亜理沙の決意
半分ほど残ったジュースを飲み干して、空き缶をすぐ近くのゴミ箱に投げ込み、羽奈に向き直る。
「名前」
「はい?」
脈絡のない単語を投げかけられて、羽奈は不思議そうに首を傾げた。そんな仕草さえ愛らしいと思ってしまうのが少し悔しくもあった。
「羽奈ちゃんが付けたサボテンの名前、なんていったっけ?」
「フィリー、です」
「じゃあ、ひとまずアンタのことはフィリーって呼ぶわ、ややこしいから」
まだ全てを信じたわけではないにしろ、どちらも羽奈では頭が混乱してしまいそうだ。イチイの精霊に連れて行かれたらしいほうを羽奈、今、目の前にいる彼女をフィリーと呼び分けるとしよう。
「フィリー、アンタはどうしたいの?」
今までの発言が本当だと仮定すると、暢気に亜理沙のところに遊びにきている場合ではないはず。何か理由があって亜理沙を訪ねてきたのではないのか。
「私は……、ただ、羽奈さんに戻ってきてほしくて……」
フィリーは何度となく羽奈の両親に訴えかけたが、まるで信じてもらえず、四月馬鹿はとっくに過ぎたと笑い飛ばされてしまった。当然といえば当然、こんな常軌を逸した事柄をあっさり信じる人間はきわめて少ないだろう。
フィリーがイチイの樹にいくら呼びかけても、羽奈は姿を現さなかった。
家からほとんど出たことがないフィリーは、羽奈の友人についても詳しくは知らず、身近に頼れる相手はいなかった。そして、困り果てた末、夏休みを利用した小旅行を名目に亜理沙の元へと救いを求めてやってきた。
これがフィリーの語った“理由”だった。
「私が知っている、羽奈さんと一番親しい人は……、あの日、泣きながら私を羽奈さんに贈った亜理沙さんなんです」
フィリーの言葉で改めて思い出す、羽奈との別れの日。涙と鼻水で顔はぐしゃぐしゃで、泣きすぎてまともに喋ることもできず、不器用にリボンをかけたサボテンの鉢を突きつけたのを覚えている。甘酸っぱさに少しの苦さも入り交じった、初恋の記憶。
なんだか照れくさくなってきて、亜理沙はフィリーから目をそらし、指で毛先をくるくるといじり始めた。
「私では無理でも、亜理沙さんの呼びかけになら、きっと応えてくれると思います。すぐにとは言いません。亜理沙さんの都合の良いときで構いませんから、会いに来てください、本物の羽奈さんに」
「……考えとくわ」
即答はできなかった。説明された事情はあまりに現実味がなく、全てを聞いても尚、信じきれないでいる。
信じたい、力になりたい。
ありえない、嘘に決まっている。
相反する二つの想いが、亜理沙の中でぶつかり合っていた。
「暗くなってきたし、そろそろ帰ろっか」
「はい」
フィリーは鉢をバッグに入れようと持ち上げた。
「ちょっと、それ枯れかけてない!?」
星形のサボテンの縁が茶色に変色し、昨夜見たときよりも明らかに萎びてきている。
「こんな暑い中、持ち歩いたりするからよ。早く戻って水を……」
どこにでも売っている珍しくもなんともないサボテンでも、亜理沙と羽奈との想い出の品である。しかも、十年もの間、大事に育ててくれていたものだ。簡単に枯らしてほしくはない。
「無駄です」
フィリーはいやにハッキリと言い切った。
「さっきも言ったように、魂を失った身体は死体と同じなんです」
「あっ……」
どうして気づかなかったのだろう。
羽奈の身体にフィリーの魂が入っているとすれば、フィリーの本体であるサボテンは謂わば抜け殻のようなもの。
魂の抜けた死体は、いずれ朽ちていく──
「アンタはそれでいいの?」
羽奈の身体に本人の魂が舞い戻ってきたとき、サボテンが枯れていたら、フィリーの魂は行き場を失う。つまりそれは、フィリーの死を意味する。
「私は、羽奈さんさえ戻ってきてくれれば、それで……」
「だったら、どうしてそんな大事そうに鉢を抱えてるの」
フィリーは亜理沙の言葉に表情を歪め、俯いた。
自らの生に執着がないというのなら、小振りでもそれなりに重量はあるだろう鉢植えをわざわざ持ち運ぶようなことはしないはずだ。
「はっきり言いなよ。枯れたくない、死にたくないって!」
鉢を持つフィリーの手が、小刻みに震えだす。
「亜理沙さん……、私……」
おずおずと顔を上げたフィリーの瞳から、一粒の涙がこぼれ落ちる。透明な雫がサボテンを濡らしても、アニメや漫画のように奇跡は起こらない。フィリーの魂が戻らないかぎり、サボテンは朽ちていくのだ。
フィリーの涙を見て、亜理沙は決心した。
疑うのはやめよう。
全てを信じよう。
亜理沙は震える華奢な手に自分の手を重ね、ぐっと力を込める。そして、真っ直ぐにフィリーの目を見据え、言い放った。
「行こう、羽奈ちゃんのところに」




