黒い影の正体
少し日が傾いて、白い病室にオレンジ色が流れ込んだ。真一の髪も同じくオレンジ色で染められている。
「寒くねえか?」
「うん」
大谷は真一の首まで布団をかけてやった。
この日、大谷が部屋に入ってから一時間程後に真一が目を覚ました。真一は目の前に居る大谷を見つめて、怖かったと呟いた。大谷は近付いてもいいかと尋ねてからゆっくりと真一の横へ移動した。
真一はまた少し笑顔を失い、表情を伺う事は出来ない。署に保護されたばかりの頃を思い出した。
大谷は悔しかった。しかし、今真一の横に居られるのが自分だけなら、ただ側に居てやろうと思ったのだった。
「大谷さん、夜は帰るの?」
真一は天井を見つめたまま聞いているが、きっと昨夜の事を思い出して恐怖に脅えているのだろう。
ここに仕事で居る事に薄々気付いてはいるだろうが、それを簡単に言うのはどこか気が引ける。
「そうですね。真一が許してくれるなら居させて頂きたいですねえ」
「じゃあここに居てね」
「ありがとうございます」
真一は大谷の方に寝返りを打った。
「どこで寝るの?」
「個室ですからねえ、毛布借りて椅子で寝るしかないでしょう。あーさみいさみい」
「ベッドで一緒に寝ればいいのに」
「そりゃあったかそうだ。でも狭いですよ?」
「うん。狭いの好きだから」
大谷は優しく笑った。
真一は大谷が来てから話すことが殆んど質問ばかりだ。子どもの様に素直に聞いているのか……あるいは相手の反応を試しているのか。
どちらにしても真一の心境は変わってしまった。その事実に皆はまた胸を痛めるだろう。
時刻は六時を迎えていた。二人とも会話はないが、真一は居心地が良さそうだ。
「大谷さん、僕もうすぐ退院できるんだって」
「そうなのかい」
「うん、お医者さんがもうすぐって。血液がもう綺麗になったって言ってた」
「そりゃあ良かった。皆待ってますよ」
大谷は今日真一の症状を初めて知った。ストレスや感情不安定なときの為の処方箋も医師に聞いた。
だから、口ではおめでとうと言ってはいるが、このまま退院していいのかという疑問も同時に浮かんでいる。
本格的に泊り込むことを決めて、大谷は洗面所で歯を磨いていた。
すると突然、病室の扉がノックされた。
「誰でふか?」
歯ブラシを持って口元を泡だらけにしながら扉へ向かう大谷。
「あら、先生じゃないのか。ちょっと口ん中洗ってきますよ」
大谷はその場を離れ、真一に目をやった。真一は不安そうな顔で大谷と扉の方向を交互に見ている。
「えーっと、タオルタオル……」
大谷はわざと大きい声を出しながら、真一の元へ向かった。
「隠れときな」
今度は小さな声で囁く。
大谷は扉へ向かった。真一は部屋の隅に座って隠れていた。
「お待たせしてすいません。誰の見舞いで?」
個室なのだから真一だというのは当たり前なのだが、真一を訪ねてくるものはまず警戒しなければならない。
といっても、訪ねてきた男の風貌は見るからに怪しいものだった。
身長は高いが痩せこけている。髭を生やし、髪の毛は油っぽく、服装なんかもまるで清潔感がない。そして瞳は……薬物常用者によく見られる、澱んだものだった。
「なんだてめえはあ?」
首を捻りながら大谷に顔を近付ける不潔な男。
誰が入れたんだ、警備がなっちゃいない。大谷は改めて思ったが、訪ねてくる人物に大体の予想はついていた。
「今日は窓から入って来なかったんだな」
「へっへっへ、昨日成功したら十分だぜ」
ビンゴ。大谷はにやりと口角を上げた。こんなにも早く犯人が見付かるとは。しかも向こうからやってきたのだ。
「待ってたぜ。俺は不潔で臭い野郎が大っ嫌いなんだ」
手錠と警棒を確かめると、男はますます目をすわらせて睨みつけてきた。
「てめえ別の奴だろ。ここの患者に用があんだよ」
「あらら、まだ頭はぶっ飛んでなかったのかあ? 安心しな、二度と会えねえよ」
言い終わると大谷は、その男の鳩尾を狙って思いきり蹴りを入れた。
倒れてくるその男は、衝撃は感じても痛みは感じないのか、大谷から目を離すことなく覆い被さってきた。
「くっ……」
辛うじて避けた。直ぐ様男の首ねっこに踵を落とすと、でかい音を立てて男は崩れ落ちた。大谷は急いで手錠をかける。
「くそっ、ちょっとびびっちまったぜ。おーい、誰か来てくれっ」
大谷の呼び掛けに、看護士や医師が次々と集まってきた。彼等にその男を抑えつけてもらい、真一の元へ駆け寄った。
「真一、もう大丈夫だ。怖かったな」
「き、き、昨日の……」
昨日自分を襲った影と気付く。真一はぶるぶると震えていた。
「そうみたいだな。でも二度と会う事はねえよ」
大谷の後ろでは男が荒々しい声を上げて暴れていた。
「ちっ、これだからクスリやってる奴は」
忌々しげに舌打ちをし、真一から離れて医師の元へ近寄る大谷。
「おうおう、何か幻覚でも見えてんのか?」
「そいつは俺の子どもだろうが! 返しやがれこらあ!」
一瞬、何が聞こえたのか理解できなかった。言葉を失う。
子ども? 真一が、こいつの……?
「ふざけた事抜かしてんじゃねえっ!」
我を見失った。気が付けば力の限り叫んでいた。黙りこくる医師達を尻目に、大谷は掌で目元を覆って真一の元へ戻った。
「大谷さん」
「何も聞くな、お前は。何も……」
真一を自分の胸に引き寄せる大谷。抱える両腕は、しゃくりあげる肩に合わせて震えている。
大谷は泣いていた。泣きながら携帯を取り出し、応援を呼んだ。




