デレない新妻を×××
馬に乗りながら屋敷の門をくぐると、向こうから誰かが駆け寄ってきた。
「あっ、お帰りなさいませ~!!」
満面の笑みで俺を迎えたのは新妻……ではなく、ただの従者だ。
ちょっと可愛い顔をしているが、あくまで男。
俺にそっちの趣味はないし、何よりヤツは夜会でよく女性に囲まれているので、憎いくらいである。
「お勤め、ご苦労様です~」
「ああ」
「馬は俺が厩舎に連れてきますので」
「ああ」
「お風呂になさいますか? ご飯になさいますか? それとも……」
「風呂!!」
……恐ろしい。
俺は寒くもないのに震える。
この従者は「それとも……」の後に何を言うつもりだったのだろうか。
眉間に皺を寄せて、手綱を握って隣に立つ従者を見る。
「旦那様~? どうかなさいましたか?」
「いや……」
「あ、やっぱりお風呂じゃなくて、お……」
「風呂だって言ってんだろうがっ!!」
また怪しげなことを言いかけた従者に怒鳴る。
「そんなに大きな声を出さないで下さいよ~」
従者は涙目で俺を見る。
「気持ち悪い」
「えっ、ひどい」
「うざい」
俺は吐き捨てる。
「大体、何で迎えがお前なんだ!!」
「それは俺が従者だから……」
「そうじゃない!!」
頭を抱え、庭の中心で思いを叫ぶ。
「何で!! あいつが!! 迎えに来てくれないんだ!!」
「お、奥様はお部屋です……」
そんなことは分かっている。
「仕事で疲れた。あいつに会いたい」
「だから、さっき、それとも、お菓子を持って奥様の部屋に行かれますかと聞いたのに……」
従者は恨めしそうな顔で俺を睨む。
そうか、そういうことだったのか。
どうやら、怪しげなお誘いは俺の勘違いだったようだ。
すまなかったな。お前が夜会で男色伯爵に迫られていたことは忘れてやろう。
俺は口に出さず、心の中だけで従者に謝罪する。
「実家の子爵領から取り寄せた菓子ですから、旦那様が取り寄せたと口実にして、是非、奥様に差し上げてください」
「お前……」
意地っ張りな妻とのきっかけのために、こんなに気を回してくれるとは。
ありがとう。お前が夜会の次の日に腰をさすっていたことは、これ以上他人に、言いふらさないでやろう。
目頭を押さえながら、謝意を念で送る。
「それでは、後で届けますので、旦那様はお先に奥様のお部屋に行ってください」
「ああ」
俺は屋敷に入り、まっすぐ妻の部屋へ向かう。
ノックをすると、どうぞ、と返事があった。
「入るぞ」
部屋の中にいたのは女中と妻だ。
「あ、おかえりなさいませ」
妻が刺繍をしたまま、俺に言う。
今日も可愛い。
肌は真っ白でつやつやとしており、頬はつまみたいくらいだ。
緩く結われた栗色の髪はぐしゃぐしゃにしたい衝動にかられるくらいだし、黒目の大きいたれ目も可愛らしい。
俺は妻に笑いかける。
「今帰った。刺繍をやっているのか?」
「はい、女中に教えてもらっています」
彼女は結婚する前、城に準武官として仕えていた。
それ故、女性らしいことがあまり得意ではないのだと言う。
白い布には何やら悪魔でも召喚できそうな模様が縫われているが、目の錯覚だろう。
その証拠にお手本である女中の布には美しい花が縫いとられている。
まあ、たとえ失敗していたとしても可愛らしいのだが。
彼女はとても意地っ張りで強がりだ。
例えば……
「そうか、お前は刺繍が苦手だったな」
「苦手ではありません!! 今まではやってこなかっただけです!!」
妻がすぐさま言い返す。
「そうか、じゃあ、すぐ上手くなるだろうな」
「あたりまえです!! 私は苦手なことなどありませんから!! 何でもできますから!! 別に旦那様なんていなくても平気です!!」
彼女は息巻いてすさまじい早さで針をザクザクと刺していく。
「お、奥様……」
横で女中が子供でも見るかのようにおろおろと心配そうに見守る。
……あ。
「いたっ」
案の定、妻は指に針を刺した。
しかも、なんと器用なことか。彼女は右利きなのに右手の薬指に針を刺したようだ。
指先に朱玉が乗る。
「大丈夫か」
「平気です!! 痛くなどありません!!」
説得力のない涙目だ。
「見せてみろ」
隣に椅子を引き寄せて座り、引っ込めようとする手を引き寄せたところで、いいことを思い付いた。
そのまま、指を口許に持っていき、ちゅっと血をなめとる。
妻は一瞬固まったあと、一拍遅れて、
「いやぁぁぁああっ!!」
と声をあげた。
「あ……あぁ、あ、うぁ、な、なんて、なんてことするんですか!?」
涙目の妻が真っ赤な顔をして、こちらを見てくる。
恐らく無意識だろうが、上目遣いになっていて、理性が決壊しそうなくらい可愛い。
「止血だ」
「そ、そんな止血の仕方知りません!!」
「なんだ、そんなことも知らないのか」
「そうじゃありません!!」
妻は必死で自分の手をとりもどそうとしているが、俺は離さない。
強がってはいても筋力はやはり弱いので、大して力も入れていないのにびくともしない。
「こ、このようなやり方は変れす……!!」
動揺して呂律が回っていないのだろうか。
結婚しているのに動揺しすぎだ。まあ、分からないでもないが。
「どうして変なんだ?」
「だって、だ、だって、その……」
「ところで、接吻はする部位によって意味が違うんだが、指先の接吻がどんな意味か知ってるか?」
知らない、とは言えないようで、視線が回遊魚のごとく泳いでいる。
もう少しからかってやるか。
俺はにやりと笑う。
「指先への接吻は愛情だ」
ふしゅぅぅぅと音を立てそうな勢いで顔が茹で上がった。
「そ、しょうですか……」
と、舌っ足らずに言ったきり、何も言わなくなってしまった。
今のは脳がオーバーヒートしてしまった音だったのだろうか。
「ちなみにな」
と、言って手首に口付ける。
思考停止した妻は瞳孔が開ききったまま、微動だにしない。
「手首への接吻は"欲望"だ」
え、と一言声をこぼした彼女の手首を軽く引っ張り、腰を抱き寄せる。
「この後、風呂に入るんだが、一緒にどうだ?」
「む、むん、むん、むっ」
ムンムンしているのはこちらなのだが……どうやら無理だと言いたいらしい。
「それとも、このままベッドに行くか? 何なら、今すぐ椅子の上ででもいいが」
今にも涙がこぼれそうなほど、彼女の目が潤む。
まずいな。
俺は内心でため息をこぼす。
こんな顔を見てると、もっといじめたくなる。
困りきったらしい彼女は手だけでも自由を取り戻そうとしているのか、ぶんぶんと振り回し、それでも無理だと分かったのか、女中に目で助けを求める。
「へぇ、女中に助けを求めるのか」
意地の悪い声を作って、妻に言うと、肩がびくりと跳ねる。
「助けを求めるのは、夫の俺じゃないのか?」
「あ、あなたになど助けてもらわなくて結構です……!!」
助けも何も、この状況の根源は俺なのだが、彼女は気づいていないようだ。
「ほら、言えよ」
そう言って、震える唇に接吻する。
びくり、と腕の中で身体が跳ねた。
「『助けてください、旦那様』って。言わないと続きをするがいいのか」
ついでに恋愛小説のお決まりの台詞を言ってやる。
「今のお前に拒否権はないぞ」
物理的に。
妹に薦められて読んだときは、なんとくさくて寒い台詞なのかと思ったが、この状況でいじめるために使うのは悪くない。
さて次はどうし……
「お菓子入りまーっす!!」
ノックもなしに騒々しく入ってきたのは誰かと、うんざりして振り向く。
半ば予想はついていたが、やはり従者だ。
「お~ま~え~」
「え、俺なんかしましたか?」
事情の分からない従者に、女中がグッジョブと言わんばかりに親指を立てる。
ここは俺の屋敷で、お前らは使用人だろうが!!
「あ、もしかしてお楽しみ中でしたか」
「ち、違います……!!」
慌てて否定をした妻が油断した隙に腕の中から逃げる。
ちっ。もう少しいじめて遊ぼうと思ったのに。
菓子も来たので、渋々諦める。
有能な女中は素早くテーブルに菓子を並べ、紅茶を入れに来た。
「奥様をいじめるのもほどほどになさいませ」
紅茶を入れながら、女中が耳打ちした。
ふん、別にいいだろうが。
なんだよ、その目。何か文句あるのかよ。反省なんてしないからな。
おい、そこ、二人で目配せしてため息とかつくんじゃない。
「ほどほどに、なさいませ」
……うるさい。
* * * *
俺は城で直下近衛師団として働いており、先日、辞令が下った。
側付きの執務官に昇進したのである。
近衛師団は元々、城の警護が仕事だが、直属となると厄介な書類仕事も回される部署だ。
執務官は皇帝の護衛とサポートが仕事で、つまりは雑用係のようなものであるらしい、と他の近衛の連中から聞いた。
実際に就いてみると、雑用係などとんでもない。
ただの奴隷である。
皇帝の気まぐれとわがままにかなり振り回され、疲労困憊の日々だ。
……仕事の愚痴はここまでにしておこう。
そんな執務官だが、俺が就くには問題があった。
未婚の男性は執務官になれないので、早急に結婚するように、と辞令書に書かれていたのだ。
それにはれっきとした理由があった。
今上帝は妙齢の女性なのだ。
身分も態度も正に"女帝"……いや、なんでもない。
そんな女帝様に万が一のことがあってはいけないから、という理由らしい。
ぶっちゃけ、既婚だろうか未婚だろうが、やるときゃやると個人的には思うのだが、重臣たちとしては「全力はつくしましたが、大変遺憾なことに」という世間体が必要なのだろう。
というわけで、俺は可及的速やかに結婚しなくてはいけなくなった。
一応、城で斡旋してくれるらしいのだが、できれば自分で選びたい。
女というのは厄介なのだ。
そこで思い出したのが、彼女、現在の妻である。
直下近衛師団は城と重臣など要人の警護が仕事だが、ただの近衛師団は城下の治安や国民を守るのが仕事である。
そんな近衛師団に所属する、ある女性がいるという話を聞いたことがあった。
近衛に所属する女性はいないわけではないが、彼女は毛色が違うらしい。
女性近衛の多くは実家に金がないため所属している。
もしくは、男顔負けの剣術の腕を持っている女性だ。
彼女の実家は、近頃、貿易でその名が有名な子爵家だし、彼女自身も華奢で剣術など到底出来そうもない。
では何故近衛に所属しているのかというと、結婚したくないから、らしい。
俺も一度だけ見かけたことがあるが、彼女は見た目だけでも童顔で庇護欲をそそるタイプだ。
幼い頃から、学校や夜会で男性が恩着せがましく助けてくるのに嫌気が差し、独力で生きることを決意した。
と、本人が語ったわけではないが、その頑なな態度で丸分かりだと彼女と同僚の友人から聞いた。
親切で助けようとしても、大丈夫ですから!! と言って決して他人の手を借りようとしないらしい。
そんな彼女は近衛師団の第三分隊で副官を勤めているらしい。
腕っぷしの仕事はできないので、親のコネで書類仕事だとか。
事務は有能らしいが、本末転倒ではないだろうか。
まあ、そんな彼女なら、結婚しても過干渉してこないだろう、と結婚を決意したわけだ。
夜会に行けば、爵位がどうの財産がどうのと我が儘放題の癖に夫が構ってくれないと悲劇のヒロインぶりっ子の女ばかりなのだが、そんな女は遠慮願いたい。
娘は結婚を嫌がっているから、と渋った父親の子爵の説得に苦労したのは、また別の話である。
結婚式をしたくないと彼女が言い、俺も金を使わずに済んだので、これ幸いと結婚式は開かなかった。
屋敷に彼女がやって来て、書類に署名して城に出せば終わりなのだが。
「これから、宜しくお願いします」
対面の際に新妻はそっけなく言った。
「私はこの結婚は本意ではありませんから。勘違いしないでください」
「ああ、そのことは重々承知の上だ。無理を言って申し訳ない」
「全くです」
冷たい目で俺を見る。
「貴女に不自由な思いはさせたくないので、何かあれば言ってくれ」
「結構です。私は貴方などいない方がいいのですから」
そう言い捨てると、彼女は去っていく。
もう少しうまくやれると思ったのだが……。俺は選択を間違えたかもしれない、と不安になった。
そして、お約束の初夜。
近頃は貞操観念が緩く、結婚初夜で経験豊富というのもしばしばあるらしい。
俺自身も娼婦だけでなく、貴族の女性と火遊びをしたことがある。
同僚や上司が火遊びで酷い目に遭ったという話を度々聞くが、俺は一度もそんなことはない。
後腐れのない相手を選ぶ眼力は自慢だ……という話はさておき、恐らく妻になりたてホヤホヤの彼女は、その性格からして火遊びなどしたことがないのが明白だ。
生娘か……と吐息をこぼしつつ、寝室に入る。
ベッドの上には夜着を来た新妻が大きな枕を抱えながら、正座をしていた。
「あ、あのっ、この夜着、すごく透けててっ、は、恥ずかしいので、枕を抱いたままでもいいですか……っ」
開口一番、妻は先程とは別人のような態度で出迎えてくれた。
二重人格を疑うほどだ。
「は? ああ、どうぞ……」
その勢いにつられて、うっかり頷いてしまうが、あんなに枕を強く抱き締めたまま、どうやって致すというのだろうか。
とりあえず、彼女の隣に座る。
おいで、と手招きをすると、ぎゅっと枕を強く抱き締め、恐る恐るこちらへやってくる。
まるで小動物のようだ。
とって喰いやしないというのに。いや、今から食べることには食べるのか。
ふわりと抱き上げて、膝の上に乗せると、彼女は震えていた。
「緊張してるのか?」
「大丈夫ですっ!! こ、怖くなどありませんっ。平気ですから!!」
まるで自分に言い聞かせるかのように言う。
その態度に、昼間の態度は強がりだったのか、と気づく。
冷たいといってもいいあの態度は、余程緊張していて、余程強がっていた故なのだろう。
二重人格などではなく、噂に違わぬ意地っ張りだ。
「すごく震えているが」
「武者震いというやつです!! 私は近衛で副官をやっていたので!!」
準武官とはいえ、仕事内容は完全に文官だというのに、自分としては武官のつもりだったらしい。
強くなりたいと思っていたのだろうか。
この意地っ張り具合を見ると、間違っていなさそうだ。
「じゃあ、遠慮なく、欲望のまま激しくしてもよろしいか」
そんなつもりは毛頭ないのだが、冗談めかして、言ってみる。
彼女は膝の上でひっ、と息を飲んだ。
何回か深呼吸をしたあと、必要以上に大きな声で言う。
「だいじょぶです!! へきです!!」
本気にしたようだ。
この言葉も恐らく、精一杯の虚勢だろう。
頭を撫でようとして髪に触れると、彼女はびくりと震えた。
何かに耐えるように、ぎゅっと強く目をつぶる。
緊張を解こうと、髪に触れたつもりだったのだが、逆効果のようだ。
ふっ、と俺は笑う。
「今日は何もしない」
ふぇ、と奇妙な声を上げて、彼女が俺を見上げる。
マシュマロのように真っ白な肌に、林檎のような紅い頬が映える。
今すぐ押し倒して、壊して、自分だけのものにしたい衝動にかられる。
自分の妻だからだろうか。今までこんな衝動にかられたことなど、なかったのに。
「俺が無理を言って結婚したんだから、お前に合わせる」
「ほ……んとですか?」
昼間の硬い声音と違い、かすれた、迷い子のような声だ。
「何もしない。その代わり、抱き締めて寝てもいいか?」
こくりと彼女が頷く。
頬に口づけをして、布団に入る。
抱き締めた妻は頼りないほど柔らかく、花のような香りが鼻をくすぐった。
* * * *
以前は仕事で疲れているからと馬車での城へ通っていたが、今は一刻も早く帰りたいがために、馬に変えた。
初夜はまともな口づけすらしなかったが、慣れない妻を調きょ……育てていくのも悪くない、と毎日少しずつ進んでいる。
初夜は頬に口づけを。
次の日は唇に。
その次の日は深い口づけを。
その翌日は……。
少しずつ、いとおしむように関係を進めたい。
とはいうものの、慣れない接吻に息をあげる妻を見ると、理性が弾けそうになる。
紅く染まった顔で涙目で、煽るように声をあげられて。
もういいじゃないか、とどこかでもう一人の自分が囁く。
ここまで優しくしてやったんだから、もう。
違う。
俺は口角をつり上げる。
優しくしたいのもそうだが、そんなことをしたらつまらないじゃないか。
いつか自ら欲しいと恥ずかしそうに乞うまで続けるつもりだ。
それまで、弄んでやろう。
黒い笑みを浮かべているだろうという自覚はある。
いつまで楽しめるだろうか。
と、屋敷の門をくぐると、待っているのはやはり従者である。
「……もう、お前いらん」
「酷いですよっ」
従者は手綱を奪い取って、口を尖らせる。
「それに今日は俺だけじゃありませんよ、よかったですね!!」
は?
家令でも迎えに来ているのだろうか、と首をかしげると向こうから何かが走ってきた。
「ま、間に……間に合った」
と、肩で息をつくのはいつもなら部屋にいるはずの妻だ。
「出迎えてくれたのか」
驚いて本音がこぼれる。
妻は膝に手を置きながら、明後日の方を見て言う。
「別に出迎えに来たわけではありませんっ。わざわざ、そんなことのために来たりはしませんし!!」
「そうか、じゃあ、俺は風呂に」
「あああぁぁっ。待って!! 待ってください!!」
慌てて俺を呼び止める。
「で、出迎えたわけではありません。絶対に違いますからね。私は別にそんなことしませんから」
「じゃあ、ふ……」
「刺繍を!!」
顔を背けたまま、彼女が叫ぶ。
「刺繍を、一緒に……どうかと思いまして」
女中から聞いたのです、と不貞腐れたような口調で続ける。
「旦那様は幼い頃に、お義姉様に刺繍を教え込まれてたので、得意でいらっしゃると。本当ですか?」
「ああ」
姉というものは皆お節介なものなのだが、俺の姉は際立っていた。
自分の習っていることを全て俺に教えてきたのだ。男が刺繍などいらないというのに。
ちなみに器用な俺はあっという間に姉よりも刺繍がうまくなり、姉は顔を歪めていた。
「まだ慣れていないので、あくまで慣れていないからですけど!! 怪我をしてしまったら、旦那様が心配なさるとおも……女中が言ったのです!! 旦那様を心配させるなと」
「……はあ」
「だから、私は別にいいんですけど、女中がそういうので、し、刺繍を」
そう言って、今度は背を向ける。
「刺繍を教えさせて差し上げてもいいですよ」
……つまり、俺に刺繍を教えてほしいということだろうか。
相変わらずの意地っ張りだ。正直に言えばいいものを。
「だ、黙ってないで何か仰ったらどうですか!?」
「そうだなぁ」
「私に教えたくないと仰るのなら、そうはっきりと申せばいいのです!!」
……尊敬語と謙譲語が混ざっている。
何をそんなに動揺しているのだろうか。
刺繍を教えてもらいたいだけなら、そんなに動揺することもないだろうに。
そんなに刺繍ができないことに危機感を抱いているのだろうか。
うちは父母も隠居して田舎にいるので、姑のいびりで追い詰められていると言うこともないはずだ。
何より、姉に教わっただけの俺より、専門の女中に教わった方が上達するだろう。
「黙らないでください!!」
「待て、今考えている」
「そ、そんなに悩むことではないでしょう……?」
妻の声が困ったように弱々しくなる。
もしかして、女中を口実に刺繍を教えてもらいたいのではなく、刺繍を口実に俺と話したいのだろうか。
はたとその可能性に気づく。
それならば、彼女の態度の説明もつく。
もしかしたら、あの強がる態度もプライドだけではないのかもしれない。
俺に嫌われたくないけれど、自分から好きなことを伝えて傷つきたくないので、あんな態度になってしまうのだろう。
ほう。
なかなか、可愛いじゃないか。
「嫌なら嫌と仰ってください!! 別に……別にそれなら女中に教わりますから!!」
しびれを切らした妻がこちらを向く。
「何を笑っているんです!! 私が困っているのが面白いんですか!?」
どうやら、妻が少しデレたことの嬉しさが顔に出ていたようだ。
「いや、そういうわけじゃない」
「だったら、何でっ……」
「俺のことが嫌いか?」
そう尋ねると、妻が硬直し、もごもごと言う。
「別に嫌いというわけではありませんけどっ……?」
「好きではないと?」
「そ、その通りですが何かっ!!」
と、言ってから、妻は手で顔を覆ってしまった。耳をすませば「今日こそちゃんと言おうと思ったのに……」と呟きが聞こえてくる。
「俺のことが好きじゃないなら、別に俺でなくてもいいだろう。刺繍の師を雇うか?」
「だ、駄目です!! 旦那様じゃなきゃ」
「どうしてだ?」
「それは……その、えっと……」
彼女がしどろもどろになる。
ここは助けて……などやらない。
もう少しいじめてやる。
「先程、俺が教えたくないのならいい、と言ったな」
「ええ、言いましたけど」
「断られる理由を仕事ではなく、俺の気持ちにしか言及しなかったのは何故だ?」
「……私なんかお嫌いでしょう、どうせ」
拗ねた子供の言い分にしか聞こえない。
「お前も俺なんて好きじゃないんだろう? なら、どうして気にするんだ?」
「べ、別に気にしてなどっ」
「じゃあ、どうせ嫌われてるなどと何故言った? 気にしてるじゃないか」
妻の目線は泳ぎ、顔は紅くなる。
「じゃあ、もう一つ。刺繍はどうして俺じゃなきゃ駄目なんだ? 上手くなりたいなら、いい教師を雇うといっているのに」
「それ、それは……えっと……私は人見知りなので、知らない人に教わるのは無理なんです!!」
「なら、女中でいいだろう?」
「旦那様じゃなきゃ嫌……じゃなくて、そう女中が言ったから!!」
いい加減、好きだと言ってくれてもいいのに。
俺は苦笑いを浮かべる。
妻に近づき、抱き締めようとすると、彼女は手を前に出して拒もうとした。
手首を取って、呆気なく腕の中に抱き込む。
「じゃあ、俺のことが好きだと言ってくれないか。そしたら、教えて差し上げるから、な?」
そう耳元で囁いた。
無理、と言われる前に俺は譲歩する。
「嘘でいいから」
眼を見て言って、と左手で顎を上げる。
ほら。
「す、す……すっ……すっ」
「どうして言えないんだ? ただの嘘だろ? ほら、言えよ」
「あっ……す……すぃ」
「嘘なのに言えないって、もしかして嘘じゃないのか?」
「ち、ちが……」
「じゃあ、ほら?」
「す……」
好き……です。
蚊の鳴くような声で微かに聞こえた。
それだけでかなり嬉しかったが、無論、ここでやめてやるつもりはない。
「聞こえない。もっと大きな声で」
「……す、好きで……す」
「もっと」
妻は上目遣いに俺を睨み付けてくる。
彼女はやけくそのように言った。
「好きですっ」
俺は笑って同じ言葉を返す。
「俺も好きだよ」
彼女は何を言ったのか分からなかったようで、ぽかんとした顔のまま固まる。
「い、今なんて……」
「ほら、嘘だと簡単に言えるだろ?」
「え? 嘘?」
遠回しに何を言われたのか分かったのか、妻は怒って俺の胸を叩き始めた。
「旦那様は意地悪です!!」
「なんだ、今さらか」
「旦那様の馬鹿!! 最低!!」
「そんなことないと思うがな」
「旦那様の嘘つき!!」
「そうだな、俺は嘘つきだから、今のも嘘なんだ」
え、っと言って、妻の乱打が止む。
「それはさっきのは嘘ということになるけれど、旦那様は嘘つきだから嘘じゃなくて、でも、そうするとその前のが嘘じゃなくって……」
「嘘つきのパラドックスってやつだな」
俺がにやにやしながら妻を見下ろしていると、袖を引っ張られた。
「ど、どっちなんですかっ!?」
「どっちがいい?」
「それは……」
「お前が好きな方でいいよ」
余計に分からなくなったようだ。
物理的に頭を抱え始めている。
「好きだよ、本当に」
適当に素直になればいいのに、相変わらずデレない新妻は叫んだ。
「今のはどっちなんですか!? もう!!」
しばらくはまだ妻で楽しめそうだ。
CV:S井さんで脳内再生しながら、書きました笑
分からない方はすいません汗