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礼儀知らずにもノックを忘れましたが、誰かがいるなんて思わなかったのですからしょうがありません。
ビノールはここが『黒の神殿』だなんて知らなかったのですから。
だからビノールは知らなかったのです。
ビノールが目覚め、そして寝入ったばかりの小さなドラゴンをとっくに起してしまっていただなんて。
小さなドラゴンは聞いたことのない『大きな音』で目を覚ましました。
それはビノールが地面を引っ掻く音でしたが、小さなドラゴンにとっては十二分に大きかったのです。
なにしろ彼は静寂しか今まで知らなかったのですから。
普通のドラゴンならば部外者や侵入者を嫌がり、それでも入って来たりさえしなければ放っておくか、それとも見せしめに殺して金品を奪うかのどちらかですが、この小さなドラゴンはそんじょそこらのドラゴンとは違います。
まだ本当に小さいので世間知らずですが、それでも無知ではないのです。
ドラゴンはただでさえ生まれながらに多くのことを経験せずとも知っているのです。
この小さなドラゴンもまたそうですし、その上、彼は闇の中で行われる総てに精通しているのです。
だからもちろんモグラ族が彼の敵になりえないことも知っていますし、ヴィガ達やその他の邪鬼・邪霊・精霊を恐れる必要もなく、無敵に近い自分を彼はよっく知っているのです。
でも、今は彼も経験が不足していますし、どうやって相手の敵意の有無を確認していいのかすら理解はしていません。
でも実はそんな危機より好奇心の方が彼の中では勝っているのです。
だから小さなドラゴンは自分が最初いた部屋へと移動しました。
近付いてくる足音。
それがドラゴンの鼓動を早めます。
ビノールが入った真っ暗な大きい部屋は4方向に扉があります。でも、ビノールにはそこまで分りません。
自分が入ってきた後ろの扉が閉まってしまわないかとおっかなびっくりへっぴり腰。
目が慣れてきてもこの部屋がとにかく、ただっ広いということしかビノールには分りません。
真っ黒い壁沿いにビノールはゆっくり進みます。
小さなドラゴンは大きな扉の前まで来て考えます。
(この部屋に居た方が良いのだろうか? それとも出迎えた方が良いのだろうか? どうやら怯えているようだし、帰ってしまわれるのはつまらないだろうなぁ)って。
実はこの小さなドラゴンは独りっきりでいることが不満だったのです。
それに自分でも気がついたのはもちろんビノールの発てる音を聞いたからです。でなければずっと気がつかないまま寂しい孤独に気付かないままそんなものだと納得して生きてゆけたでしょうから。
ドラゴンは歳をとるごとに頑固になって、性格を変えるなんて事は小さな時ぐらいしか出来ないのです。
小さなドラゴンは静かに目と耳を澄ましました。
ビノールのおっかなびっくりへっぴり腰の足音が聞えます。
硬い床にビノールのつやつやした足は痛そうですが、ビノールは気にしているように思えません。
そう、緊張感でいっぱいのビノールは自分が痛いということも忘れて足音を消すことに精一杯なのです。
ビノールはひとつの扉を見つけました。
黒い金属で出来た扉です。ビノールはこの金属のことを知っていました。
『闇の領域』でだけ見られる金属、『黒色銀』です。
『黒色銀』は『闇の領域』では聖なる金属のひとつでお守りにもなります。ビノールの家にも『黒色銀』の板っ切れが玄関に張り付けてあるのです。
だってビノールだって邪鬼に喰われてしまうのはまっぴらですから。
そしてビノールは気がついてしまったのです。
気がつかなかったら幸せだったんでしょうが、ビノールはいくら察しが悪いといってもそこまで勘が悪いわけではありません。そしてもちろん、お伽話も知らないほど無知でもありません。
勘が悪ければ変身の魔法は上手に使えないのです。
だって、変身した時、大きさや形があやふやな記憶の中でも、ある程度勘が助けてくれんです。
『黒の山』の『黒の神殿』入ったら二度と戻ることは叶わぬとされている場所です。
少なくともモグラ族の間ではそうまことしやかに噂されているんです。
だから、ビノールは恐怖に震え上がりました。
そしてガタガタと音がするほど震えてその場にへたり込んでしまいました。
小さなドラゴンはちょっぴりガッカリしました。
だっておっかなびっくりでもがんばって探検している様は勇敢に思えたのです。
そしてその勇敢さそのままに自分の前まで本当は来て欲しかったのです。
小さなドラゴンはまだそんな自分の気持ちもちゃんとは分っていませんでしたが、そうだったんです。
でもビノールは小さなドラゴンの期待を結局裏切りませんでした。
小さなドラゴンにとっては僅かな時間。ビノールにとってはとっても長い時間。
そうビノールはドラゴンが動く前に立ち上がったのです。
ちょっと言っておきますと『黒色銀』の扉には鍵は掛かっていません。
それ以前にどんな扉にも鍵は掛かっていなかったのですがビノールは何といっても知りませんから。しかたないのです。
それにビノールは勇敢なるモグラ族の魔法使いですが、他の種族に言わせれば臆病モグラに過ぎません。
ビノールは壁沿いにまた歩き始めました。モグラ族としてはあんまり良くない鼻と耳を一生懸命ぴくぴくさせながら。
次に見つけた扉も『黒色銀』で出来ていました。
この扉にはコウモリの翼が浮き上がって見えるように彫り描かれていましたが、ビノールは『空を飛ぶもの』の存在なんか全然知りませんでした。
だって魔法使いといってもビノールは地面の中で生涯を過ごす平凡なモグラ族ですし、太陽は苦手なのですから。
モグラ族の方向感覚(ビノールはあんまり信用はしてませんでしたが)はかなり正確です。
それにさほど正確でなかったとしてもこの大きな部屋が四角い形だろうというのは音の反響で予想できました。
確認のためにビノールは壁沿いにではなく斜めに歩き始めました。
かなり歩くとビノールの目が壁をとらえました。
壁にはやっぱり黒い扉がひとつ、ぽつんと張り付いています。
近付いてよく見るとやっぱり『黒色銀』でした。
この扉には何も描かれていません。
この間ビノールはなんとなく押し殺した理解できない気配をずっと感じていました。(ドラゴンの気配です)
怖くって脂汗がぼたぼたと背中を伝い降りていきます。
ビノールは覚悟を決めて最後の扉に触れました。
『黒色銀』の扉は音もなく静かに開きました。
ビノールには広く映る廊下が延々と続き、その先は闇の中に消えています。
「こ、ここは後回しにして、お、お弁当にしよう」
空腹を思い出したビノールは自分に言い聞かせるように呟きます。
荷物の小さなカバンをビノールは慌てて引っ掻き回しました。
出てきたものは鉛で作った水筒の中身はリンゴ酒。ホシミミズ。シード・ビスケット。ミミズの衣揚げにチーズ一塊。
ビノールはシード・ビスケット一枚とリンゴ酒、ミミズの衣揚げの大きいのひとつだけを残し、カバンにしまいなおした。
開きっぱなしの扉が恐くなったビノールはそっと扉を閉めました。
ちょっと違和感に気がついたビノールはリンゴ酒を見ました。
『闇の領域』の外、『灰色の荒野』の『安らぎ』の部族に嫁入りしたビーニャおばさんからの贈り物です。
周囲の暗さを反射してか、透き通った琥珀色の液体は透き通った黒に見えるのです。
そして実際に黒い色になっているのにビノールは気がついたのです。
だって、目にとまった環のルビィも黒くなっていたのです。
ビノールは『黒の神殿』の魔法に怯えました。
ミミズの衣揚げも目を凝らしてみればカビカビになったかのように真っ黒だし、美味しい匂いも消えています。
食欲の失せることこの上ありません。
それでもビノールはちゃんとお弁当を食べました。
これから何が起るかなんて分らないのですから。
まるで失敗したかのように真っ黒いシード・ビスケット(本当は暖かな茶色のはずなんです)、真っ黒のミミズの衣揚げ。真っ黒なリンゴ酒をお腹の中に詰め込みました。
その頃、小さなドラゴンはあくびを噛み殺しながら謎の来訪者を観察・分析していたのです。
その小ささからして闇の邪鬼ヴィガではありません。それにヴィガにはつんつんごわごわの髪の毛なんてはえてませんから。
小さな邪鬼ノーグルでもありません。ノーグルは牙だらけの口で動物の生き血しか飲まないはずですから。
悪戯好きの気紛れ精霊だとも思えません。もちろんミミズだとも。そしてモグラは『黒の山』に近付きません。
好きこのんで近付くのはよっぽど無謀か小さなドラゴンの同族くらいです。
小さなドラゴンは首を傾げました。
(モグラかしら?)とはちらりと思ったのです。だって地面から出てきましたし、ミミズを食べて、小さくて臆病です。(ドラゴンにとったらだいたいの種族が臆病に見えることでしょう)
でもなんだか違うような気がするのです。
ドワーフではないと思います。髭がないし角兜もかぶってないし、ブーツだって履いてません。
小さなドラゴンはやっぱりモグラかなと思います。
やっぱり人間ではないと思いますし、子供のハーピィにしては翼がないんですから。
何といってもドワーフにしても人間にしてもハーピィにしても小さすぎます。
小妖精ノルンかと思いますが、彼らは総じてふわふわの髪で身だしなみにはいつも気を使っていてモグラより臆病。そして土の中に潜ったりせず、木のウロに住んで土の上を素早く走るんです。
それにちょっとした魔法の力を感じます。
それは人間の持つ魔法の力でもなければ、ノルンのものでもハーピィのものでもありません。
ドワーフはこんな魔法の力は持ってませんし、ヴィガやノーグルはその存在をごまかす魔法の力は持ってません。
魔法モグラなら化けることだって有り得るでしょうから。
ビノールはこれっぽっちもそんな事は知りません。
お弁当を食べて落ち着いてしまうと足が痛いのがとっても気になってきて、それどころではなくなったのです。
モグラの足は踏み固めた土は平気です。
でもあまり長時間ずっと冷たく硬い石の上、しかも真っ直ぐな床を歩けるようには出来ていません。
ビノールが足の裏を見てみると恐ろしいことに足の裏を覆うごわごわの毛がかなり削れて赤い血が滲んでいるのです。
ビノールは痛みで泣き出したくなりました。
なにしろ真っ暗で独りぼっちで寂しいし、痛いし心細いし怖いので散々です。
救いはここが『黒の神殿』であるならばヴィガには襲われないということぐらいでしょうか?
幸いここにはヴィガの生臭い嫌な匂いはしません。
そのかわりもっと怖いモノが居るかも知れませんが、うまく立ち回れば生きて居心地の良い家に再び帰れるかも知れません。
だって今のところビノールは目に見える怖いものは見てないのですから、そう思ったとしても不思議ないんです。
だからビノールはちょっぴり勇気を取り戻しました。
足に傷薬をべっとりと塗り、引き裂いた布をぐるぐると巻き付けました。
布を引き裂く時、予想外に大きな音がしてビノールは慌てて周囲を見回し、変化がないことを確認し、ホッと溜息を洩らしました。
巻き付けた布はすぐにずれて不愉快です。
ビノールは真っ暗な道を思い出し、その扉は後回しにし、あやしげな浮き彫りのされた正面の扉へと痛む足を引きずりながら向います。
小さなドラゴンは嬉しさで踊りだしそうです。
だって、彼はなかなか来てはくれなくて、それがようやく近付いて来てくれそうなのですから。
小さなドラゴンはこれ以上ないというぐらいに息を詰め、気配を消してどきどきとモグラの訪れを待ちました。
ビノールもどきどきと息を詰め、扉を押しました。