PHASE.1 ハードボイルドが足りない秋
地獄の釜が開いたようだった砂漠の街からもようやく夏の熱気が去り、私は干しリスにならずに済んだ。リス・ベガスは一晩中の生ぬるい風と、さめざめとした雨が通り過ぎた後、一気に寒くなった。
真夏の危機を乗り切った私は、この小さな城でようやく息が吐けるようになっていた。干しリスになりそうだったあの夏、成り行きながら新規職員を入れると言う危険を冒したが、事務所の収支も安定し、どうにか冬を越せそうだ。
この頃の日常は平穏だ。しかし私の胸には、今、一抹の不安があった。
そんなことは大したことじゃない。干しリスになって、洗面所の排水管にネクタイをかけてぶら下がることを考えれば、ちっとも深刻なものではないと人は言うだろう。
しかしそれはうっかりYシャツにこぼしてしまったワインのシミのように、目を背けそうにも背けがたい、今、そこにある脅威に他ならなかった。
なるほど、事務所が持ち直したのは喜ばしいことだ。無理して入れた職員のサラリーに遅滞がないのも誇りだったし、あくせく働く毎日の末、夕方七時過ぎに飲むビールには、確かに満足していた。
だが諸君、問題は何かが足りない、と言うことだ。それは決定的なほどだった。そして我慢しがたいことのだ。何が足りないって?私は、この事務所に欠けているものを今、ここで精確に言い当てることが出来る。
ハードボイルドだ。
「スクワーロウさん、デスクのパソコンにエレファント証券さんから、企業調査の依頼の件、詳細をメールで送って頂いてます。それと、バック通り二六四、カモシカのシルバー氏より受けた、愛人ネコのミリーの身辺調査の結果ですが…」
客観的に見て、クレアはめっけものの逸材だったと思う。入って数か月だが、すでに私が与えた保留していた仕事も卒なくこなし、この沈没がデフォルトの事務所の困窮の救い主になってくれた、と言って良かった。
元・路上警察官の経歴も伊達じゃなく、もう街の地理もばっちりだ。正直この数か月は、あんまり私の教えるところってなかった。そんな気さえする。
「今日わたしは、家出された息子さんの件でジャック・スタイルズ氏に会って来ます。市内でまだ目撃談があるので、周辺を聞き込みしてそれから事務所に帰ってこようと思います。スクワーロウさんは?」
「あ、ああ。私は今日はお休み…いや、少し依頼の情報を集めてくるよ。何だっけな先週」
「…ニャーオーリンズからいらした、バーマンご夫妻の失踪した息子さんの件ですか?」
私はあわてて頷いた。
「そうだ。そう確か、来週ご夫妻が来るんだったよな」
クレアは頷くと、毛足の長い睫毛を伏せた。
「残念な結果になってしまいましたが、仕方ありませんね」
「そうだな。報告書を書くのに、知り合いの警官からもう少し話を聞いてみるよ」
「よろしくお願いします」
私は内心、ため息をついていた。
これもクレアが取ってきた依頼だ。最近、私はクレアの事務所の職員みたいである。
アメリカンショートヘアのバーマン夫妻の一人息子のフレデリックが、州境の砂漠の中のガススタンドで何者かによって射殺されているのを発見されたのは、先週の金曜日のことだった。
当初この事件はギャング同士の小さな争いとして扱われた。私が夫妻から預かったアルフレッドの写真付きの資料を、市警の古馴染に手渡していなかったなら、死体置き場の彼の保管ケースにはまだ、身元不明者の鑑札が掛けられていたろう。
いつものダイニングに行くとバーニーはおらず、奥の四人掛けのシートに約束の時間前から大柄なブルドッグが座って種類の少ないメニューと睨めっこしているところだった。
この男が私の市警時代の同僚、ダド・フレンジー。今でも物騒なギャングの抗争や押し込み強盗などハードな犯罪を担当する腕っこきだ。一緒に居る地リスは相棒で、こちらも私の後輩のリック・ランズだ。
「悪いな、二人とも。忙しい中」
私が声をかけるとブルドッグは、皺で三重になった太い頸を回した。
「気にするな。やっと、夜番のシフトが明けたところだ。お前さんの相手が終わったら、さっさと塒に戻るさ」
「リック、お前、寝てないんじゃないのか?」
「今日も、ですよ。これで三日めだ」
私が冗談めかしてからかうと、リックは砂糖たっぷりのエスプレッソを持ち上げて苦笑してみせた。私が市警にいたときは、彼も徹夜の跡の目立たない爽やかな新人だった。
「お前が心配することじゃないぜ、スクワーロウ。こいつは来月、二人目の娘持ちになるんだ」
ダドは大きな身体を揺すると、バッグから私が預けた資料を返した。
「さて、めでたい話題はここまでだ。話は少し厄介だぞ。まずあんたがお探しのフレディだが、ご両親に遺体を引き取ってもらうのには、俺たちを納得させてもらう必要がある。何しろ、偽名と別人の社会保障番号を持っていたんでな」
「何だって」
思わず、声色が変わった。ダドが取り出したIDに張られた顔写真は確かにフレデリックのものに間違いはなかったが、そこには『パトリック・ルース』と言う別人の名前が書かれていたのだ。リックも手帳を取り出して話に加わる。
「そしてこの社会保障番号ですが、大分前にIDの盗難届が出ていました」
「つまりフレデリックは、誰かから偽造のIDを手に入れた、ってことだな?」
ダドはたるんだ頬を歪めると、さらに別の男の鑑識写真を取り出した。殺されたのは、狸だった。
「その通りだ。別に弾丸を喰らった男は、キングス・レイド。あのヴェルデ・タッソの下部組織の構成員だ。ちんぴらだが、窃盗と詐欺の前科がある。偽造IDはこの男から手に入れたんだ」
何やら事態がきな臭くなってきた。ヴェルデのやつ、穏便に堅気の商売に勤しんでいると思ったら、まだまだハードボイルドなことをしてやがったのである。
「それにしても、ID偽造とは初耳だな。知ってると思うがヴェルデ・タッソは、昔気質のやくざだ。ハイテク犯罪だってからっきしだし、偽造とか、そんなに手の込んだシノギには、手を染めた試しがないと思うがな」
「新世代が、出て来てるってやつさ。おれもお前もハイテクには精しくないが、現場はいまだによく知ってる。新しいシノギで頭角を表わすやつってのは、いつでも下から上がって来るもんだろ?」
「確かに。私も今、気づいたら新人の使いっ走りをさせられてるよ」
私は肩をすくめた。世代交代の波って奴だ。したくはないが、現状、理解出来ないことはない。
「お蔭でリス・ベガス市内の車上強盗や旅行者の盗難などで、IDを盗まれるケースが急増しています。罰金や懲役逃れをした犯罪者が偽のIDを持って堂々と街を歩いてるんですよ?」
「そいつは困った話だな」
私はため息をついた。ハードボイルドも新局面である。新しい綺麗なIDで連中は、銃を調達するのだ。犯歴のある連中が、指名手配の脅威からも逃れていると思うと、ぞっとする。
「で、まさか、これから私にただ働きをさせないだろうな?」
「ただ働きじゃないだろう」
ダドは苦いブラックコーヒーに砂糖を山ほどぶちこんで飲むと、太い頸をすくめた。
「遺体の面会と葬送の手配は、任せておけ。おれがすぐ、手続きをして話を通してやる。スクワーロウ、その間お前は、ヴェルデの辺りを嗅ぎまわって、それらしい線を見つけてくれりゃあそれでいい」
「後はおれたちが、引き継ぎます」
三徹のリックが自信満々で胸を張った。
「子供が生まれるからって、無理するなよ」
やれやれ、結局いいとこ取りか。
だが連中の言う通り、しがない私立探偵がギャングの裏商売を暴いたところで一文の得にもならない。警察の仕事以外の何者でもない。とりあえずダドとリックが納得しそうな情報を匂わせておいて、後は降りさせてもらうに限るだろう。