逃げない
──辛いなら辛いと言っていいんだ。
──大丈夫じゃないよ。今先生呼んでくるから!
山崎の声がした。脳裏に心配そうな顔が浮かぶ。
最初に会った時から、優しい雰囲気だったな……。
──俺が家族になれるよう多少の努力はしてみましょうかね。
──あんたは昔の俺と同じ眼をしてる。
大谷の不敵な笑顔が浮かぶ。
僕を認めてくれるような言葉が、凄く嬉しかったんだ。
──お前の本当の親は、別に居るんだぞ。
──ただお前の気持ちが知りたかったんだ。信じて待っててくれ。
厳しくも真実を教えてくれた人。
高井さんの奥に潜んだ優しさが、確かに伝わってきた。
──お前さん、どこか変わったんじゃねえか。
──物事を知る事にとても真直ぐだった。
高井とよく似た、原田の声。
弥央をずっと見守ってくれて、僕を探してくれたんだ。
なのに僕は、何ができた?
何を返す事ができた?
体が段々と重く、熱を孕んでくる。
額から汗が滴り落ちるのがわかった。水滴は足元へ吸い込まれていく。
──まるで底のない沼みたい。
皆の声が遠ざかって、聞こえなくなっていく。
無音の世界で真一は、もう皆に合わす顔がないと思った。
瞳を閉じてしまおうか……。
「真一!」
突然、脳に語りかける声が響いた。
一番会いたくてたまらなかった人。
弥央の姿が目の前に存在した。
「真一が居なくなったら、あたし絶対に許さない。一人にしないで」
また泣いてるんだね、弥央。
手を伸ばせば届く弥央の顔。その涙はとても熱く、沼の吸収に負ける事はなかった。
「真一が居るから、生き抜く強さを手に入れたの」
いつの間にか弥央の手に引き上げられた真一は、弥央に抱き締められたまま茫然としていた。
弥央の首元は、何だか暖かい匂いがした。
「お願い……お願い。見えないの? あなたの運命は……」
「運命……?」
今まで真一が目にしてきたのは、過去の夢だ。
未来は? この先何が待受けているのか。
「そんなの僕には見えないよ」
「それでいいの」
弥央の瞳はすぐ側で真一を捉えた。涙が溢れては、また一筋の痕を作った。
「未来はいくらでも変えられるんだよ」
だから、諦めないで。一緒に生きて──。
力強い声に心臓を掴まれた。
出会った頃は彼女からこんな声が出るなんて思いもしなかったのに……。
「僕は勇気付けられてばかり」
俯いたまま、さっき覚えた不安を口に出した。
自分は彼らに何ができたのだろう。
「何も見えてなかったのかもしれない……」
「本当に、そう思う? 真一がしんどい時に皆が動いたのはなんで?」
顔を上げると、消えた筈の四人の顔がそこにあった。
──どうして……。
「真一には安心して暮らして欲しい」
「大丈夫だ、真一。警察は危険な目に遭わせない」
「真一くん、もう大丈夫だからね!」
「俺達が真一を守ってやりますよ」
原田、高井、山崎、そして大谷。
彼ら皆 微笑んで真一を見守っていた。
「真一」と呼ぶ声。後ろを振り返ると、すっかり泣きやんだ弥央が笑っていた。
「大丈夫……もう怖くないよ」
ごう、と風が唸った。
「真一、逃げないで」