわってもだめ」
「交わる?」
カイキは不思議そうに首を傾げた。
「つまり、けっこんしちゃいけないの。こいしたあいてにふれちゃいけないの。こどもをつくっちゃいけないの」
「なるほど」
カイキは授業を受ける普通の子供だった頃と同じように、うんうんと頷いた。
結婚してはいけない。子供を作ってはいけない。
この約束は容易に守ることができそうだ。何しろ、カイキ自身が七歳の子供なのだ。いつか結婚して子を成すのだろう、と安易に思い描いたことはあるが――それも遠い未来の話であり、今のカイキには絵空事にすぎない。
「三つ目は?」
カイキは小躍りしたい気分だった。三つ目の約束事が強烈に難しいことではない限り、この契約はうまく乗り越えられるだろう。
「みっつめ。ここであったことを、だれにもしゃべっちゃだめ」
「……それで終わり?」
「まもれる?」
「絶対に守る!」
カイキは意気揚々と答えた。顔には満面の笑みが広がっていた。
「じゃあやくそく。きげんはないから、しぬまでずっとやくそくをまもってね」
「僕が約束を破った場合はどうなるの?」
カイキは浮かれた声で、何気なく軽い気持ちで訊いた。
約束を破った時には、自動的に契約は破棄され、一生失業の身分になるのだろうか。それも当然だろう。安定した仕事を願って契約をしたのだから、仕事内容は何であれ職を失うことには間違いない。
「いいわすれてた。もしやくそくをやぶったら、いっぷんいないにしんじゃうからきをつけて」
「え?」
カイキの笑顔は崩れ、針に引っかかった魚のように片唇を引きつらせた。職を失うどころではない。約束を破れば死が待ち受けているらしい。
「やくそくをまもればへいき」
「そうだよね……」
カイキの顔に不穏な翳りが射した。
声の主がいうことは、いちいち正論だ。約束を守れば何も起きない。天寿をまっとうするまで死ぬこともない。要は自分の行い如何による、ということだ。
約束を守る。それは予めわかっていたことではないか。
(死ぬ?)
カイキは途端に、暗闇に覆われた夜の森に足を踏み入れた時のことを思い出していた。
説明のつかない不安、後ろから迫ってくる形のない恐怖――死という単語は、森の闇によく似ている。
「ちなみに。さっきさそりのどくをくびにちゅうにゅうしたから、やくそくをやぶったらどくがまわっていっぷんいないにしぬよ。きをつけて」
「蠍って何ですか?」
カイキは目をくりくりと動かしながら、初めて耳にする言葉を聞き返した。
「さそりはせっそくどうぶつだよ。からだはちいさいけど、みじかいとうきょうぶとおおくのかんせつにわかれるふくぶがあるの。ふくぶのうしろはほそいおになってて、そのせんたんにもうどくをもってるの。しょくしはかにのはさみみたいで、きょうぶによんついのあしがある。さそりのしゅるいはろっぴゃくしゅるいくらい。どのしゅるいのどくかはおしえない。けっせいとかげどくざいをつかってもどくはきえないよ」
「はあ」
カイキは脱力するように肩を落とした。
たった今きいたばかりの言葉が思い出せない。理解できない他国の言語を耳にしているようだった。『サソリ』の説明は、カイキにとって寝耳に水であり、左耳から右耳へと素通りして頭の片隅にも残っていない。わからない単語が多すぎて、サソリたる物体が何者であるのか、その形態を想像することもできなかった。
(ま、いいや)
とにかく約束を破らなければ、死ぬことはないらしい。
カイキは『約束事』を一つ一つ頭の中で繰り返した。
・誰の命令にも従わず、誰の願い事も叶えてはいけない。
・誰とも交わってはいけない。
・そして――この場であった密約は、自分の胸中に閉じこめて永遠に口を閉ざす。
そうすれば契約は続き、カイキが毒に冒されて惨めに死ぬことはない。それどころか、明日からは幸せに満ちた生活が待っている。
約束事を指折り数えながら何度も確認して、カイキは満足げに頷いた。