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アタラクシア-絶望者の為の桃源郷-  作者: 皐月夙夜
第一部
4/7

絶望の日々

 その後、どうやって家に辿り着いたかは、あまり覚えていない。とにかく必死で森を走り続けていた。


 何とか家に到着できると、パトカーが数台家の前に止まっていた。ドア付近で額に手を当て、疲れた顔で警察と話していた母を見つけ、私はダッシュで母の元へ走った。


 母は突然現れた私に目を見開き、驚いた顔をした。私が半泣きで母に言い寄ろうとすると、母は身をよじり、私を振り切った。そして一発、私の右頬を力の限りひっぱたいた。


「何して…どこに行ってたのよアンタたち!今、何時だと思ってるのよ!」

「…」


 強い口調で母は私を叱った。母としては当然かもしれなかった。私は何も言えず、叩かれた方の頬を無言でさすった。ただただ絶望した気持ちだった。


「レオナルドも出て来なさい!二人には話があるわ」

「あっ…」


 私は口を開きかけた。だが、何かが私を黙らせた。私は口を開けず、地面に目を落としてしまった。それを見た母は、さらに私に聞いてきた。


「ねえ、どこなの?」

母は威圧するように私の顔を覗き込みゆっくりと言った。私は覚悟を決めた。


「レオが…レオが消えちゃったの!私が悪いのよ、全部!アイダスの森にある屋敷に二人でいっ…」

「レオが消えた!?それに、なんですって、ア、アイダス!?ミサにも行かないで何してたと思ってたら…あんたたち、そこまで何しに行った訳!」

 私には、理由を言う勇気と気力が残されていなかった。とにかく、それより大事なことを言おうとした。

「レオのこと私、捜したのよ!でも、どこにもいなくって、わ、私…」

最後まで言えなかった。私のせいだ。私の責任だ。私が全て悪かったのだ…


 私は母から顔を逸らした。堪えきれない想いが涙となって溢れ出てきた。

「…ちょっと来なさい」そんな私をしばらく見ていた母は私の腕を掴み、さっきまで話し込んでいた小太りな黒人警官を素通りし、ずんずんとパトカーの方へ歩いていった。


「今すぐアイダスの森にある屋敷に行って下さい。私も車で行きますので。私の息子が行方不明なんです」

随分と落ち着いた口調で、母はガリガリとした老警察官に話し掛けた。

「ん、何っ、アイダスですと!?」

警察官はくわえていた安物の煙草を落とした。

「ええ!だから早くして欲しいんです」

母はイライラしたように声を張り上げた。


 警察官は、足で煙草の吸い殻を踏み潰し、一瞬遠くを見てフリーズしたが、突然思い付いたように急いでパトカーの運転席のドアを開けた。

「レイモン、今からアイダスだ」

「アイダス?そこに子供がいるのか?」

レイモンと呼ばれた男の切れ長の目が、疑わしげに一瞬濁った。

老警察官は言った。

「早くしてくれ。こちらの親子も行くそうだ。緊急事態だからな」

レイモンはサイドミラーから鋭い視線でノリン達を見た。そしてトランシーバーで何かを手短に話した後、車から言った。

「ラピスさん、娘さんもこちらに同行いただけますか」

母は言った。

「はい、私は車で…」

「いえ、夜道ですから、はぐれない為にもパトカーにご同乗願います。それから娘さん」

いきなり振られた私は、ビクッと肩を上げた。

「…はい」

「君は助手席に乗ってもらおうかな。道を教えてほしい。アイダスの、どこに行ったんだい?」

「弟と二人で、大蛇の出る屋敷です」

「屋敷?…まさか…」

レイモンは一瞬、深い眉間に深刻さを刻んだ。が、平静さを取り繕り、「では乗って下さい」と形式にそった口ぶりで言った。


 警察による捜索は、その日から丸々一ヶ月続けられた。アイダスの森は、私の予想を遥かに超える広さがあったらしかった。もちろん屋敷での捜索も行われた。私は警察と同行した際に、大蛇が潜った床扉のことを教えたのだが、奇妙なことにそんな扉は見つけられなかった。レオのことも見つけられず、何一つ手がかりを掴められないまま、捜査はお蔵入りとなってしまった。


 私はその一ヶ月間気が気でなかった。夜中も朝方まで眠られず、ずっとベッドの中で静かに泣いていた。三日ほど捜査に同行したが、子供だしまた何かあると困るということで、捜査からは外された。正直学校には行く気になれなかった。だが私が家にいると、事件以来体調を崩してしまった療養中の母が、ヒステリーを起こし私を殺しかねないのは百も承知だったので、逃げ込むように学校へ行った。


 レオナルド行方不明事件は町の大スクープとして既に町中に広まっていたらしい。私が学校に着き、自分用ロッカーから荷物を取っていた時、視線とコソコソ声を感じた。私は荷物を取り、バンっとロッカーを閉めた後、後ろをちらりと振り返った。


 柱の陰に、同じ学年のライラとクルエラがいた。二人は顔を見合わせたりノリンを見たりして、意地悪な笑みをみせていた。

「…何」

私はイライラしながら、二人に言葉を投げつけた。すると二人はまた顔を見合わせた。

「ねえ、あの屋敷に行ったの?」ライラがわざとらしい心配そうな猫撫で声で小首を傾げた。

「…そうよ」

「弟君、助かるかしら?」クルエラの声と顔は、この事件のことを楽しんでいるのを、もはや隠そうともしていなかった。

「知らないわよ!」

私の頭の血管が、何本かブチリと切れた。私は教科書を脇に抱え、ダッシュで幾何学の教室へと行った。あの二人が弟の安否を心配しているのではなく、この平凡な町の一大スクープとして楽しんでいるのは、火をみるより明らかだった。


 教室に一歩足を踏み入れたとたん、騒がしかった空間が、一気に水を打ったようにシンとした。私は正直一瞬戸惑ったが、平静を装い、いつものように、窓側の一番後ろの席へと歩いていった。


 席に座り、頬杖をついて、ぼんやりと窓の外を見た。自転車を漕ぐおじさんや、チュロス屋の車などが見えた。次第に、またザワザワと教室が賑わってきた。いくつかの視線も 感じたが、気にしないふりをした。


 景色を見ながら、私はただただレオのことを考えていた。バカなレオ。弱虫で泣き虫な、はなたれ小僧。勉強だけは出来たけど、人に頼らないと何も出来ず、何も上手くいかない弟。


 ふと窓に映る自分を見て驚いた。知らぬまに、涙を流していたのだ。私は服の袖で、誰かに気付かれないように、そっと涙を拭いた。

 

 涙だけは、誰にも見られたくなかった。

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