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〜シックス〜  作者: 悠栖
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母親との対面

 真一は大谷に連れられて原田の部屋へとたどり着いた。

 一晩しか経っていないのに、原田は何故か懐かしく感じた。心の距離が縮んだのだろう。


「僕ね……もう逃げたくない」


 その声は何より強く心に染み渡った。


 ソファに座って三人で話をする。大谷は真一を見つめて「知ってるか」と聞いた。


「何を?」

「お前の親父さん、ここに居るんだよ」


 顔の筋肉が硬直した。いや、今日はその話をしに来たのだ。昨夜の夢を昇華させる為に。


「悪い事をしたから罪を裁かれる。もうすぐ会えなくなるだろう」


 病院の夜を思い出した。少しの恐怖と、何故子どもである自分を、という疑問が沸く。

 だがそれも夢の中の彼の台詞で、解ったようなものだ。


 ──僕はよく 悪い人の子どもになる……。


 気分は急降下した。自分はどうする事もできないのだ、言い訳ではなくとも。


「真一、ここに居る時にお前の部屋に来た女性は、お前と母親が同じなんだよ」

 原田は斉藤香織の説明をした。


「母親が、同じ?」

「姉弟なんだ。父親は違うんだが……わからないだろうな」

「ううん、もういいよ。両親がわかるだけでいい……」


「そうもいかないんだ」と原田は付け足した。大谷が後を引き継いで続きを話し出す。


「お前の母親は違う男と結婚してるんだぜ。女はその二人の間の子どもだ。母親の協力が無いと真一の身元もハッキリしねえよ」

「……もう、父親とは会えなくなるから?」

「そういうことだねえ」


 つまり、母親と親子関係を築き直すということは斉藤家に入るという事だ。


「うん……そうだね」

「会ってみるか?」

「えっ」


 会うって、お母さんと?

 心臓の鼓動を強く感じた。早鐘の様に鳴り響く音は、他の二人にも聞こえていそうだ。


「一度 会わなきゃいけねえよ」


 原田が大谷の後に続いて、「今こちらに来ているんだ」と言った。真一は驚いて返事が出来ない。

 そう簡単に心の準備が出来るものではないのだから。


 狼狽える真一を見て、大谷は「やはり」と心の中で零した。

 鋭い感覚が鈍ってしまったのだな、と。


「出直してもらうか?」

「……いや……」


 瞳と瞳が合った。縋る様な、でも自分の足で立ちたがっているような……強い光を携えた瞳。


「会うよ。会って、話す」


 何を話せばいいのかわからないけど、と言って、眉尻を下げて笑った。



 このドアの向こうに、母親である伊藤清子とその夫が待っている。

 意識して、胃から緊張がせり上がってくるのがわかった。今にも倒れそうだ。


「真一、大丈夫だ」


 大谷は青白い顔をして見上げてくる彼を力付けた。


「他人より遠い家族かもしれねえ。けど何も傷付けあうわけじゃねえよ。安心して、自分を出してくれ」


 自分を出す、なんてやり方はわからないけれど……安心した。


 真一がドアを睨んで頷くと、大谷はその一歩を踏み出した。



「失礼します。御待たせしてすいませんでした」


 一礼して真一を部屋に入れる。

 机の向こう側の二人が立ち上がって挨拶するのがわかった。


 真一もお辞儀をして、顔を上げてから盗むように二人を見た。



 ……この人が、僕のお母さん──。



 その女性は、薄く色付いたサングラスをかけていたので、表情があまり伺えなかった。

 ただ、髪型や服装、雰囲気などで大体の年齢はわかった。恐らく五十手前だ。


 隣の男性も同じ位の年齢だろう。背広を来て、眉間に皺を寄せてこちらを見返してきた。


「真一。斉藤篤さんと清子さんだ」


 真一が誘導されて向かいの椅子に座った。

 余りのぎこちなさと緊迫感にひっくり反りそうだ。どこを見ていいのかわからない。


 しばしの沈黙。やがて口を開いたのは、現夫である斉藤篤だった。


「真一くん……力になれなくて済まなかった」


 やや細い声だ。しかし心優しい温もりを感じた。

 この優しい声を今の夫に選んだのだろう。そんな客観的な考えで真一は篤を見た。


「僕は今君のお母さんと結婚したから……君の義理の父親かな」

「……初めまして」


 やっとの事で声が出た。少し掠れたし、まだ目を見る事ができない。

 きっと、不安を読み取られているだろう。


 だが篤は真一を緊張させまいと歩み寄る努力をしていた。畳み掛けずに、縮こまらずに。

 正直相手がまともに話せる事にすら驚いていた。教養があったのだな、と。


「……本当に生きていて良かった。お母さんと話すかい」


 胸に何かが引っ掛かった様に、言葉が出てこなくなった。

 清子をちらりと見る真一。


 篤は清子の肩に触れた。

 ゆっくりと、彼女は自分のサングラスを外す。


 大谷は壁にもたれて三人の様子を見守っていた。


 開口一番に、清子は呟く。


「……ごめんなさいね……」


 清子のサングラスの下には、少し腫れた瞼と赤い瞳が隠れていた。

 それと同時に傷も見えた。消えなくなった暴力の跡だろうか。


 真一は呆然と見つめるしかなかった。清子は涙を流しながら真一を捕らえた。


「私はあなたを育てる覚悟がなかった……」


 そのまま泣き崩れるように机に伏せた。「これは罰だ」と声をあげていた。


 何故だろう、何故かその時とても暖かい気持ちになった。


 全身がすべすべと濡れた感触に包まれる。

 目を閉じると優しい声が聞こえた気がした。


 ──そうか……。そうなんだ。


 お腹の子どもに罪は無い。彼女は愛情をもって真一を産んだ。その体に宿る何もわからない天使を、お腹から手の温もりであやし続けた。


 その天使が無事に生まれて初めて、これからの生活に恐怖を感じた。隆吉に育てられて、幸せにはなれないと思ったのだ。


 事件に巻き込まれた事を、不謹慎にも神の采配だと思った。


 拭いきれない罪悪感に嗚咽を止ませない清子。真一は自然に言葉が滑り落ちた。


「……辛いなんて、思わなかった……」


 ほんの少しだけ、清子の呼吸が整い始めた。篤が驚いて真一を見る。


「……産んでくれて、ありがとう」


 真一は泣いていた。溢れる涙を堪えきれなかった。


 今自分がここに居るのは、お母さんが諦めずに産んでくれたおかげ──。


 じゃなければ、竹内にも誘拐されなかったかもしれないが、高井や山崎、大谷や原田……そして弥央にも会えなかったのだ。


 真一は生きててよかったと、心の底から感謝した。


「真一くん……君さえよければなんだが」


 篤が清子の肩を抱きながら、意を決したように話し始めた。


「一緒に暮らさないか」


 部屋の空気に焦躁が伝わる。大谷も流石に驚いて、事の成り行きを耳元で追いかけた。


「もちろん娘は君に悪い事をした。だが、きっと反省しているはずだ。私達も君と正面から向き合いたいんだ」


 大谷は昔を思い出した。孤児院から兄弟を連れていった、後から気まぐれのようにやってきた親達の事を。

 大人はいつだって身勝手だ。自分の満足の為に偽善を口にする。


 ──結局のところ、放っておく事に良心が痛むだけなんじゃないかい。


 静寂が四人を包む。


「……それはできません。ごめんなさい」


 真一は二人に頭を下げた。


 一緒に暮らすとなると、頭に浮かぶのはやはり弥央の事だった。


「ありがとう。本当の事が聞けて良かった」


 清子は静かに頷いていた。その隣で篤はフォローを続けた。


「話ができて、嬉しかったよ」と。


 二人は大谷に見送られて部屋を出た。真一は机に残って考え事を続けた。

 連絡先と小切手を渡されたのだ。


「真一、お疲れ」


 いつの間にか大谷が部屋に戻ってきていた。


「僕……これで良かったのかな」


 不安気な真一に笑顔で返事をした。


「自分の決断を信じるんだ。また今度、笑って話しに行けばいい」


 何だか少し、救われた。

 人の縁は一緒に居る時間ではないのだと思う事ができた。


 部屋を出て歩き出す。前方から高井がやってきた。


「ああ、真一。大丈夫だったのか」


 よっぽど心配だったのだろう、息が切れるほど走っていたようだ。


「ありがとう、高井さん。平気だよ」

「そうか……そうか」


 大谷が高井に近寄って小声で囁く。


「どうせあの夫婦に手回ししてたんでしょう。傷付けないでやってくれとか」


「なんの事だか」とそっぽを向いた彼の目は明らかに泳いでいた。赤くなった耳も、本当に走ったせいなのか謎だ。


 真一は先程の空気を噛み締めていた。


 あれが、立ち向かって乗り越えた時の色か──。


 眩しい太陽のような光景をキャッチしていた。

 純粋な感覚を少しずつ取り戻した。彼の笑顔が、また自然体になってきていた。


 その時、空中を振動させる機械音が廊下に響いた。高井の携帯だ。


「はい。原田さん? ……本当か」


 了承と同時に電話を切った。顔を見て大谷もただならぬ気配を感じる。


「……暴れてるそうだ。行ってくる」

「わかりました」


 高井はぎらついた目で来た道を引き返した。

 行き先は大谷にはわかっている。留置場だ。


「どうしたの?」

「気になるかい」


 尋ねる真一に、大谷は悲しく笑った。この子に嘘はつきたくないのだが、傷付けたくもないのだ。

 大谷は高井の行先を正直に告げた。


「真一の親父さんの所へ行ったんだよ」


 息を呑んだ。そうだ、ここに居るとさっき聞いた。あの黒い影を思い出す。


 お腹が痛くなった。また血を吐きそうな気がした。


「……済まない、忘れてくれ」


 忘れる? 今日は何の為に来たのか。


 逃げるのをやめる為に来たのだ。


「顔……」

「ん?」

「顔、見てみようかな……」


 心底驚いた。声を出しそうになった。

 あんなに拒否して、忘れていた父親を?


「無理するもんじゃねえ。壊れちまう」

「逃げたくないんだよ。弥央に心配かけたくないんだ」


 真一の瞳は本気だ。本気で父親に会うつもりなのだ。


「口を利くのか」

「……わからないけど」


 大谷はまた伊藤隆吉が真一を傷付ける事を恐れていた。

 あの調子で何かとんでもない事を口走ったり、怒鳴ったりするのではないか──。


 一度想像すると止まらない。伊藤隆吉に真一の姿を見せるのは明らかに危険だった。


 大谷はしばし思案した後、ある提案で手を打った。


「相手に気付かれないように見るならどうだい。言いたい事があれば言ってやる」


 それでも限界はあるだろうが、何とか守りたい。


 真一は大谷の思いやりに感謝し、「ありがとう」と呟いた。


 静かに、静かに……二人は留置場への道を歩き出した。



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