2
小さなドラゴンの住む地域は外に住まう者達には『闇の領域』と呼ばれ、特にドラゴンの巨大な家である建物は『黒の山』の中腹にあり、『黒の神殿』と畏れられています。
全部が真っ暗な本当の闇に包まれた所に誰も近付きたいとは思いませんから、小さなドラゴンの住む『黒の神殿』の周りには他に生きたいきものは居ません。
『闇の領域』にはもちろん生き、住んでるもの達が居ます。僅かばかりの黒い木々。
黒い水の流れる河。地の底に居るモグラやミミズ。邪鬼や邪霊達。そして闇の妖精と精霊たち。
そんな彼らさえ『黒の神殿』のある『黒の山』には滅多なことでは近付こうとなんてしないのです。
恐ろしく強い存在が眠る場所なのですから。
それにそんなことすら知らないのです。
千年も前から『黒の山』には恐ろしいものが眠っているから起こしてはならないとだけ伝えられているのです。
その言い伝えをきちんと学んでいるモグラのビノールがそんなただただ恐ろしい『黒の山』に迷い込んだのはあんまりの若さゆえの過ちだったのです。
ビノールは『闇の領域』『夜の安息地』という部族の勇敢なモグラです。
地面の中にしつらえられた彼の家とその周辺はとっても居心地よくなってますし、何といってもビノールには魔法が使えたのです。
モグラ族は各部族に三百年に一匹魔法使いが生まれるのです。
ビノールに与えられた魔法の力は変身の術でした。
その日ビノールはヤカンにしゅんしゅんとお湯を沸かし、貰い物のナッツ・ケーキをお皿に移してお茶の準備をしている真っ最中でした。
『夜明け』の部族の魔法使い(ビノールより50才ほど年上です)がビノールを訪ねてきました。
彼は移動の術を使う魔法使いでビノールをはじめ他の魔法使いモグラ達からも尊敬を集めているのです。
だって、思った次の瞬間にはそこに移動できるのですから。(モグラにしては)方向音痴なビノールには羨ましい限りです。
それに彼は他の魔法使いモグラ達と同様に自分の失敗を決して語らないのですから。ペラペラ喋ってしまうのはまだ若い自分ぐらいだとビノールは思っています。そしてその通りなんです。
ビノールは喜んでナッツ・ケーキを切り、(大きい方をもちろん彼のお皿に用意しました)太っちょミミズの衣揚げをその横にちょんっとのせました。
ミミズの衣揚げはモグラ達の本当の御馳走で大好物です。からりと揚げて封じられた汁気を味わう。じゅわりと広がる旨みを思うだけで唾がわくのです。
「夜の安息地の魔法使い若きビノール君。急の訪問に驚いていることだろうが勘弁して欲しい」
「夜明けの偉大なる魔法使いルノーガン様のお越しに恐縮する限りでございまする」
しきたり通りの挨拶に先輩モグラのルノーガンは持ち上げられて機嫌を良くしています。
ルノーガンは褒められるのが大好きでバカにされるのが大っ嫌いなんです。
もちろんビノールもそうなんですけど、ルノーガンには関係ありません。自分の気分がよければ良いのです。
ルノーガンはこほんと一つ咳払いをし、ミミズの衣揚げを一本掴みます。
「さて、有難くいただこう。食べながら話させてもらうよ。話というのは他でもない君の試しについてだ。魔法使いと生まれたからには修業の旅に出なければならぬ。そう、居心地の良い我が家を出てだ」
ちょっぴりビノールは嫌な気分を持ちましたが必死に隠しました。
尊敬できうる年長者。ルノーガンに自分が抱いた恐怖心がばれたら恥ずかしいとビノールは思ったのです。
モグラとは地面の下で生きる小さくも勇敢なものなのですから。
ルノーガンはそう言い切ると、もぐもぐとビノールのとっておきの太っちょミミズの衣揚げを遠慮のかけらもなく食べて、絶妙に良い味わいを引き出せたナッツ・ケーキもぺろりんと食べ、「また、来る」と言いおくと姿を消してしまったのです。
「ありがとう」も「ご馳走さま」もなしにです。
ちょっぴり不愉快な気分になったビノールは慌てて不愉快さを振り払いました。
相手は自分よりも長生き魔法使いモグラ。次期『夜明け』の部族の族長とも噂されている偉大なモグラなのです。
それに不愉快な気分は不幸を運んでくるとモグラ達の間で言われています。
沈んでしまった気分を治そうと食べたナッツ・ケーキは綿の実のようで味気なく美味しくはありませんでした。美味しく作れたはずだったのにとビノールは空っぽになったお皿を見つめます。
「魔法使いになんか生まれるんじゃあなかったよ」
しかたないことを愚痴り、ビノールは小さい頃から友達のドワーフから贈られた『エール』をジョッキに一杯ほど空けました。
しかし、「また、来る」と言ったきり、ルノーガンは全然訪ねては来ません。
旅支度もしましたし、いろんな地図も買いました。弟に家の留守番も頼みました。
友達や親戚の多い彼が一声かければ、必要な総てがすぐに集まりました。
それなのにちっとも来ないのです。
【ルノーガン 行方不明】の知らせを聞いたのは全部の準備が出来た十日後の事でした。
ルノーガンの奥さんが心配そうにビノールの所にも訪ねてきました。
いなくなったのは「ビノールの家に行く」と言ってからだというのです。
ビノールはルノーガンの奥さんに正直に総て話しました。黙っていても疑われるだけですから。
次に訪ねてきたのは『夜の汀』の魔法使いモーガンでした。
モーガンはビノールより年上でルノーガンよりは年下で少しぴりぴりしたところのある魔法使いモグラです。
彼はせかすように言いました。
「修業の旅に出なさい。ルノーガンもそれを望んでいるだろう。短くとも一年は戻るべきではない。さあ行くのだ」と。
ビノールは道なき道を行かなければなりません。それがしきたりなのです。
ビノールは最初、『闇の領域』を出るつもりでした。
そのつもりで道を作りながら行っていたのです。
だから、自分の掘った道が邪鬼の住み処に紛れ込んだ時は混乱しました。だって丸っきりの逆方向なんですから。
それにこの辺りに住む邪鬼のきゃつらときたらモグラが好物なのです。
何匹の兄弟達が喰われたのかビノールは考えたくもありません。
どたどた音をたてながら歩き、汚らわしく突き出した鼻できゃつらはモグラの匂いを探し、大きな丈夫な手で土を掘りモグラを狩り出すのです。
恐くなったビノールは慌てて土の中に潜りめくらめっぽう進みました。
いくら勇敢なモグラ族の魔法使いでも食べられてしまうのは恐いのです。
ビノールが次に気がついたのは土が掘れなくなったことだったのです。
黒い石は爪が折れそうな程硬く、そして何処までも続いています。
後戻りを禁じられているビノールは絶望的な気持ちで地上に向っての道を掘りはじめました。上の方はまだ掘れそうな土なのだから行かなければなりません。
ビノールが地上に出て見たものは夜空の月や星でもなく、もちろん苦手な太陽でもありません。
暗い闇。
ただそれだけです。
そして暗闇に黒々とそびえる大きな壁。
ビノールが後々まで勇敢なモグラの魔法使いと尊敬を集めたのはここで壁の中に入る決意をした所為だったとも言えます。
地面から這い出したビノールは高々と続く壁を見上げ、荷物の中から赤いルビィのはめ込まれた環を取り出し、ぶつぶつと呪文を唱えました。
「えい!」
気合を入れ、環を握り締めます。
次の瞬間にはビノールはもうモグラの姿ではありませんでした。
元モグラのビノールの今の姿はどう見ても小人。小さき良き人の姿。ドワーフの半分程の背丈、ふっくらと丸い手足。五本づつある指は全部真っ黒くつやつやしています。
ビノールは黒い大きな扉を押しました。