父親の所在
「原田さん、ちょっといいですか?」
大谷が原田のもとを訪れた。昼前の時刻ということもあり、二人は外のカレー屋で待ち合わせをした。
「小杉が仕掛けた寮の監視カメラの映像、どこに送ってたか掴めたんです」
「じゃあ伊藤隆吉の住所がわかったのか?」
「はい。市内に住んでます」
「市内って」
「この近辺ですよ」
運ばれてきたビーフカレーに手をつけず、顎をさすりながら考え込んだ。
「まずいな……」
「だいぶイカれてるみたいです。斉藤香織もそれをわかってて煽るような真似をした。何か起きても不思議じゃないですよ」
「ああ、何とか対処しなきゃな……」
大谷のシーフードカレーが出てくると、二人は無言で食べ始めた。
先日以来、弥央は頻繁に真一の病室を訪れていた。真一が眠っていない間は、二人で話す事が多くなった。
今日の昼過ぎも二人は一緒に居た。
だが、昼食をとって薬を飲んだ真一は間もなく眠りについたのだった。
「真一、うなされてる……」
一時間も経ってないうちに、真一はみるみる冷や汗をかきだした。
弥央は真一の服が汗で濡れないように、掛け布団をめくってタオルで顔と首の汗を拭いた。
「これじゃ風邪ひいちゃうもんね」
丁度真一は横を向いて寝ていたので、車椅子から腕を伸ばして背中の汗も拭いてやった。
その瞬間、急に真一は声をあげて苦しみだした。
「う、うう……」
「真一っ」
うわ言のように嫌だ嫌だと言って首を枕の上で転がす真一。弥央はただならぬ様子に彼を揺さぶり起こす。
「起きて、真一っ。大丈夫」
弥央に手を握られて、真一は目を覚ました。ぶるぶると震えて、すがりつくように弥央の瞳を覗き込む。
「真一、怖かったね。もう大丈夫だよ」
「弥央、側に居て……」
「あたしはここに居るよ」
弥央に話しかけられているうちに、真一は少しずつ落ち着きを取り戻していた。
真一は怖い夢を見たと言って、その内容を語りだした。
「夢の中で、ここに誰かが勝手に入ってくるんだ。男の人で、僕の事嫌いなんだ。殺されるかもしれない……」
弥央は思い出しても辛そうな真一を、腕を伸ばして抱き締めた。
「大丈夫だから。あたしがずっと側にいる」
真一は心から安心して、再び寝息を立て始めた。
真一と弥央が入院してから五日後の朝。弥央は無事退院を迎えた。
「忘れ物はない?」
「うん、迎えに来てくれてありがとう、山崎さん」
山崎は複雑な心境だった。確かに弥央の退院は喜ばしいことだが、一方で弥央と真一が離れることを嬉しく感じている自分がいる。申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「今日は寮でいいんだよね?」
「うん。そのうちアパートを借りようと思う」
「え?」
山崎は道路の脇に車を止めた。驚いている弥央の瞳を焦った色で覗き込む。
「どうして? あの家はどうするの」
「あんな広い家、住んでても寂しいしお金かかるから」
「手続きだってまだ済んでないだろ」
「最近は早く済むんでしょう? 刑事さんに雑誌とか買ってきてもらっていろいろ聞いたの」
山崎は浮かんだ後輩の顔にため息をついた。事件に何も関わっていなかったからそんな軽はずみなことを言えるんだ、と。
「僕は反対だよ」
「山崎さん」
二人の間に気まずい空気が流れた。
署に着くと山崎は原田に報告に向かった。
「弥央、退院か」
「高井さん」
廊下で待っていた弥央の前に高井が偶然通りすがった。
「お久しぶりです」
「久しぶりだな。元気だったか」
「はい。高井さん、なんだか機嫌よさそう」
元気そうな姿に安心して、高井は自分でも気付かないうちに笑顔になっていた。
「なんでもねえよ。今日はまだ帰らないんだな」
高井の一言で弥央はさっきの山崎の言葉を思い出した。相談してみようかという思いがよぎる。
どうやらそれは空気で伝わったようだ。
「何かあったのか」と尋ねる高井。
「私、家を借りようかと思って」
「……そうか」
「そうか、って。どう思います?」
「お前がそう決めたならそれでいいんじゃねえか」
それでいいと言ってくれてるのに、どこか不満足な答えだった。もしかして自分は心配してほしかったんだろうか。
高井は「ただ」と付け加えた。
「思い出が辛いならしょうがない。でも嫁に行くまでは親孝行として実家に住むのもありだろ」
そう言う高井はやはり弥央を見て微笑んでいた。
弥央は緊張の糸が解けたように、頬を静かに一筋の涙が流れた。
高井は急に泣き出した弥央を見て動揺した。
「なんで泣いてるんだ」
「わからないです」
誤魔化すように笑うが長くは続かない。眉が上がったり下がったり、くるくると表情を変える弥央。
高井は弥央の頭を乱暴に撫でた。だが、それは逆効果だったようだ。
「ずるいよ。我慢してたのに……」
弥央は一層激しく泣き出してしまった。高井は更にうろたえる。
「なぐさめかたなんかわかんねえぞ」
そう言ってハンカチを弥央に渡した。弥央は遠慮せずに涙を拭う。
「煙草臭い……」
「文句があるなら使わなくていい」
顔から腕を引き離そうとする高井。抵抗しているうちに、弥央は声を上げて笑い出した。
「泣いたり笑ったり、どうなってんだ。忙しいやつめ」
「うふふ、ごめんなさい。止まらない」
ようやく笑顔が見られて安心した。「仕事に行くからな」と言って高井はその場を去った。
後に残った弥央は、煙草の匂いがするハンカチを握り締めて、いつまでも頬が緩んだままだった。
時刻は深夜二時を過ぎた。黒い雲に浸食されていく金色の月は、酷く心をざわめかせた。
寝るのが怖い。側に誰か居て欲しい。
真一はふと弥央の事を思い出して、窓を閉めた。
「弥央なら夢の中まで来てくれるかな」
少し熱くなる頬。早まる心音。真一はその感情を知らなかった。
そして眠りにつこうとベッドで目を閉じたその時。
窓が開く音が聞こえ、真一はベッドから体を起こした。窓の鍵を閉め忘れていたのだ。
誰か居る。誰かが入ってきた。
驚くべきことに、五階の真一の部屋に侵入者である。夢ではないかと目を疑った。
部屋に降り立つ黒い影は、真一をあっという間に恐怖で包み込んだ。
「だ、誰? 先生呼ぶよ……」
掴んだナースコールのボタンは、その黒い影に素早く奪われ、ナイフでコードを切断された。
「ゆ、夢の中の人……? 僕のこと嫌いだから殺しにきたのっ」
黒い影は何も答えない。ただ息を荒くして真一に近寄る。
「く、来るな!」
鈍い音がして、真一はベッドに倒れ込んだ。ナイフの柄で殴られ、気絶したらしい。
侵入者は真一の袖を捲りあげて、その細い腕を月光に晒した。
小さな白い袋を取り出し、手慣れた様子で注射器を弾く。
そしてそれは何度も真一を襲い続けた。
遠のいた意識の奥深くで、真一は誰も助けてくれない恐怖を感じていた。
朝日が眩しく、涼しい風の吹く瞬間。ひとつくしゃみをしながら、看護士が真一の病室へ向かっていた。
「おはようございます。ほら、朝ですよ。起きて、真一く……」
五階の廊下一帯に響くほどの、看護士の大きな悲鳴があがった。
「どうしたんだ!」
「か、か……患者の頭から血が……」
駆け付けた医師が真一の頭をよく見る。そして、心音と脈、呼吸を確かめた。
「脳に影響がないか検査しよう。下の先生に知らせてくれ」
「はい!」
看護士は部屋を出て行った。その時、微かに布団が動いた。
「真一くん、聞こえますか?」
「……はい」
緩く目を開けると、いつもの診察の先生が真一の視界に飛込んだ。
……昨夜のあれは、夢……?
「あ、起きない方がいい。頭を怪我しているからね」
「え……」
やはり、夢ではなかった──。