追憶
真一は高井と別れてから、すぐに部屋には戻らなかった。
お父さんが見えた。
弥央の瞳の奥、脳裏に焼き付いているもの。つまり頭の大半を占めているもの。
「あの子、お父さんを嫌いなんだ」
真一は弥央が自分の育ての親を憎んでいると知った。
太陽の光とは別に、人や場所が眩しく感じる。
頭の中に直接入り込んでくるものがある。
十五年間のあの部屋での生活が想像力と感受性を育てたのか。
真一には不思議な感性が備わっていた。
しかし、今現在の現実的な状況は何一つわからない。
今自分がここにいるのは、お父さんが死んだから。だから外から知らない人がたくさんやってきた。
まだ十五歳の少年が状況を理解するには、あまりにも情報が少なかった。ましてや外に出たことのない時間。
何がどう間違っているのかなんて、初めから彼の中には無かった。
真一が廊下の曲がり角に近付くと、ちょうど向こうから話し声が聞こえてきた。
「山崎。ここに書いてあるもん資料室からとってきてくんねえか」
「わかりました、大谷さん」
山崎? 確かきっと、最初に出会った人だ。
声の聞こえた方を見る。
見覚えのある男が少し先の部屋へ入っていくところだった。
何か知ってるかもしれない。僕が見るお父さんの「赤」の意味。あの女の子との繋がり。
──知りたい。
真一はそっと山崎の後を追った。
向かった先は、少し埃臭い本棚やパソコンが並んでいる薄暗い部屋だった。
山崎が後ろ手で扉を閉めると、反動で僅かに隙間が出来た。真一はそこから覗き、出てくる様子を見計らっていた。
だが、一向に出てくる気配がない。耳を澄ますと声が聞こえてきた。
「よっぽど有名だったんだな……ていうか、原田さんの提出書類、警部補就任の直前まであるって本当だったんだ」
どうやら山崎の独り言らしい。真一はなかなか中身まで聞き取れない。
「生後間もない赤ん坊をどうやって誘拐なんて思いつくんだ。信じられないな」
誘拐? どういう意味だろう。
待ってられなくなった真一が、今まさに部屋に入っていこうとした その時。
「覗き見は趣味悪いぜ」
真一の背後に一人の刑事が立っていた。全く気配を感じる事が出来なかった。
背はあまり高くない。顔も幼い。──どちらも高井や山崎と比べてだが──。
真一に近付くその不適な笑みと眼差しは、他の二人にはないものだ。
真一はよっぽど驚いた様子で、つい声をあげてしまいそうになっていた。
「おーい山崎。遅いから来ちまった」
「あ、すいません大谷さん」
その男が山崎を呼ぶ。振り返った山崎は、すぐに真一に気付いた。
「あれ、真一くん」
まずい、怒られるかも──。
真一はすくみあがった。
「ああ、ついそこで会ったからなんとなく一緒に来た」
──え?
「そうなんですか。いつのまに知り合ったんです?」
「んなことより早く次の仕事よこしな。ほら、生身の仕事は預けるからよ」
そう言って大谷と呼ばれていた刑事は真一を乱暴に山崎に預けた。
「すいません」
「じゃあな。俺は先に戻るぜ」
大谷は山崎から数冊のファイルを受け取って行ってしまった。
真一はその刑事の背中から目が離せなかった。
「真一くん、ぼーっとしてどうしたの? そういえば病院から帰ってきたんだね」
山崎の声に はっと意識を取り戻す。そして振り向いて声をあげた。
「い、今の人なんてひと?」
「え……大谷さんだよ。名前知らなかった?」
「う、うん……」
真一はもう一度 大谷の去っていった後を見た。
何で勝手に覗いてたって言わなかったんだろう? それに……。
「あ、あの、僕、聞きたいことがあって……」
「今日はたくさん喋るね、真一くん」
「え……そう?」
山崎はくすくすと笑って真一を連れて歩き出した。
「喋り慣れてきたのかな。僕で良かったら何でも聞いて」
「うん」
しかし真一はすっかり混乱していた。さっき見た大谷の目が忘れられない。
何も、見えなかったのは……よくあることなのかな。
「あのね、僕のこと知ってる?」
「え?」
「言葉、変かな? 僕って、だれ? どうしてここに居るの?」
「真一くん……」
自分が誰で、何故ここに居るのか。
裏をかくような挑発するような質問が真一の口から出る。しかし、彼は文字通りの意味だけを求めていた。
「変なこと聞いた?」
「いいや。君はどう思ってるの?」
真一は切羽詰まったかのように、必死に言葉を探す。
「わからない。僕、気が付いたときからずっと、あの家に住んでた。本があって、少し読んだ。
そしたらお父さんが分かったから、えっと、お父さんの事お父さんかなと思ってた」
一瞬呆気にとられて戸惑う山崎。たどたどしい口調に、理解するまで時間がかかった。
「……ああ、つまり、一緒に暮らしてた男の人はお父さんで自分はこどもって事だね」
真一は大きく頷く。
「でもね、高井さんに、本当のお父さんとこどもじゃないって、別に居るって言われた」
「あ……うん。そうだよ」
そうだよな、知ってるよな。山崎は改めて少年の悲劇に胸を痛める。
真一は続けて純粋な質問を被せた。
「じゃあなんで僕の家に居なかったの?」
「それは」
心が痛む中、さっき見た資料を思い返した。
きっと真一の知りたいことはそういうことだろう。
自分が今どういう経緯で、ここに居るのか……。
「山崎さん、教えて!」
「う、うん……」
二人は少し離れた中庭へと向かった。
ひとまず辺りに人影は見当たらない。山崎はゆっくりと話し出した。
「いいかい、君はまず病院で生まれたんだよ」
頷く真一。続きを早く聞きたかったが、急かしはしなかった。
「お母さんももちろん一緒だ。君はまだ生まれたてだから覚えてないけど……」
「お父さんは?」
「その時は居なかった。君が居なくなってから病院へ来たんだ」
居なくなってから──?
山崎は真一の不思議そうな顔を見て胸が痛んだ。
「ええと……竹内容疑者がね。わかる? 君と一緒に暮らしてた……」
「うん。名前、一応知ってる」
「そっか……その、竹内さんがね」
口の渇きを感じる。この先のためにもこの子には真実が必要だ。
山崎は自分を勢い付け、静かに口を開いた。
「赤ん坊の君をさらったんだ」
お互いを見つめあう二人。
真一の表情に変化がないので、更に言葉を続けた。
「全く君の本当の親とは関係ない。君と君の親とを引き離したんだよ」
「なんで? 僕だけ?」
真一は見上げて疑問をぶつける。
しかし意味を理解できない。
「僕だけ、って どういう意味だい」
「他にも親と離れた子はいるの」
そういうことか──。
「いや……いないよ」
真一の表情がぴたりと止まる。だがすぐに口を開いた。
「どうして僕なの」
「……わからない。ごめんよ、君ばかり辛い目に」
真一は「ねえ」と山崎の謝罪の言葉をやめさせた。
「僕一言でも辛いなんて言った」
「えっ」
冷や汗が流れる。
どういうことだろうか。辛いなんて言ってない、と言いたいのか。まさか、それは──。
「僕は何にも辛くなかった。どうして僕が本当の親と離れて育ったのかは不思議だけど……嫌だと思ったことは一つもない」
嘘だ。それは歪んだ環境で携えられた、常識外の感情に決まってる。
できれば被害者には、加害者を憎んでいて欲しい。山崎は焦りを露わにした。
「真一くん、普通はお父さんやお母さんと離ればなれにはならないんだ」
「僕は普通じゃないの」
「そうじゃないよ」
今ここで救えるのは自分だけだ。そんな考えが山崎の脳裏に働きかけた。
「辛いなら辛いと言っていいんだ」
「僕の気持ちわかるの」
そう言い返されて、心が反応を押し止めた。
黙りこむ。真一の言っている事は、どうやら嘘ではないらしい。
尚更辛くなったのは山崎の方だ。
これはやはり同情か。いや、まだ幼い少年が、誘拐され、本当の親に育てられないなんて辛くない筈がない。
辛いと教えられなかった、その環境が間違っているのだ。
「何が聞きたかったのか忘れちゃった。部屋に戻るね」
引き留める言葉が浮かばなかった山崎は自分を恥じた。
一番眩しい位置にある太陽を見上げ、その場から動く事が出来なかった。