伊藤隆吉の過去
初めて見る街の風景。真一は緊張を携えながら、やや緩慢な動作で辺りを見回した。
ふと捉えた視線の先で、上品なブレザーの制服を着た学生が見えた。
学生は参考書を読みながらこちらに向かって歩いてくる。
突然、携帯電話の呼び出し音が鳴った。
面倒臭そうにポケットに手を突っ込む様子を、真一は懸命に目で追いかける。
携帯を取り出すとき、後ろから「伊藤」と呼ぶ声が響いた。
──その名前はもしや。
彼に纏う雰囲気は ある人物を思い出させた。
真一は 彼こそがそうだ という認識を手に入れる。
ここは、父親である伊藤隆吉の若き日の光景……。
「誰」
隆吉は自分を呼んだ相手を一瞥した。向こうも制服を着ているから、学生なのだろう。
「頭良い奴は黙らせてやる主義なんだ」
「光栄だな」
路地裏に入る二人。真一は後を追ったが、次に二人を視界に入れた時 立っていたのは隆吉だけだった。
喧嘩が強かったという事が一瞬で理解できた。
「まったく、折角 清子からの電話だったのに」
そう呟いて、隆吉は再び携帯電話を開く。どこかにかけ直しているようだ。
「……もしもし 清子? 電話出られなくてごめん」
幸せそうに話している。
ごく普通の高校生だ。多少暴力的なところは見えたが、他に怪しいところはなく、覚せい剤の影も見当たらない。
「今日まだバイト? 遅くまで頑張ってるな」
清子 と呼んだのは、やはり結婚した真一の母親だろうか。
隆吉は軽快に歩き出した。鼻歌も交えて、かなり機嫌が良さそうだ。
向かった先は近くの大手スーパーだ。
外からレジを打つ女性を見つめて、その次に携帯電話で時間を見て、裏口で座り込んだ。
煙草を吸って、携帯電話でゲームをしている。
──あの人がお母さんで、もしかして……待ってる?
時刻は夜の十時を回っていた。
隆吉の様子が明らかに変わった。従業員出入り口を見てソワソワしている。
「お疲れ様でした」
「あ、清……」
従業員出入り口からは、二人の男女が揃って出てきた。彼らは声を上げて笑っていた。
「清子」
隆吉の瞳に嫉妬の炎が燃え上がる。それは強い独占欲を映し出していた。
「隆吉? もしかして迎えに来てくれたのっ」
清子と呼ばれた女性は隆吉の方へ駆け寄った。隆吉はちらりと彼女を見た後、一緒に出てきた男に視線をやった。
「帰るぞ」
無理矢理 手を引っ張って、強引に歩き出した。清子はよろめきつつ後ろをついていく。
「ちょっと、先輩に挨拶もしないで、感じ悪い……」
「誰だよ! ずっと俺を騙してたのかよっ」
急に怒鳴られ、清子は驚いて体をびくつかせた。
「なんでそうなるわけ?」
「俺が迎えに来る。もう他の男とは話すな」
「そんなの無理……」
抗議しかけた声を、平手打ちで黙らせた。
隆吉は頭を抱えて低い唸り声を響かせる。
「どうして……皆 俺を必要としてくれないんだ……」
真一は二人の立ち尽くす姿を呆然と眺めていた。
傍観者である事に深い憤りを感じた。
──こんなのって、おかしいよ。
──好き同士で こんなの……。
隆吉が再び歩き出した時、真一と肩が触れ合いそうになった。
──えっ?
瞬間 別の映像が真一の脳に直接流れ込んできた。
気付けば、辺りは再び違う光景へと変化している。
「お母さん……」
「良い子にしてるんだよ」
白いワンピースに赤いショールを羽織った女性が、玄関先で小さい男の子の頭を撫でていた。
「一緒に寝てくれるって言ったのに……」
「もう、無理よ。先に寝てなさいね、わかった?」
女性は男の子の呼び止める声を無視して家を出て行った。
「お母さん……」
真一は直感で その男の子が隆吉であるとわかった。
──必要としてくれないって、お母さんの事……。
思わず涙が零れてきた。彼は母親に置いて行かれて、愛に飢えていたのか。
だから誰かに必要とされたくて。
誰かが欲しくて欲しくて たまらなくて。
強い 庇護欲と受容体勢?
最早 歪んだ愛?
「俺は、俺だけの存在が欲しい……」
隆吉の願いが聞こえた。
部屋を見渡すと、既に先程の部屋は形を変えていた。
新しい住まい。小綺麗な賃貸マンションのようだ。
玄関の扉が開かれた。現われたのは、お腹の大きな女性だった。
「ただいま……」
後ろに体重をかけて、買い物袋をテーブルに置いた。がさがさと音をたてて中身を出している。
「清子、ただいま!」
「おかえりなさい 隆吉」
再度 開かれた玄関。彼もまた大きな買い物袋を両手に提げていた。
「お腹の子にもただいま。買い物なら言ってくれたら良かったのに」
「病院のついでだから」
隆吉は清子を後ろから そっと包んだ。彼女の大きなお腹を擦って、優しく微笑んでいる。
「俺と清子の……俺だけの子ども」
何度も何度も「俺だけの」と呟いていた。
「早く出ておいで」
──嘘だ。
──これが あの 怖かったお父さん……?
目の前の男は、まるで牧師か何かのように優しく笑っている。
この彼が本当なのか、今そうしているだけなのか……。
「愛してるよ」
胸の痛みが強く、鼓動は激しく高鳴った。
──僕に、言った?
放心状態でいると、突然 何者かに首を抑えられた。
眼前に迫る鋭いナイフ。
「近寄るんじゃねえ、この赤ん坊がどうなってもいいのかっ」
聞き覚えのある、低い声……。
──竹内。
間違いない。それは竹内が真一を人質にとった瞬間だった。
「おい、嘘だろ」
腰が抜けて倒れ込んでいる看護士。隆吉は彼女を捕まえて震える声で問いただした。
「うちの子ども。明日連れて帰るんだよ」
限界まで開かれた瞳は段々と血走ってきている。
「なあ、あんたに預けただろ。俺の子。さっきの男は誰の子抱いてたのかな」
看護士は震えながら小さな声を出した。
「ごめんなさい……」
隆吉の意識は、坂道を転がるように転落していった。
「……なんで。なんでなんだよっ!」
暗闇が広がる。またも隆吉は自分を支える存在を失ってしまったのだ。
「生きてるはずだ……生きて……」
頼りにならない警察を無視して あちこちを探しまわった。
目撃情報を手に入れた事もあった。自分の足で探した時期もあった。
いつしか その足は竹内の家へ辿り着く。
「居た……居た」
庭に面した部屋の障子。開かれた隙間から小さな少年を見つけた。
あいつだ。俺の子だ。
警察は頼りにならない。自分で行くしかない。
隆吉はしばらく竹内を遠目から睨み付け、勢い良く立ち上がった。
今日の所は家に帰って、清子に報告しよう。
「清子!」
歓喜の声を上げて家に入る。清子は大きく体を震わせた。
顔や袖から覗く腕は、青黒く変化している。
「俺達の子ども、見つけたぞ」
「えっ……」
「明日連れて帰ってくる。喜べ!」
清子の顔は顔面蒼白だ。信じたくないとでもいうように首を横に振っている。
「何だ」
「いや……」
「あなたとの子どもなんて、育てられない」
隆吉は崩れ落ちた。徹底的な言葉を聞いた気がする。
愛されていない事はわかっていた。
だが、子どもまで 認めないというのか。
──お父さん……。
真一は二人をずっと見守っていた。目を逸す事が出来なかった。
夢でしかないと言いたかったが、胸の痛みがそれを許さない。
──僕は結局 望まれてはいなかったの?
床が抜けて、深い谷底に墜ちていく。
誰にも 手が届かない。
「僕は……」