大谷の悲しみ
乱暴に車を降り、エレベーターのボタンを連打した。
五階に着くまでがもどかしい。大谷の電話から二十分が経過している。高井と弥央は会話を交わすことはなかった。
廊下を走って真一の病室に入る。そこには、一人の看護士が居た。
「あら……真一くん、今寝ちゃったみたいです」
「この部屋に見舞いで来てた刑事は知りませんか?」
息を切らして早口で聞いた。看護士はいくらか驚いた様子で、少し言葉につまりながら返事をした。
「あの刑事さんなら、不審者を連れて出てってましたけど……東館の二階の手術室です」
「不審者?」
「さっき男の人が捕まったんです。何人か男手を借りて出てってました」
大谷が尋問してるのか? なら、さっきの電話の声は……。
高井が試行錯誤してるなか、弥央が背っ羽詰まった様に声をあげた。
「あたし、真一の部屋に居てもいいですか?」
少し驚いたが、病院に付いてくる時点で大体わかっていた。弥央は看護士ではなく、高井の了承を得ようとその瞳を見つめている。
「俺は大谷のところへ行ってくる。任せたぞ」
「はい」
弥央の返事も待たずに高井は階段へと向かった。
数段飛ばして駆け下りる。薄暗い手術室の階へ降りると、廊下中にくぐもったうめき声が聞こえた。
「薬浸けの野郎が、むやみに発言すんじゃねえよ!」
「大谷っ?」
閉まった手術室から聞こえたのは大谷の怒鳴り声だった。
高井は大谷の名を呼びながら扉を叩く。
「大谷、大谷っ」
すぐに扉が開いた。出てきたのは二人の看護士だ。顔面蒼白である。
「あ、あの人を止めて下さい」
「ここまでするものなんですか?」
看護士の後ろを見る。高井は驚愕して息を呑んだ。
手足を拘束し、猿轡をかまされた小汚い男が居た。その男に暴力を奮っていたのは紛れもなく大谷であった。
酷い出血だ。顔もわからないほど腫れている。
何があったんだ、大谷。
「大谷っ、何やってんだ、止めろ」
高井は大谷の元へ走りより、無理矢理両腕を掴んで男から引き離した。
「離せ、離しやがれ」
「落ち着けよ」
暴れる体をねじ伏せながら、いつか自分もこうして熱くなっていたことを思い出した。
理屈じゃないんだ。犯人が憎くなるのは。
「このままだと過失で逮捕されるぞ」
「それがどうしたってんだ。こいつは頭イカれて、真一を薬で侵しやがったんだ」
「だからって殴り殺していいのか」
横に居る男の医師にアイコンタクトをとる。手伝って欲しいのだが、皆腰が引けてしまって、近寄りもしない。
腰の手錠が気になる。このままでは押さえ込むこともできない。
「こいつはなあ……」
大谷の怒りは持続していた。震える声で次の瞬間、驚くべきことを叫ぶ。
「そのくせ父親を名乗ってんだよ!」
一瞬、耳を疑った。次第に喉がからからになる。
父親とは、伊藤のことか?
十五年前の光景がフラッシュバックした。幼い自分を殴った、親父の降格の原因となった男。
しかしその男は大谷にやられたのか、あちこちから血を流してぐったりとしていた。時折かすれた声で唸ってはいたが。
「おい、水をかけろ!」
大谷は足元のバケツを蹴って医師にぶつけた。医師はこちらの剣幕に怯えているのだろう。すぐにバケツを拾って水を汲んだ。
このままでいいのか。高井はいてもたってもいられなくなった。
捕まえていた大谷の腕を離して、大股で医師に歩み寄り力任せにバケツを奪った。
「おう、高井さん! そいつにぶっかけてやれ……」
叫ぶ声が曇って聞こえた。部屋にバケツの転がる音が響く。
高井が水をかけたのは大谷だった。
「……目を覚ますのはてめえだ、大谷」
全身ずぶぬれになって呆然としてる彼の腕を無理矢理組んで、声を張り上げた。
「皆さん、迷惑をかけてすいませんでした。鍵の責任者の方以外は通常の仕事に戻っていただけませんか」
成り行きを無言で見守っていた医師たちは、それぞれ目配せをしてぽつぽつと部屋を出て行く。最後に続いて、高井と大谷も部屋を出た。
薄暗い廊下を歩き、高井は大谷をトイレへ連れこんだ。そして黙って濡れた上着を脱がせる。
「大丈夫か」
大谷の瞳を覗きこむ。ゆっくりと二人の視線が絡まった。
「高井さん……?」
その瞳の奥の燃えたぎる黒い炎はみる間に姿を消してゆく。
「辛かったな。傷付いたんだな」
「電話繋いでたら良かったな」と優しく声をかけた。大谷の濡れた頭を手ぐしで整え、水気をとった。
「俺……腹立って悲しくて……どうにかなっちまいそうだった」
だからあんたに電話したのにと、大谷は消えていきそうな声で呟いた。
「悪い、そこまで気付けなかった」
「あんたが気にすることじゃねえ。俺の修行不足なんだ……」
大谷は普段の覇気を全部使い切ってしまったようだった。俯いて謝る。
彼らしくない、と高井は思った。
「それに、原田さんにも連絡ひとつしてねえんだ。今から連絡して謝りに帰ります」
「おいおい、俺一人で後始末しろってか?」
「あ、違う、始末してから……」
大谷がそこまで言うと、高井はおもむろに携帯を取り出した。そして番号を押して耳に当てた。
「原田さん? 今大谷と病院に居るんだが……ああ、そう、不審者を大谷が捕まえたからよ、応援頼む」
電話が終わる。大谷は目を丸くして高井に詰め寄った。
「高井さんっ」
「てめえの手柄だろ。何の勝手もしてねえよ」
微笑んだ高井の顔を見て、気が抜けてしまった。今日のところは敵わない気がした。
「恩に着ますよ……」
大谷はそのまま一つくしゃみをした。「悪い悪い」と苦笑する高井。二人は再び手術室へと戻った。
病院を出ると、丁度原田達の車が来た。
原田の部下が後部座席を開ける。高井と大谷は気を失った男を挟んで座った。
「よくやったな、大谷。だが、真一はどうしてるんだ?」
「今は弥央が一緒にいる」
高井が代わりに答えると、大谷と原田はそちらを向いた。
「そうなんですか。真一はもうすぐ退院予定だって言ってましたよ」
大谷が加えると今度は二人の視線が彼に向けられた。
「なんだ、何も知らないぞ」
原田が少し疑問の色濃くぼやいた。高井は「さっきわかったことだから」とフォローを入れた。
車は署に戻ってきた。高井と大谷は男をそのまま留置場へ連れていく。
「やべえ。こいつの所持してるもんとか確かめてねえ」
悪びれも無く話す大谷。これには高井もあきれていた。
「怒るぞ大谷」
「すいません、今度奢りますよ」
大谷が男の体を調べると、数袋の覚醒剤と煙草、そして財布が出てきた。
大谷はそれらを顔の前に掲げ、高井に見せる。
「それだけだな? よし、後は目を覚ますまで監視に任すか」
その場を去る二人。大谷は財布の中身を探っていた。
「……高井さん、最悪だ」
大谷が力なく呟いた。心なしか声が震えていた。
「どうした?」
大谷が高井に突きつけたのは、運転免許証。
高井はそれを見て「やりきれねえな」と言って煙草に火を点けた。
そこに書いてあった名前は、伊藤隆吉。まぎれもなく真一の実父だった。