太陽が見てる
「原田警部補、失礼します!」
若い刑事が大きな声と共に扉をノックした。
緊張しているのか、中の返事も待たずに扉を開ける。
「失礼し……げほっ」
部屋の中は一面真っ白で、全て煙草の煙だ。
尋常じゃない量のそれに、刑事は激しく咳きこまざるを得なかった。
「……てめえなあ、何度言ったらわかんだよ」
部屋の主が緩やかに低い声を絞り出す。彼が煙草の正体である。
「俺は高井だ! 高井と呼べって言ってんだろ!」
「ひい! すいません!」
鋭い眼光を浴びせられる若手刑事。手にしたファイルをばらばらと床に落としてしまった。
「調書はやり直し効かねえぞ! それでも良けりゃ早く置いてきやがれ!」
「ま、また来ますっ!」
高井の怒声にすっかり怯えた刑事は、慌てて部屋を出て行った。
きっと入るだけでも勇気がいっただろう。
「まったく、どいつもこいつもっ」
この所まともに眠れずにいた高井は、苛立ちがピークに達していた。
何でこんなに仕事の量が多いんだ。
「はーらださんっ」
胸ポケットから煙草を取り出すと、憎らしい からかい口調が部屋に響いた。
「よし、帰れ」
聞き慣れた声に返事をしつつ、一体どこから呼び掛けられたのか。
辺りを見渡すと、天井の板が一枚剥がされた。仰天する。
天井から出てきたのは やはり大谷だ。
「お前は忍者か! 俺は今最高に機嫌が悪いぞ」
「月のモンですか?」
「一発殴らせろ」
洒落にならない洒落を言う大谷。高井はとっくに彼にからかわれるのも慣れた。
「全く、俺はまた原田さんの名前を呼んでなきゃいけないとはね」
大谷はソファに座って机に足を投げ出した。
「行儀が悪い」と言ったところで、この知恵のついた子どもには効き目がないだろう。諦めにも似た紫煙を吐き出す。
高井は再び原田の姓に戻った。警察内部の中には驚いている者もいるようだが、そんな事は もう気にしなくなった。
「嫌なら高井でいいんだぞ」
「ま、俺が面倒みるって事に感謝してくださいよ」
どうやら先程から人の話を聞く気がないようだ。
面倒を見るとは、高井が警部補になった時の事。
一人で責任を抱える事もないと、原田自らが大谷を直属の部下に指定したのだった。
高井にはそれは、大谷の力を試しつつ 高く評価しているようにも思えた。
大谷はひらひらと舞うように、軽やかな足取りで高井の目の前までやってくる。
「原田さんは能力のありすぎる者は支配できる立場になれないって言ってましたからね、高井さんが適任なんだ」
「あははは」と意味不明な渇いた笑いを洩らす大谷。
ああ、腹立つ。高井は机上の大量に積まれた書類に視線を落とした。
まだこんなに読まなきゃいけないのか。
「大谷、書類整理を手伝ってくれ」
「あっちのスーパーで万引き事件だ!」
「そっちにスーパーはねえぞ!」
大谷は素早く部屋から去っていった。
汚い奴め。高井が怨念の籠った溜め息を吐くと、すぐ側にある電話の電子音が高く鳴り響いた。
高井は怒声の勢いを残しながら受話器を取る。
「はいもしもし!」
「大分ご機嫌斜めだなあ、修」
電話の相手は原田だ。警視庁に戻って忙しいはずだが、本日は休みを取っているようだ。
「親父! てめえ影武者用意してただろっ。仕事が溜り過ぎなんだよ」
「違う違う、面倒な仕事は後任に任せようと思って」
「質が悪い!」
「まあまあ、それより母さんの墓の場所が良くわかんないんだよ」
「え? 地図に書いただろうよ……」
高井の眉間の皺が幾分緩まる。
今日は母親の命日なのだ。
「俺も仕事が終わったら向かうから」
またも部屋の扉にノックが響いた。高井は視線だけ そちらにやって「入れ」と声を出した。
「悪い親父、今忙しいから後でな」
高井が受話器を下ろすと同時に、部屋の扉が開かれた。
「あ、大丈夫だった?」
「なんだ山崎か。いや……ちょっと休憩する」
そう言って椅子から立ち上がり背伸びをする高井。
酷使し通しの目を軽くこする。
「修に手紙だよ」
「手紙? お前からじゃねえか」
小花を散らしたクリーム色の封筒。
何やらきらびやかな装飾に、裏面には山崎の名前と、よく知った名前が並んでいた。
どっかで見たことある類の封書だな。
「後輩から先輩へ、結婚式のお誘いです」
「……はっ?」
「待ってるよ」
微かに口角を上へ向けると、山崎は足早に部屋を出て行った。
「……幸せになれよ」
高井がどちらに向かってそう呟いたのかは、定かではない。
太陽が眩しい夏の空。
差し込む光を横切るように、優しい黄色のブーケが舞った。
大谷は思わずそれを受け止めた。腕の中には色鮮やかな花たちがすっぽりと収まっている。
「あらら。とっちまった」
「良かったな大谷、寿退職も近いぞ」
高井が隣で軽口を叩く。大谷は相変わらずの無表情で言葉を返した。
「残念ですがあんたみたいな人が上司だと忙しくて嫁に行けないんで。おーい弥央、俺に投げてどうすんだい」
「ごめんなさい! ……ていうか女の人ここに居ないじゃん!」
明るく笑う花嫁は、既に新しい命を授かっていた。
純白で身を包んだ弥央。華やかさの中に清純さがあり、とても綺麗だ。
「弥央、結婚おめでとう」
「原田さん、お父さん役ありがとう!」
神前まで歩むとき、弥央は原田の腕を借りたのだった。
原田も娘が旅立つ事のように感じ、淋しさと それを上回る喜びを抱いていた。
「もう性別は聞いたんだって?」
「うん。早く知りたくて」
「で、そのめでたい父親はどこにいってんだ?」
「あ、ここです……今日はお越しいただきありがとうございます」
弥央の頭に軽く掌が霞め、タキシード姿の山崎が現れた。
「色男の参上だぜ」
大谷が機嫌良さげにからかった。高井は側で「良かったな」と微笑む。
「僕は産まれた時に判る方がいいって言ったんですけどね……」
「いいじゃん、男の子だよ」
「えっ! 今日聞いたの? 本当にっ?」
周囲の参列者達が一斉に歓喜の声を上げた。
原田は「懐かしいな」と感慨に耽り、大谷は「羨ましい」と何故か自分の腹を擦った。
「これで名前は真一に決定ね」
「そうかあ、男の子か……もし女の子だったらマコっていうのも良かったな」
細い声を出す山崎だが、男の子でも女の子でも嬉しい事に代わりはないだろう。溢れる喜びを隠し切れていない。
同僚に呼ばれてその場を離れる山崎。
弥央が高井の目線に気付き、声を掛ける。
「あいつの名前にするんだな」
「うん」
弥央は愛しい人を眺めて、瞳を細くした。
「進さんは全部承知の上で あたしを選んでくれたから、大丈夫」
「そうか」
およそ一年前に、真一は還らぬ人となった。
真一と弥央がプラトニックな生活を半年程続けた後、麻薬注射から感染していたHIVで真一は抵抗力が弱まり、その冬のインフルエンザに負けてしまった。
一人になった部屋で沈んでいく弥央。
そんな彼女の元を毎日訪れていたのが、山崎であった。
弥央は庭先の小さな門に手をかけ、空を見上げる。
可愛らしい声が下方から聞こえてきた。
「え?」
「およめさん、綺麗だからあげる!」
五、六才の男の子の手には綺麗なたんぽぽが咲いていた。
「うわぁ! ありがとう!」
この近所に住んでいる子だろうか。男の子は はにかんで走り去っていった。
弥央は再び視線を上に向ける。
「真一、見てる……? あたし綺麗かな?」
今でも、空を見上げれば 彼が居る気がして。
太陽の様に見守ってくれているんじゃないか──。
「綺麗ですよ」
空から視線を下げると、高校生ぐらいの少年が制服姿でこちらを見ていた。
薄茶色に透けた髪の毛が、夏の風に揺れる。
「ありがとう……」
「幸せになって……弥央。ひとりじゃないよ」
「えっ……」
小さな声を洩らして、門の外へ追い掛ける弥央。
一度たりとも忘れたことのない あの声が聞こえた気がした。
「真一!」
だが、そこにはもう誰も居なかった。
「真一も、ひとりじゃないよ……」
明るく彼らを照らす太陽。
見上げた空に、雲はどこにも見当たらなかった。