高井と弥央
署に戻ってきた高井は、陽の高いうちに伊藤清子に連絡を取るつもりだった。
「そういや山崎の方はどうなってんだろうな……」
「高井さん」
振り返り立ち止まる。そこにはすっきりした表情の弥央が立っていた。
「おう、どうした?」
「あの、昨日はハンカチありがとうございました」
頭をさげてハンカチを突き出す弥央。さっきから高井と視線を合わそうとしていない。
「ああ、どういたしまして」
高井はハンカチを受け取り、思い出した様に弥央に近付いた。
「お前、泣き虫は治ったか? そんなんじゃ親父さん心配するぞ」
いたずらっぽく笑いながら耳打ちする高井。急に近付いた距離に驚き、弥央は顔を赤らめた。
「ひどい、高井さんの馬鹿っ。悪趣味」
「ああ? 悪趣味ってのは何の事だ」
「そのハンカチだもん」
「おい、どこがだっ」
いつの間にか言い争っていたが、弥央の目線は突然高井の後ろに向けられた。表情も急変している。
弥央は「さよならっ」と言って走り去ってしまった。
「言い逃げすんな! まったく、何見てたんだ?」
後ろを振り向くと、少し先に山崎の姿が見えた。山崎の顔はいつもと違い、曇り切っていた。高井は浮かない彼を見て心配になる。
「どうした? そっちの仕事で何かあったか?」
「仕事外でやらかしちゃったよ……」
仕事じゃない? どういうことだ。
高井が問い詰めると、山崎はぶっきらぼうに、しかし小声で話し始めた。
弥央と実家に行ってつい本音を溢してしまった事を。
すべてを聞いた高井は、実に嬉しそうに声をあげた。
「お、お、お前。やっぱりか、やっぱりそうだったのか」
「何それ。その反応はなんなんだよっ」
幼馴染で同僚の彼が恋に堕ちていたなんて。ちょっとからかってやろうかという気にもなる。
高井は半笑いで山崎の肩を叩いた。
「それで弥央のあの反応か。まあ恋ってのはそういうもんだ。今度は曖昧にじゃなくハッキリ言ってこい」
そこまで言って我慢できずに吹き出してしまった。山崎が「失礼すぎる」と抗議をする。
いくらなんでも腹が立ってきたので、負けずに問い詰めてやろうと思った。
「高井さん、俺の目見てよ」
山崎が少し高い目線を合わせるように覗き込んだ。
「なんだよ」
「目泳いでる。なんか言うことないですか」
「馬鹿馬鹿しい。自分がからかわれたからって」
「仕事に戻るぞ」と肩の手を払いのけた。それは山崎の目には、動揺して話題を変えたように見えた。
二人は廊下を無言で突き進む。向こうから原田がやってきた。
「ちょっといいか。斉藤香織の実家がわかった」
「本当ですか」
「ああ、これで連絡もつくだろう。彼女の留置所送りが先になってしまったがな」
「じゃあ面と向かって話ができますね」
原田と高井の会話を聞くだけの山崎。「報告書が残ってるので」とその場から立ち去った。
「あいつも疲れがきてるな」
「……それだけじゃない」
後姿を見送りながらため息をついた。しょうがない奴。高井は原田に挨拶をして、寮に向かって歩き出した。
寮の廊下は暖かみのある月のような色が照っていた。足を踏み入れるとさっきまで照らされていた白い蛍光灯が眩しく感じる。
「損な役回りもいいとこだな」
自分が今何をしているのか、考えて自嘲的になった。山崎があそこまですねていては流石に放っておけない。自分が一肌脱いでやろう。
「白石弥央いる?」
寮母が案内した先は台所だった。
「お前何してんの?」
「ぎゃあっ」
冷蔵庫を覗いていた弥央は突然の高井の声に驚き、飛び上がった。
「ぎゃあ……? 喧嘩売ってんのか」
「寮母さーん、男の人がいるっ」
「その寮母さんに案内されたんだけど」
高井は煙草をポケットから取り出しながらテーブルについた。「まあ座れよ」と促すと、弥央も渋々だが椅子に座った。高井はその様子をじっと見送って、ぼんやりとライターを置いてきた事を思い出していた。
「何で俺こんなところにいるんだ」
思わずぽつりと呟いた。斉藤香織の実家も気になる。伊藤隆吉の居場所も突き止めて、聞きたい事はいろいろあるのに。
なぜか今一番気になるのは、弥央の事だ。
「弥央。一回しか聞かないから簡潔に答えろよ」
思い切って口を開いた。壁掛け時計の針の音が響いている。弥央はただならぬ空気に押し黙った。
「好きなやつはいるか?」
「は、はい?」
今、なんて言った? そう言わんばかりの反応が返ってきた。
高井の顔が熱くなる。くそ、もう一回聞くのは流石に恥ずかしい。
「それって、何か事件に関係あるんですか」
「あ、ああ、大きくな」
「絶対うそ」
わかってるなら言わなくていいだろ。高井はだいぶ参った様子で、頭を抱え込んでテーブルの上に突っ伏した。こんな高井は、普段は絶対見ることができない。
弥央は特別なものを見ているようで、なんだか嬉しくなった。
「わかりました。教えてあげる」
どきりとした。そう言ってこちらを見る弥央の目は、恋する女のそれだ。なぜかわからないが心臓が波打ち始めた。
「そのかわり高井さんも教えてください」
「俺はそんなやついねえよ」
「うそでしょ」
「うそついてどうする」
高井の目を覗き込んで、「本当に」と念を押した。高井は「本当だ」と頷いた。
……なんだか残念なような、ほっとしたような気持ちは、気のせいだろうか。
「どうしていないの」
「さあな。多分どっかでセーブしてるんだ。仕事に支障が出ちゃ困る」
言いながら、ライターと灰皿がないか弥央に聞いた。あっさり「禁煙」と告げられてしまった。
「だけど、そうじゃない奴も居るらしい。守りたいもんができるからかな」
そう語る高井の目は、守りたいものと出会った人を羨むような色をしていた。知った人物を頭に浮かべている。弥央はなんとなく誰のことか気付いていた。
「わかるだろ。お前のことを守りたいと思ってるやつがいる」
弥央はわかりやすく高井の視線を避けた。目を伏せて、何もないテーブルの上を見て押し黙る。高井は更に言葉を続けた。
「事件に関わったから優しくしてるんじゃない。あいつは本気だ。俺が言うんだから間違いねえよ」
俺も鈍いから本人に言われるまで気付かなかった、と高井は笑った。弥央はそっと髪をかきあげ、高井を見つめ返した。
「……わかります。すごくいい人だから」
それを聞いて、高井は微笑んだ。「そうだろう」と言って煙草の箱を手のひらでくるくると回した。
だが弥央は「でもね」と付け足す。
「恋愛には相手の気持ちが必要なんですよ。もうちょっとあたしの事も考えてくれたっていいのに」
「……考えてるよ」
「本当かなあ」と弥央は下を向いて笑った。高井はそんな彼女を見て、心の中で「本当さ」と返事をした。
お前が幸せになれるように。お前が望むなら、父親の代わりでもいい。側で励ましてやりたいんだ。
その時突然、高井の携帯の呼び出し音が鳴った。高井はディスプレイに映る名前を見て、すぐに電話に出た。
「もしもし、大谷か」
電話口からはなかなか声が聞こえてこない。
「どうした大谷。返事しろ」
「俺……」
「何があった」
只ならぬ様子に、高井の胸を嫌な予感がよぎる。今は病院に居るはずだ。何かあったのか。
「そっちに行くから待ってろ」
高井は携帯を切って立ち上がった。弥央も気になり、つられて席を立つ。
「どうしたの?」
「病院に行く」
「あたしも行きたい」
思わず弥央を見て立ち止まった。その目はどうやら本物のようだ。真一が心配なのか。
「好きにしろ」
二人は寮を出て車に乗り込んだ。心配な人をそれぞれ頭に浮かべて。