少年真一と弥央
一向が署に帰ってきたのは、暗くなってすぐの時間だった。
高井は晩飯を食べるのも忘れて資料室に飛び込む。十五年前の事件の資料を再調査する為だ。
「臨月の妊婦二人とその夫、子供を殺害か……むごかったな、あの事件」
「そのうえ人質に誘拐か」と、一人ごちる高井。
その事件は、原田警部補が関わってきた事件の中で唯一、犯人が捕まっていない事件だった。
高井は憧れの人の事件が解決したことに少しの満足感を抱いたが、やはり内心はすっきりしていない。
「これでまた原田さんが警視庁に戻る可能性もあるんだよな……まったく上は勝手な事ばかり言ってくれるぜ」
当時の事はよく覚えている。真一の母親が泣き崩れ、父親は「早く子供を連れ戻してくれ」と叫び興奮していた。
「こうなったのも警察が附甲斐ないからだ」とその父親に殴られ、高井は若さ故に殴り返してしまった。
結局その責任は原田がとる事になり、隣県の小さな署に飛ばされたのだ。
そして責任を感じていた高井を優しく諭してくれたのも、他でもない原田だった。
「あんたには感謝してもしきれないよ……原田さん」
事件のファイルをめくり続ける高井。
「伊藤隆吉、清子夫妻……住所変わってなけりゃいいがな」
高井は電話の受話器を耳に当ててダイヤルを押した。
「どうですか? 昨夜はよく眠れましたか?」
「はい……」
一晩明けて、少年真一は知能テストを受けさせられていた。
知能テストは簡単なもので、最低限のTPOに合わせた挨拶ができるか、質問に応じた受け答えができるか、字は書けるか、今の時間がわかるか……などの質問形式である。
終わった後、真一は疲労の為か与えられた部屋に戻ってベッドに倒れ込んだ。
数時間ほど経っただろうか。真一は部屋に気配を感じ、眠りから覚めた。
「ん……」
「やっとお目覚めか」
肩を跳ねさせ、声の方向に視線を向ける。声の主は 内心驚かせたかと動揺した。
「昨日は挨拶もしてやれなくて悪かったな。俺は高井だ」
高井は一晩中資料室に閉じ籠った後、真一の部屋に訪れた。疲れて眠っている彼をじっと待っていたようだ。
真一はゆっくりとベッドから起き上がった。
「その、なんだ。言ってる事解るか?」
「……はい」
「よかった。山崎の話だと随分無口だって聞いてたんだが……そうだよな、テスト受けられたんだもんな」
場の雰囲気に耐えられないのか少し口数が多くなる。自分らしさを取り戻す為に、窓を開け、外国産の煙草に火を点けた。
「……同じ匂い」
「ん?」
ぼそっと呟いた真一を振り返る。真一はさっきまでと違って高井に好奇心の目を覗かせていた。
「あの家と同じ匂い」
「……ああ、これな……」
竹内は喫煙家だった。だから煙草の匂いが同じだと言いたいのだろう。
「安心しな。ここはあの家とは違う」
真一は高井が煙草を口に運び、紫煙を吐くまでの一連の動きをずっと眺めていた。
「……ここ、に、居ると……目が痛い」
真一は静かに呟いた。「なんで」と返して口から白煙を吹き出す。
「初めて、外に、出た。たまに庭を見てた……だけどいつもまっ暗で……ここは……眩しい」
たどたどしくも一所懸命喋る真一。
高井は単純に光に慣れていないんだな、と思った。
しかし真一の言う眩しさや暗さの意味を、高井は後で知る事になる。
高井はほとんど賭けに出るつもりでこの部屋に来た。真一の能力──即ち事件解決に協力してくれる存在なのかを見極めるため、そして少しでもあの家のことを知るためだ。
床に座り、ベッドの上に腰かけている彼に目線を合わせる。
「真一……で、いいんだよな。あの家でずっと一人だったのか?」
真一は高井の質問に瞬きしてから、緩慢な動作で首を振った。
「大人の男と一緒だったよな」
「……はい」
「男が出て行ったのは?」
いつから、あの部屋で一人で泣いていたのか。
「……二十八時間前」
時間の感覚に驚愕する。
あんな家に閉じ込められては、時計を追うことも得意になるのだろうか?
昼の、二時……。警察が到着する一時間前だ。
「男の、名前は?」
真一の瞳に鈍い光が映り込む。高井はなぜだかその色に動揺した。
何かを信じきっているような、純粋な瞳。
「……た、けうち、さん」
やっぱりそうか。竹内はこの少年を育て続けていた。
しかし何故? あんな残忍な事件の犯人に、子どもを育てる情などあったのか。
真一は想像以上に話ができるようだ。高井は安堵の溜め息を吐いて、更に難解な壁を確認した。
「真一。さっきな、お前の両親に電話した。本当の親だよ、わかるか?」
真一は何も言わずに高井を見つめる。しかしその視線はすぐに逸らされた。
「わからないのか……」
「知ってるよ」
吸っていた煙草を携帯灰皿に押し込む。確かに、知っていると言った。
「一緒に暮らしてた人は 本当の親じゃない」
竹内が他人であることは理解していたのか。何か言われたりはしていただろうか?
「その男……竹内の事は嫌いだったか」
「そうじゃない」
「でも」と続ける真一。
「本当の親が好きなわけでもない」
高井は真一の言葉を反芻しながら、新しい煙草を取り出した。
なるほど それはそうだろう。軟禁状態でも見たところ暴力は受けていなかったようだし、真一は生まれてすぐに誘拐された。
本当の親を恋しがって泣く方がおかしい。
「……でもな。お前の両親にはまだ連絡がつかないんだ……」
昨日の夜、資料室で真一の親に連絡をとろうと試みた。
伊藤隆吉、清子夫妻。
だが二人は既に住所を変えたのだろうか。連絡がつくことはなかった。
「見つかるまではしばらくここに居てくれ。なるべく早く見つけるから。お前も本当の家族の下で暮らしたいだろうし……」
高井が早口で伝えると、真一は表情を変えずに口を開いた。
「別に」
「……別に、って」
「そんな実感のないもの、忘れやすいよ。僕も、そして親だって」
部屋に沈黙が広がった。
実感は確かにないだろうが、そんなものなのだろうか?
捨てられたと勘違いをしているのかもしれない……。
「……明日、病院で身体検査やるから起こしに来る。じゃあな」
とりあえず今日はここまでにしておこうと、高井は部屋を出ていった。
与えられた簡易ベッドにダイブする真一。側にある毛布を握り締め、一人ため息を吐いていた──。
鈍い朝の光が廊下に広がっている。
捜査一課の警部補佐である原田は、真一と同じく保護されている弥央の元へと向かっていた。
目の前で父親が殺され、その犯人の自殺というものを目の当たりにした弥央。
もはやショックで出なくなった声は事情聴取に呼ばれることはなかった。
「嬢ちゃん、朝飯だぞ」
部屋のドアをひじと足をうまく使って開ける原田。両手で朝食の乗った盆を持っていた。
既に起きていた──いや 眠れなかったのかもしれない──弥央は、それを手伝おうと慌てて駆け寄る。
だが盆に乗る食事のその匂いにむせ返った。
早々と机に置いて視界から消すようにベッドに寝転んだ。
「無理にでも食べないと痩せこけちまうよ。薬も飲めねえだろ?」
弥央は俯いたまま動かない。事件のショックから立ち直るべく、彼女は少しばかりの抗鬱剤と睡眠剤を与えられていた。
放っといたら父親の後を追って死んでしまうのではないかと思わせるほど、その表情は今も暗い。
「不味い飯だし、今は食欲も湧かねえかもしんねえが……父ちゃんの分まで腹いっぱい食わねえと。頭も働かねえし元気も出ねえよ」
原田が優しく諭すと、弥央はようやく向けていた背中を反転させた。
言い返せない。幸雄はこんな状態の弥央を望んではいないだろう。
彼女はゆっくりと起き上がった。貧血にならないように移動しながら、朝食の置いてある机に向かって座った。
白飯と味噌汁が湯気を立てている。震える手で箸を握り、味噌汁を口へ近付けた。
なかなか口に入っていかない。食べ物の匂いに どうしてもむせかえってしまう。
そんな様子を原田はじっと見守っていた。口も出さず、手も貸さずに。
ようやく弥央は味噌汁を喉に流し込んだ。
ほんの少しだったが、その味は鮮明に弥央が生きていることを表したのだ。
瞬きと一緒に勝手に流れ出る涙。
弥央の手の動きは止まることはなかった。
ぽろぽろと零れる米粒をすくいながら、弥央の塩辛い涙もぽろぽろぽろぽろと落ちていった──。
朝の廊下を、睡眠もろくにとっていない刑事達が歩く。
高井は前から歩いてくる山崎を呼び止めた。
「おはようございます、高井さん。伊藤隆吉さんは以前のアパートを出ているようです。いわゆる夜逃げですね」
「夜逃げ? 生活苦しいのか」
「さあ、そこまでは……でも出て行くのを数年前に見かけたって人が居ました」
真一の親が夜逃げ? 十年の間に何があったんだ。
「奥さんも一緒に?」
「いえ、御主人一人で。奥さんには一向に連絡が取れません。警視庁には電話入れました」
「そうか」
あれだけ怒り狂っていた夫婦が姿を消したとは思えない。何か理由があるのだろうか。
高井は嫌な予感に襲われていた。
「あの……」
「どうした」
「これだけ連絡がわからないとうちの面目丸潰れっつーか、いいんですかね?」
山崎が不安気な顔で聞いてきた。
不安なのは俺も同じだ。諭そうと口を開くと、後方から聞き慣れた声が耳に入ってきた。
「うちはうちだ。都会の奴らが騒動を起こす前に操ってやればいいんだよ」
「原田さん」
軽く手を上げる原田は、まっすぐ高井のもとへ歩み寄った。
「高井、話があるからちょっとこっち来れるか?」
「はい」
二人は突き当たりの廊下を曲がる。山崎からはもう見えないなと確信すると、高井は顔色を変えて原田に向き直った。
「原田さん、どうかしたんですか?」
「もう今夜は疲れただろう。今から寝てゆっくり休め」
「休めって?」
拍子抜けする高井。てっきり事件が展開したのかと思った。
「大丈夫ですよ。あと何時間かしたら真一を病院に連れていかなきゃならないし。原田さんこそ休まないと」
「修……」
突然の低い声に高井は身じろぐ。
下の名前で呼ばれるなんて、何年ぶりだろう。
「なあ修。お前は十分成長したし、強くなった。いつまでそうやって呼ぶつもりだ?」
高井は軽く微笑み、心配するなというように口を開いた。
「原田さんは全然わかっちゃいねえな。俺はアンタの前では一生頭の上がらない子どもだよ」
高井は踵を返し、自室へと戻っていった。
少し照れくさいが、心配させてしまったのだ。それだけ疲れて見えたんだろう。
高井はおとなしく言うことを聞いて、一時間程度の仮眠をとることに決めた。