プロローグ
幼稚園最後の夏休み、宮森亜理沙は母に連れられ遠い田舎に暮らす親戚の家に遊びにきた。
「ありがと、由紀。何から何までお世話になっちゃって」
「いいのいいの、遠慮せずに自分の家だと思ってくつろいでいってね」
亜理沙の母・美沙は、親戚の天本由紀という女性と親しげに言葉を交わす。母の足元で、亜理沙はじっと身を隠すように立ち尽くしていた。由紀の隣には、亜理沙と同じぐらいの年齢と思われる子供が一人。ミルクたっぷりのカフェオレのような薄茶色のショートヘアで、服装はロゴ入りの真っ赤なTシャツにカーキのハーフパンツ。飴色の丸い瞳で、興味深げに亜理沙を見つめている。
亜理沙はもともと人見知りが激しいうえに、髪型と服装のせいか相手の性別すらわからないこともあって、目が合っても母のスカートを握り締めてただ俯くだけだった。
「羽奈ちゃんも年長さんだっけ?」
「ええ、そうよ」
「じゃあ、うちの亜理沙と同い年ね」
──はな? 女の子?
顔を上げるとまた目が合って、思わず母の後ろに隠れた。
「こら、亜理沙。羽奈ちゃんにご挨拶なさい」
母に促され、おずおずと顔を出す。
いつの間にか、羽奈がすぐ目の前まで来ていた。背丈は同じぐらいだ。
「わたし、羽奈! よろしくね、亜理沙ちゃん!」
羽奈の無邪気な笑顔に、一瞬で心を奪われた。
これが亜理沙の初恋だった。
由紀の家に滞在中、気弱で引っ込み思案な亜理沙を、羽奈は強引なぐらいにあちこち連れ回した。由紀には「亜理沙ちゃんに無理させるな」と叱られたりもしていたが、亜理沙は満更でもなかった。仲良くしたくても自分から「遊ぼう」とは言い出せない亜理沙は、羽奈の押しの強さに随分と助けられていた。
「羽奈ちゃん、どこに行くの?」
ぐいぐい手を引かれながら、羽奈に訪ねる。
「今日はね、わたしの一番お気に入りの場所に連れてってあげる!」
羽奈が連れてきてくれたのは、円錐系に葉を広げた大きな針葉樹の傍だった。イチイという名の樹だと、羽奈は教えてくれた。
「この樹、三百年くらいか、もしかしたらもーっと昔からここにあるかもしれないんだって。すごいよね」
一応うなずきはしたものの、三百年、と言われても、数字が膨大すぎるからか亜理沙はどうもピンとこない。
「それにね、おばあちゃんから聞いたんだけど、この樹には精霊さんが住んでるんだって」
「精霊? 樹の妖精さん?」
亜理沙は精霊という言葉に馴染みがなく、思い浮かべたのは母と一緒に読んだ絵本の【ピーター・パン】に登場する妖精ティンカー・ベルだった。
「たぶん、そんな感じだと思う。会ってみたいなぁ、精霊さん」
イチイの幹に手をあて、目をキラキラ輝かせて見上げる羽奈。
「そう、だね……」
いまいち理解できないまま、亜理沙は羽奈に嫌われたくないがために同意してみせた。
その後も、イチイの樹の下でおままごとをしたり、一緒におやつを食べたり昼寝をしたりと交流は続き、一気に仲が深まっていった。
だが、滞在期間は一週間と初めから決まっていた。
あっという間にやってきた別れの日。
次にいつ会えるかはわからない。それまで自分のことを忘れてほしくない。ずっと覚えていてほしい、そんな願いを込めて、亜理沙は羽奈にプレゼントを贈ろうと考えた。
花屋で母にねだって小さなサボテンの鉢植えを買ってもらい、不器用な結び方のリボンを添えて──
別れ際、大泣きしながら鉢を渡した亜理沙に、羽奈は若干潤んだ目をして微笑んでくれた。
「ありがとう、大事に育てるよ」
そう言った羽奈の声は、微かに震えていた。