伊藤隆吉の聴取
罪を犯した者は留置所に入れられ、刑事の呼び出しに応じ延々と苦しい取り調べを受ける。
眠る間もなく呼びつけられ、寝れば蹴り落とされ、解放は刑事の気分次第。そうして拘置所もしくは刑務所にて懲役をくらうのだ。
その刑事は大抵二人で、脅し役となだめ役がいる。そして調書をとる者も。今回伊藤隆吉の取り調べに選ばれたのは、大谷と山崎、そして調書をとる後輩、坂田。大谷が脅し役で山崎がなだめ役だ。
ペアが決まったとき、山崎は予想がついていたかのように笑みを浮かべた。
「高井さんは真一くん迎えに行ってるし、第一大谷さんと高井さんが組んだら誰も止めない気がするんだよなあ」
「精々とばっちり受けないように俺を叱りつけてくれよ」
「はいはい」
この二人がタッグを組むのは初めてではない。山崎の柔らかさと裏の顔は犯人の自供を招くべき外せない武器なのだ。
裏の顔、とは一概に言い尽せるものではないが、普段高井や大谷に頭があがらない大人しく優しい青年の影は全く見当たらないとでも言っておこう。冷静に、かつ重圧をかける。
その点大谷は包み隠さない圧迫感を犯人にふりかけていく。その様は暴力屋のそれと変わりないだろう。
しかしそれが警察の「落とし」の事実なのである。
「さあ、始まるぜ」
伊藤が警官に連れられて取り調べ室に入ってきた。山崎は机の真正面から、大谷はその横に立ち、伊藤を睨みつける。
伊藤を連れてきた部下は一礼をしてさっさと逃げるように出ていった。伊藤は手錠をはめられた両腕を股間の前に垂らし、頭をうなだれさす。
部屋に沈黙が続く。
もちろん大谷と山崎の作戦だ。これから何が起きるのかという恐怖をたっぷり想像させる。
そして軽く五分が過ぎた頃。
「いつまで馬鹿にしてんだ、ええ!」
大谷の怒声が響く。伊藤は軽く頭を揺らした。ヤク切れと軽い精神安定剤のお陰で頭に響くのだろう。
「何か言われないと動くこともできねえのかよてめえは!」
大谷がパイプ椅子を蹴りつけると、伊藤の脛に当たった。
「よしなよ、椅子が痛む」
山崎がここで口を挟み、伊藤の方をじっと見た。
「伊藤、せめて顔をあげてくれないか」
伊藤はぴくりとも動かない。何度か促すが反応がないので、大谷が顎を掴んで無理矢理顔をあげさせた。
伊藤の目線は奥の窓の外にある。山崎は席を立った。
「さあ、僕の座ってた椅子へ」
優しい笑顔を見せる山崎。取り調べを受ける者は部屋の奥の椅子に座らせる。
伊藤が座り、山崎も先程大谷が蹴った椅子を直して向かいに座る。大谷は横で舌打ちをした。
何も言わない伊藤に焦れたように、山崎は大袈裟に溜め息をついて椅子の背もたれに体を預けた。
「……これが欲しいのか?」
山崎が顔の前に覚せい剤を突きつける。
伊藤は急に目の色を変えた。
「君の上着のポケットに入ってたよ」
次第に伊藤の顔が山崎に近付く。両手は背もたれの向こうにされているので、無理矢理奪うことは出来ない。
「君の物なら君に返さなくちゃ。こっちが泥棒だ」
「……か、返せ……返せ」
大谷が伊藤を突き飛ばした。伊藤は椅子ごとバランスを崩して顔を打ちつける。
「悪いねえ手がすべっちまった。書いたな、坂田!」
「はい」
「簡単に言うもんだね、わかってたけど。伊藤、覚醒剤裏付けオッケイと」
大谷はさっさと立てと怒鳴りつけ、伊藤は机に戻った。
「伊藤、僕の眼を見るんだ。そして病院に行って何をしたか自分の口で言うんだ」
伊藤は静かに首を持ち上げ山崎を見た。淀んではいるものの、大谷が病院で見た時よりは幾分か正常さを取り戻している。
大谷に蹴られてやけになったのか。伊藤はにやりと笑って口を開いた。
「息子に会いに行った」
「何故だ?」
「何故? 親が息子に会って何が悪い。あいつは俺のもんだ」
大谷が二人の間に入る。
「物じゃねえよ。息子なら何でもしていいってわけじゃねえよな?」
じりじりと怒りの空気を伝えさせる。山崎は少し大谷に任せるように身を引いた。
「……お前病院で俺を蹴ったやつだな」
大谷は答えずに伊藤を睨み返した。
「お前……殺す」
机から体を離す大谷。次の瞬間、伊藤の顔は思い切り拳で殴られた。
「俺が先にてめえを殺す。息子の体に薬を打ったな」
伊藤はうめきながら大谷を睨んだ。まだ答えない。
再び大谷は伊藤の顔面を殴った。伊藤の顔は鼻血でまみれている。
山崎は監視カメラに映らないか気にしながら二人の様子を見守っていた。
「てめえの使い古した注射器を使ったんだろ?」
「くっ……知るか……」
大きな音を立てて、伊藤は椅子ごと後ろに倒れこんだ。大谷の蹴りが見事に入り、唾液を漏らしている。
「かあっ……うぐっ……」
「最後のチャンスだ。首を縦に振れ。病院に入り息子に覚せい剤を打ったな?」
「伊藤、聞くんだ」
山崎が大谷を制して口を挟んだ。
「捜査がうまく進まないと、僕は忙しくなってなかなかここに来れなくなる。次からはこの乱暴な刑事と二人だ。今言う方が賢いに決まってる」
大谷は笑って「歓迎だ」と言った。沈黙の時間が過ぎると、次第に伊藤に認めるような姿勢を感じられた。
伊藤はゆっくり二度頷いた。
「……打ちに行った」
「何を」
「覚せい剤だ」
伊藤は悔しげに目線を下げた。山崎は「よく言ったな」と優しく声をかける。
「これで不法侵入と傷害が確定したね、坂田」
「はい。あの……虐待には入りませんよね?」
「親権放棄してるようなものだからね。弁護士に任せればいいだろう。伊藤、大丈夫か?」
山崎は伊藤に手を差しのべ、手拭いを顔に当てるように言った。
「親権は……放棄してねえぞ」
「ああ、でも君は裁判なら負けるよ。家庭裁判所でも刑事裁判所でもね。あなたに息子さんを育てる権限は無い」
「あの女にこそ! あいつは男と逃げたんだよ! 俺の息子を育てる気なんかなかったんだよ!」
「ええ、お二人共親権があるとは言えません。何しろ出生届けも出していない」
山崎は続けて清子への暴力を問い詰めた。
「妻である清子さんに度重なる暴力を加えたと聞いている」
「暴力? しつけだ。あんな女殴って当然だっ。ちょっと目を離したらつけ上がりやがって!」
「ならてめえは家畜をいたぶる屋主ってとこか? 時代錯誤も甚だしいな。てめえはムショ送り間違いなしだ」
「大谷さん」
流石の伊藤も刑務所と聞いて恐怖を感じている。
「い、嫌だ……なあ、頼むよ。ムショ行きなんてごめんだ、俺は何も悪くない!」
「さあ、終わりにしましょう。抵抗もそれまで。次は柵越しに会いましょう」
「待っ……!」
大谷が胸倉を掴んで部下を呼んだ。伊藤は留置場に運ばれた。
「また形式上の取り調べはあると思うけど。お疲れ、坂田。大谷さん」
「お疲れ様です」
取り調べ室は空になった。
「雨か……」
山崎は廊下で一人呟いた。どうも空気が悪い気がしてた、と納得している。
「山崎」
「え?」
振り返って驚いた。山崎を呼んだ声の持ち主は、すっかり濡れ鼠となっている。
「どうしたの! 早く着替えて暖房に……」
高井は何も言わず山崎の肩に額を乗せた。
「高井さん?」
「俺がもっとちゃんとしてやりゃあ……」
「話が見えないよ、高井さん。顔あげて」
「取り調べ終わったんだな」
「ああ、上手くいったよ。何をそんなに落ち込んでるの? 失敗でもした?」
高井は何も言わない。そしてゆっくりと顔をあげ、濡れた睫毛は下を向いたまま口を開いた。
「あいつ……真一な、伊藤の事があまりにショックで覚えてねえんだ……」
「覚えてない?」
「全部じゃねえ。けど、伊藤に乱暴されてからだと思う。あいつ、大谷が会いに行った事覚えてねえんだ。起きたら居たのは弥央だって……」
「何、なんなんだそれ」
狼狽する山崎。微かに もっと伊藤をこらしめておけば良かったという思いがよぎる。
だが今辛いのは高井だ。山崎は高井の目を見て力強く励ました。
「高井さんの責任じゃない。一時的なものだからきっと治る」
高井は山崎に促され、仮眠室に向かった。着いてすぐストーブをつけ、着替えを探す山崎。
「山崎……」
「服脱いだ?」
「弥央がな……」
ロッカーを閉めてタオルと服を渡しながら、山崎は高井の眼を覗きこんだ。
「弥央ちゃんが?」
「……真一と一緒に暮らすって」
驚愕のあまり声が出なかった。言葉も思い浮かばない。高井は続ける。
「真一はな……伊藤の姓はいらないって言うんだ。自分は竹内真一だ、ってよ」
「そんな……確かに伊藤にも斎藤にも預けたくないけど、そんなのが通用するわけないじゃないか」
「家族と縁を切って生きてるのと同じだ」
「そんなの、今までと変わらない!」
山崎の声が響き渡り、後には部屋の暖房の音だけが残った。山崎は大きな溜め息をつく。
「ごめん、怒鳴って……」
「いや、俺だって取り乱した。親父に頼るしかねえな……」
「じゃあ、今原田さんが?」
「ああ、二人を相手にしてる」
「今夜か……そりゃまた急な話だな」
「ごめんなさい」
原田の部屋には、ソファに座って向かい合う形で弥央と真一が居た。
「ま、お前らが決めた事に口を出すつもりはない。だが真一にはまだここに来てもらう事になる」
「あ、あたしの携帯に連絡下されば……」
「何で?」
真一の突飛な質問に原田が戸惑う。
「そりゃあまあ、真一の両親の事もあるしな」
「本当の親?」
「ああ、ちゃんと会える。母親はまだ捜索中だがな」
「探さなくていいのに……」
心底嫌そうな真一。そうはいっても、探さないわけにはいかないのだ。
「真一、二人で暮らすならそういう事もちゃんとしよ?」
「うん……」
弥央の言う事には頷く真一。原田は真一に何かしら変化がある事に気付いた。
「真一、二人で話さないか?」
真一は少し驚いて怯えた表情を見せた。
「なに心配するな。すぐ済む」
「じゃあ、私外で待ってます」
「悪いな」と声をかける原田。弥央は真一に微笑んで部屋を出ていった。
ソファに向き合うように座る二人。原田も幾分緊張していた。
「さて、真一。こうして話すのは初めてだが……お前どこか変わったんじゃないか」
「変わった?」
「ああ。自分じゃ気付いてねえか?」
真一は考える そぶりも見せず「分かんない」と言った。
「……表情も、雰囲気も。お前は今まで色々あったが、そのどれにも当てはまらない感じだ」
「言ってる意味がわかんないよ」
「それだ。前のお前は物事を知る事にとても真っ直ぐだった。真正面からぶつかって傷付いたりしてた。だが今は全てにおいて感覚を閉ざしてる」
「難しい事言わないで!」
真一は頭を抱えてテーブルに肘をついた。
「僕は何もわからない……わかりたくないよ……」
「真一……大丈夫か?」
原田が真一の頭に手を延ばすと、真一は驚いて大きく体を揺らした。
「僕にさわるな!」
「真一……」
真一は弾丸のように部屋から出ていった。
「なんてこった……」
あいつは伊藤の一件でかなりショックを受けてる。
大谷と会った事も忘れたなら、もうあいつの心の中には竹内と弥央しか居ない……。
「弥央、弥央……」
息を切らし、必死に廊下を駆け抜ける真一。
「弥央っ。お願い、どこっ?」
「真一!」
「はっ……弥央……!」
曲がり角で、真一の声を聞いて駆け付けた弥央と鉢合わせた。
「弥央っ!」
二人は強く抱き締めあった。
「真一、大丈夫……何も怖くないよ」
すっかり白くなった真一の髪を撫でながら、弥央は何度も何度も大丈夫と呟いた。
「帰ろうか。あたし達の家に」
二人は手を繋いで歩き出した。
新しい家、そして新しい人生へと。
「これでハッピーエンドなんて、言わせないぜ」
二人が去って行く姿を見ていた大谷は、壁にもたれて腕組しながら言った。
「なら、大谷さん追い掛けて何か声でもかけてあげたら……」
「今は放っとけばいいのさ。ねえ、高井さん?」
山崎の隣で高井も壁にもたれ、意気消沈したまま二人を見つめていた。
「さあな。かける言葉が見つからねえ」
「つまり今の二人にゃ何を言っても効果はなしと。一番声かけたいのは山崎だろ?」
「そうなんですかね……」
好きになってしまった子が、自分以外の人間と新しい人生を歩もうとしている。それは何にも変えられない痛みだ。
「きっと真一のやつ、感覚をシャットダウンしてるな」
大谷は自分の顎を撫でながら思案するように呟いた。高井が反応する。
「確かに……前はあいつに何もかも見透かされているような気がした。だけど今は何も知りたがってないようだ」
「純粋ゆえに、知りたくないことまでわかっちまう。それが嫌になったんでしょうね」
山崎は不安に襲われた。あの二人はこのままでいいのか?
「大谷さん、真一くんは逃げてるんでしょうか……」
「直にわかる、まだまだ自分達は未熟だってね。特に忘れた事なんかが夢に出てきたら、真一は伊藤と向き合うべきだって気付くだろうよ」
「夢……」
山崎が呟く横で、高井のポケットからマナーモードのバイブの音が微かに聞こえていた。
「お、電話だ……」
高井は二人の顔を見て、電話をとった。
「はい、高井です。お電話ありがとうございます。はい、実は伊藤隆吉さんの件でお話が……」
山崎と大谷は顔を見合わせ、直感した。
電話の相手が、伊藤清子……もしくは斉藤であることを。