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アタラクシア-絶望者の為の桃源郷-  作者: 皐月夙夜
第二部
5/7

肝試し

 「ねえ…、ねぇちょっとカーネル!どこでやるってのよ」大音量の音楽がかかった車の中で、ナリッサが訝しげな顔をして叫んだ。

「行けばわかる」カーネルはタバコを揺らしながら、音楽のせいで自分にしか聞こえないような声で、ぶっきらぼうに答えた。


 彼らがいつものたまり場からカーネルの車に乗ったのは、夜の十時を切った頃だった。路地裏で突然カーネルが、肝試しをしようと言い出したのだ。


 カーネルは不良グループ「レッドスカル」のリーダー格的存在だった。不良だが甘いマスクとスタイリッシュなルックス、それに何かと気の利く性格で、ここいらに集まる不良たちの間では、カリスマ的存在でもあった。もちろん、彼の容姿と人気に嫉妬し、憎む相手も少なくはないのだが。


 ナリッサは、カーネルの恋人である。真っ赤なロングヘアにスタジアムジャンバーを着込み、ピアスを何個も耳や顔に打っている。肝試しを提案したカーネルに、彼女は怪訝そうな表情を見せた。

「なんでこんな時間にそんなこと言い出す訳?」

ナリッサはいつもより早口な言い方で言った。

「朝だったら面白くないだろ」すかさずカーネルが反論した。

「まあ、そうね」

そのやり取りを見ていた一人の少女が言った。ノリン・ラピス、レッドスカルの一員である。栗色の髪に白いメッシュを入れ、ジーパンに長袖Tシャツといったラフな格好である。

 そこにいる皆が彼女の方を見た。ノリンはタバコをコンクリートの地面に擦り付けながら言った。

「ゴーストは朝を嫌うって言うし。今ぐらいならちょうどいいんじゃない」

「ちょっとノリン!」ナリッサが怒ったように叫んだ。ノリンは微笑を浮かべたが、何も言わなかった。

「ひょっとしてナリッサ怖いんでしょー」

ごみ箱の上に乗っかっていた小柄な少女が、足をぶらぶらさせながらクスクスと笑った。パーマをかけたブロンドの髪に、ピンク色のエクステを付け、人形のようなメイクとフリフリの服装をしている。

「ああ?怖がってんのはてめぇだろガキ」

「そう?あ~でもここら辺にもお化けはいたりして?あのね実はね今日私、白い腕が壁から出てたの見たの、ね、これホントよ」

「ちょっと、あんた何…」

「でもさー…あれ?ナリッサ、肩になんか白いものが…」

「嘘つくな!」

「ジェリー、ナリッサいじめはそれくらいにしろよ」と、電子ゲームに没頭しながらブロンドの髪をツンツンにした少年が言った。黒い革のジャケットに銀色のスタッズを沢山打ち、全身をパンクファッションに包んでいる。ヒューゴー・ブランド、ジェリーの兄である。

「え~だってお兄ちゃん、ナリッサの怖がる顔面白いんだもん」ジェリーが笑いながら反論した。

ナリッサが「ガキが!」とジェリーに噛み付くように言った後、くるりと横を向いた。

「ねえブルート、あんたはアタシの味方よね?」

そこにいる皆がブルートの方を振り返った。今までだんまりを貫き、じっと胡座をかいていた彼は、身長194㎝の大男だった。灰色のスウェットを着、坊主頭にニット帽を被っている。

「…」

「っ…なんか喋んなさいよ!」

「…」

「…」

「………カーネルに一票」

「あ”ーーっ!」

ナリッサがついに痺れを切らしたようだった。


 カーネルの車(ただしカーネルが彼の騙されやすい性格の叔父から盗んだものに水色のスプレーを吹き付けたもので、免許も彼は取っていなかったが、ここら辺に住む若者にとっては普通のことだった)は、彼らレッドスカルのアジトであるゴミの溜まった路地裏を抜け、浮浪者の寝泊まる公園を抜け、大通り、すかすかなガソリンスタンド、それから住宅街を通り過ぎた。車の中では、ナリッサの好きなドイツのヘビィメタルバンドを爆音でかけていた。しかしナリッサ自身は、胃にもたれるものを食べた後に吐き気を我慢しているかに見えるほどの撃沈ぶりだった。


 車に揺られながら、ノリンは窓の外をぼんやりと眺めていた。住宅街に建つ家々の窓にはもう明かりが点き、あれらの中にはきっと母親という存在がいて、匂いこそ漂いはしないが温かな晩御飯を家族に用意しているのだろう。「家族」という感覚がノリンにはわからなかった。そりゃそうだわ。私が崩壊させたんだもの。


 ノリンは弟が失踪したあの日から、心に暗く重いものを感じながら生きていた。いや、深く遡れば父が死んだ日からだったと思う。レオがいた時でも、私は母には弟より冷たく当たられていた気がする。


 幼い頃から、いつの日も生きることが憂鬱で辛かった。何をしても面白くないし、笑うこともあまりなかった気がする。ただ、絵を描くことと本を読むことだけは楽しいと思えたし好きだったけど、それ以外は退屈で、器用じゃないし要領も悪いので得意なこともそれほどなかった。学校も苦痛だった。窮屈な空間に押し込まれ、毎日のように同じクラスメート達と同じ空間で同じようなことをさせられるのが、本当に嫌だったのだ。ビジネスでやってるロボットのような教師に教えられた授業が理解出来ず、テストでも点を取れないだけで落ちこぼれというレッテルを貼られ、一人が好きなだけで可哀想な奴だと馬鹿にされ、集団行動やグループ行動が嫌いなだけで問題児扱いされる。友達付き合いも面倒に思っていた。本当は、仲良くしたい相手も何人かいたのだけれど、不器用な私は感情表現や言葉使いが下手で、なかなか友達を作れなかった。だから学校に通っていた時は、外で遊ぶ男子や、トイレで化粧遊びをする女子とは関わらずに、一人で絵を描いたり本を読んだりしていた。たまに保健室にも行ったりしたけど。


 そして毎日、私が生まれた意味は何なのかをいつも考えていた。周りを不幸にするため生まれてきたのなら、いっそ静かに小さく死んでしまいたかった。私を必要としている人など誰もいないのだ。そういつも考えていた。罪の意識に苛まれていた。


 母親フロリアのヒステリックな性格はさらに加速し、毎日のようにノリンを責めたてた。辛かったけれど、ノリンは母の気持ちがよくわかっていた。愛する家族を二人もなくし、横にいるのは全てを台なしにしたこの私だ。憎くないはずがない。悲しくないはずがないのだ。ノリンはひたすら耐えるしかなかった。そしていつも自分を責めた。


 ノリンが台所で晩御飯を作るため人参を洗っていた時だった。フロリアはテレビを付けながら缶ビールを飲んでいた。チビチビと口を潤した後、フロリアは虚ろな血走った目でテレビに出ているお笑い芸人を見ながら、嫌味をたっぷりと含んだ大きな声で叫んだ。

「誰かさんが生まれてこなかったら、ロタもリムも死なずに済んだのよ。なあんで私、あれみたいな出来損ない産んじゃったのかしらねえ!」ロタとはノリンの父親の名前だ。ノリンは背中越しに叫ばれた言葉を受け、ただ堪えるしかなかった。それが日常だった。もう特別なことではなかった。


 母はあの事件から、家事の一切をやらなくなった。婦人服の販売の仕事も辞めたようで、家に篭るようになった。毎日毎日自分の部屋で泣き、ヒステリーを起こしては、家のものを投げて壊したりした。ノリンにガラスの酒瓶を投げつけたこともあり、足には今だにその時のザックリとした傷が残っている。そして母は酒と薬に溺れるようになった。ノリンはよく酒を買いに行かされた。近くのコンビニに行き、母の頼んだ酒瓶を買おうとすると、店員に訝しげな顔をよくされたが、買ってこないと母に暴力を振るわれるので、店員になんとか説得した。店員は店の裏に回って、店長を呼んだが、店長もノリンの話を信じてくれなかった。なのでノリンは、代わりに近くのスーパーで小さめのビール缶を盗むことにした。それは見事成功し、その後ノリンは万引きを覚えるようになった。それもその店だけでなく、気づかれないために様々な店で万引きを行うことになった。


 母の精神状態は酒と薬でボロボロになっていった。久しぶりに様子を観に来たという母の知人は、母の状態を見て、一度心療内科に行かないかと勧めたらしいが、母はその言葉に激昂し、知人を酒瓶で殴ったという。一時意識を失ったその人を母は笑いながらただ見ていたらしく、学校から帰ってその人を目撃した私は、母に気づかれないように、外の公衆電話から警察と救急車を呼んだ。幸いその人は無事だったが、母は警察に引き渡され、事情徴収を受けた。その後、ショックによる精神疾患だと判定され、罪は罰金をいくらか払わされたが、障がい者手当という援助をもらえるようになった。


 あの事件から、ノリンにとって辛い日々が始まった。学校では、増々私は自分の殻にふさぎ込むようになり、数少ない仲良くしていた友達からも何となくよそよそしい態度をとられた。皆、心配してくれていたのかもしれないが、今までより更に、人が寄り付かなくなってしまった。男子はそんな私をからかうようになった。心ない悪口も冗談として言われた。弟を行方不明にさせた犯罪者とか、お前が弟を殺したんじゃないのか、とか、色々。便乗してくる女子もいた。ノリンといると殺される、蛇に喰われる。特に体育の時間は最悪で、二人組を作る時などは私は毎回残されるようになり、先生は仕方なそうにノリンと組を作った。お昼の時間も今までは楽みにしていたのに、クラスの中にいると何だか皆の視線が気になるようになり、トイレに駆け込んで自分で作った粗末な弁当をつついた。味はよくわからなかった。たまに吐いた。


 中学生になると、ノリンは地元から少し離れた学校に進学した。そこには私の過去を知る人はいないと思ったからだ。だが、新しい環境でも、ノリンの苦悩は続いた。暗い性格で誰とも喋らないスタイルを貫くことにしたノリンは、友達も一人も作らなかった。逆にそれが周りから好奇の目で見られるようになった。女子グループの派閥は凄かった。私はグループ行動なんて大っ嫌いだったので、常に一人行動だったが、女子グループからは、ボッチとかダサい、可哀想、憐れとか、粋がってんじゃねえよと帚で叩かれたりした。が、ノリンはただ無言で相手を睨みつけるだけだった。しかしそれでもまあまあ効果はあったらしく、段々ノリンを構う人は少なくなり、ほっとかれるようになっていった。


 ノリンはそれで良かった。干渉されてもうっとうしいだけだった。私なんかに関わらないでほしかった。私と関わると、ろくなことが起きないのだ。不幸にしてしまうだけなのだ。


 ただ、唯一の居場所があったのも事実で、休み時間は保健室にいた。そこにはいじめなどで教室に行けなくなった生徒が何人かいた。教科書を持ち込み、黙々と勉強をしている生徒や、養護教員とおしゃべりをしたり絵を描いている生徒などがいた。


 ノリンがそこで今でも忘れられない人と仲良くなることが出来たことは、唯一の救いだったのかもしれない。アンナ・ローレンスという二つ上の少女だった。背が高く、緑色の大きな瞳と口元の黒子が特徴の綺麗な人だった。大人っぽかったので、少女というより女性という感じだった。ノリンは自分の過去を打ち明けることはしなかったが、例えアンナはそれを聞いたどころで態度を変えることはなかっただろうと思う。弟には強気だったが、本当は弱気で人見知りのノリンが、心を打ち明けても良いと思えた人だった。優しくノリンに話し掛け、いつも笑っていた。こんなに素敵な人なのに、教室に行けないのは何故か、考えたことがあるが、多分その人物の良さに嫉妬されていたのかもしれない。彼女が学校を卒業する時、ノリンは彼女から白いハンカチをもらった。辛くなって泣きたくなったら、これで涙を拭いてねと言われた。私は今でもそのハンカチを常にポケットに入れて持っている。だがその後、アンナがどうなったのかは知らない。


 保健室という小さな空間から抜け出せば、世界はまた残酷さに満ちた場所に戻った。学校の廊下でさえ、歩くと悪口が壁から聞こえてしまうような被害妄想に駆られたこともある。気にしない呈でいても、だ。


 家に帰ると、ノリンは自室でカッターを取り出した。手首だと気付かれるので、七分丈で隠れるくらいの場所に傷をつけた。そっと刃を引くと、しばらくは気付かないが後で薄い赤色の線が残る。泣くと涙の塩気が傷に染みて痛かった。親にもらった体を傷付けるという罪深さはわかっているつもりだった。でもノリンは、もうこの行為でしか自分を癒すことができなかった。


 生きることって、めんどくさい。家出して、夜の繁華街で1人、タバコを吸いながら思った。





 「こんな暗い場所に行く訳?」ナリッサが窓の外を見て吐きそうな顔をした。


 レッドスカルの一味は、もう三十分は車に揺られていた。窓側に乗っているノリンは、憂鬱に外を眺めていたが、段々胸にざわざわとしたものを感じていた。直感が鋭い彼女は、ある想像をせずにはいられなかった。


「夜だから当たり前だろ」カーネルはギアをチェンジした。「あと、もっと行くから」

「カーネル」

ノリンは窓から目を離さずに声を出した。カーネルはちょっと驚いたように眉を上げた。

「何?」

「アイダスはやめた方がいい」

「アイダス?」

 ノリンは気づいていた。この道のりは、アイダスの森に行くのと同じ道のりだ。だいぶ昔のことだからあの時とまるっきり同じ景観ではないが、見覚えのある建物や町並みだった。特にあの古い養豚所。町の酪農家が随分前に作ったというこの場所は、今でも壊されずに続いており、動物園のような獣臭さは、車内にも漂ってきた。弟とあの森に行った時、ここを通った際に臭いを我慢したのを覚えている。

 カーネルはハンドルを握ったまま、ククッと笑い出した。

「おい、ノリン、そんな遠くまで行く訳ないだろ」

「でも、ここ、あの森に行く時の道順じゃない」

「何でそんなことがわかるんだ?」

ヒューゴーが電子ゲーム機から目を離さずに言った。ノリンは一瞬ビクッとして、横のヒューゴーを横目で見た。

「何かそこに行ったことがあって、何かあったりとか・・・だったり?」ヒューゴーが上目遣いでノリンの顔を覗き込んだ。口元には、ニタニタとした笑いを浮かべていた。黄色い八重歯が、意地汚い犬のように光った。

「・・・ないよ」

ノリンは感情のない声で言い返した。ヒューゴーはフンっとニタニタしたまま鼻をならしたが、それ以上は突っ込まなかった。

しかし道を更に行くと、ノリンが以前行った道とは違う道路に出た。そうか、良かった…。ノリンは安堵したようなため息をついた。


 するとジェリーが甘えた声を出して、後部座席から、カーネルの運転枕を叩いた。

「眠いよ~カーネルぅ。いつまでいくのよお」

最初はナリッサが怖がる姿が見られると乗り気だったジェリーだったが、年齢差なのか眠くなってしまったらしい。

「ガキはさっさとおねんねしちまいな!」ナリッサはガハハと笑いながらスナック菓子を口に入れたが、

「待ってな」

と基本的にジェリーに優しいカーネルは、運転席からブラックガムを片手で拾い、ポイッと後部座席に投げた。それを隣で見ていたナリッサは、カーネルの方を裏切られたかのように見つめた。だが、ガムは車で揺られてから一言も喋っていなかったブルートの膝に落ちた。

「お兄ちゃん、あの人からガム取って」ブルートが苦手なジェリーはヒューゴーに囁いた。

それまで目を閉じていたブルートは目を開けて腕組みを解き、ガムを大きな手に取ったが、二秒ほど見つめた後、箱ごと口に放り込み、数回咀嚼した。そしてペッとガムの包み紙だけを吐き出した。

「・・・さすが」横で見ていたノリンはフッと笑った。

 

 「着いたぜ」カーネルはタバコを片手で車の灰皿入れに押しつけ、車を止めた。出発してから既に2時間は経過していた。ナリッサやヒューゴーは爆睡しており、ジェリーもいつの間にか嫌いなはずのブルートの腕に寄り掛かって寝ていた。ブルートはガムの包み紙で器用に鶴を折っていた。ノリンは目を閉じながら、車内に響き渡るヘビィメタルバンドの歌を聴きながら、いかにデスボイスを喉を潰さずに出せるか考えていた。


 一同は目を覚まし車を出た。ノリンは暗い周りを見渡して驚いた。ひんやりとした物が腹に流れる。まさか。 

「カーネル…」 

「着いたぜ~」カーネルはお気楽そうに伸びをし、気を切り替えるように指を鳴らした。「ようし。じゃあ、誰から行…」

「カーネル!」

一同がノリンの方を振り返った。普段大声を出さないノリンが、血色を変えて叫んだからだ。

「なんだなんだ、どうかしたか?」カーネルが目を丸くした。ノリンは疲れの溜まったため息を一つつき、呆れたように言った。

「どうかしたか、じゃないでしょ。嘘…ついたわね」

暗いけどわかる。目の前に広がる草地。前に行った時より荒れている。そして、奥には…。

「アイダス…行かないでって言ったよね」ノリンはカーネルの軽はずみさに幻滅していた。

カーネルは驚いたままの表情でノリンを数秒見つめていたが、突然腹を抱えて大笑いをし始めた。

「何だお前、一番クールに見せ掛けて、一番ビビりじゃん」

「は?や、そうじゃな…」

「へーえ、ノリンちゃんカッコ悪~い」

爆睡して気分が晴れたのか、ナリッサが強気に嫌味たっぷりに言った。

「ほんとー。ちょーかわい~怖がりノリン~」ジェリーも気を逆なでるお得意な口調でナリッサに同意した後、ピアス付きの舌をペろりと出した。

ノリンはいらつきながら皆の言葉を無視し、再び暗い闇に佇む屋敷を見上げた。相変わらず馬鹿でかいチョコレートケーキのようだ。私がレオと行った時と違う道のりでもここに来られたのかと驚く場面なのかもしれないが、今はそんな余裕はなかった。汗が体中から噴き出すのがわかる。胸の鼓動が激しく波打つ。ダメ。ここにだけは行ってはいけない…。

「あ~わかったあ!」

いきなりヒューゴーが大声を出した。皆、驚いて彼の方を見た。

「アイダスねぇ~昔々噂聞いたわ」

ノリンの胸が針金を打った。彼の言いたいことはわかった。

「行方不明者、小さなガキ…何だったかなァ、蛇を探しにいくみたいなくだらない遊びをしに行っ…」

「黙れ」

ヒューゴーの胸倉をカーネルが掴んだ。ノリンはまさか自分を庇ってくれたのかと驚いた。ノリン以外の連中は、このような争い事はストリートに生きる彼ら達にとって日常茶飯事なので、特に驚いた様子はみせなかった。

「ああ?何が黙れだごら」

「今はそんな噂話は関係ねえだろ。びびってんなら帰れ」と言い放ち、カーネルはヒューゴーから手を離した。ヒューゴーは首元を掻くようにさすり、唾を吐いた。ノリンはカーネルから目を離すことが出来なかった。

「あんたたち何してるのよ」ナリッサが言った。

「ああ、俺が真実をおまえらにお教えしようとしてたのさ」

「真実?」

ナリッサはますます意味がわからないというような身振りをした。

ノリンは下を向いた。今まで隠してきたつもりだったが、やはり噂というものはどこにでも飛び火していくものなのだろう。ノリンは覚悟を決めた。

「私の弟がここで失踪したの」

皆驚いたのかシンとなった。ヒューゴーだけはハハッとせせら笑いをした。

「五年前のことなんだ。大蛇を探すためにこの屋敷に入ったの。そしたら…」ノリンは一瞬言い淀んだが、少し小さめに言った。「…弟は消えた」

数秒間沈黙が続いたが、ナリッサが静かに口を開いた。

「…今も、見つかってないわけ?」

「そうだよ」

「ていうか弟いたの!?」

「ええ」

私たちを強い風が纏った。ここに立つだけで何だか疲れてくる。もう彼らに過去を知られるのはどうでもよくなった。ただ、帰りたかった。これから彼らに私が「弟を失踪させた加害者」として見られても構わなかった。

「…行こうぜ」

カーネルが静かに言った。耳を疑った。

「…え?」

「ノリンのトラウマなんだろ?ここに入って、過去と決着つけようぜ」

「バッカじゃない!?」ナリッサが言った。

「ノリンがここに入ったら、ますます心に傷がつくじゃないの!」

こういう時、意外にもナリッサは優しい気遣いができるのだった。見た目は激しいし口も悪いが、誰よりも思いやり深いことをノリンは知っていた。

「俺はさんせー」

ヒューゴーが手を挙げた。相変わらず皮肉っぽく歪んだ口元は変わらない。

「えー!?お兄ちゃんも行くのお?」

ジェリーが叫んだ。面倒なことに巻き込まれたくないのか、駄々っ子のように足を踏んだ。

「やだよ~ノリンが一人で行けばいいじゃあん!」

「じゃあ来ないで良いわよ」

ノリンが冷ややかに言い放った。この子供の相手をするのは疲れる。

「え、でも…」

「あなたは戻って良いわよ。でないとあなたも失踪するかもよ」

「おい」

「何よ噂好き」

「俺の妹を侮辱するな!」

ヒューゴーがノリンの胸倉を掴みそうになった時、間に誰かが入った。

「二人とも、やめて下さい」

見上げると、なんとブルートだった。ブルートはヒューゴーの左手首を掴み、ノリンを守るようにして腕を広げていた。

「行きたい人が行けば良いでしょう…。俺は行きます」

ブルートはヒューゴーの手首を離した。ヒューゴーは一瞬怯んだように目を泳がしたが、何も言わずチッと舌打ちだけをして腕を振り切った。

「ナリッサはどうするんだ?」

カーネルがヒューゴー達を観ながら言った。

ナリッサは片腕を掴み下を見た。

「行かない。ノリンの心に土足で踏み入るようなもんでしょ」

ノリンは彼女の言葉を聞き、一瞬目頭が熱くなった気がした。

「で、ノリンは結局行かないのか?」

カーネルが少し心配そうな顔をした。忌まわしいこの屋敷にまた入ることで、過去のトラウマが払拭されるどころか増幅されることはわかっていた。だが…。

ノリンは数秒間黙った後、ハッキリとした口調で言った。

「行く」

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