病室の赤
「真一くん……随分長く眠ってるなあ」
午前に斉藤香織が逮捕されてから、真一は睡眠薬が効いているのか、しばらく眠り続けていた。
山崎は眠る真一をずっと見守っていた。もう午後六時なので、かれこれ二日近く病室にいることになる。
「ちょっと先生呼んでくるね」
眠る真一にそう言い残し、山崎は病室を出ていった。
だがその後すぐに真一は、扉を閉める音で微かに意識が戻った。
「山崎さん……? うっ」
口を抑えて洗面台へ向かう真一。
「おえっ……げほっ」
息も荒く、肩を揺らしている。ぼやけた視界が段々と見えてきた。
洗面台は、真一の出したもので真っ赤に染まっていた。
「真一くん、起きたの? 入るね」
「待って」
真一の制止も虚しく、山崎は真一の口元と水道に残る赤い血を見てしまった。
「し、真一くん、どうしたの……?」
よくよく見ると、顔色も悪く何だかやつれたようだ。
だが、それよりも驚いたのは、真一の髪色。日本人の地毛とは到底思えない、黄色と白の混ざった髪だった。
「何かよくわかんないけど、調子悪いみたい」
言って真一は血の味が残る喉を洗った。
「調子悪いみたいじゃないよ! 先生、お願いします」
「あ……ありがとう」
へらりと青白い顔で笑う真一だが、その健気さがかえって山崎を心配させた。
真一に近寄り体重を預けさせ、ベッドまで連れて行く。
採血などの諸々を終えてから、高井に電話しに病室を出た。
「ちょっと目を離した間に……血を吐きました」
「どうして」
「今検査の結果待ちなのでまた連絡します。取り込んでました?」
「いや、取調べの休憩中だった」
「そう……また後で交代してそちらに戻ります」
検査の結果が出るのは翌朝だ。山崎は一旦署に帰ることになった。
「山崎さん……」
「真一くん、何かあったら言うんだよ。ナースコールも忘れないで」
「うん。ありがとう……」
寝ている間は髪の毛の色なんて気にしなかった。もしかしたら血を吐いた瞬間、血の気が引くかのごとくサーッと色が抜けたのかもしれない。
あれやこれやと考えている間に署に着いた。時刻は十時だ。山崎はまた真一の部屋に行く可能性を考慮して、今のうちに仮眠室で寝ることにした。
仮眠室に入ると、窓際の机で仕事をしている高井を見つけた。
「只今戻りました」
高井に歩み寄ると、唇に人指し指を当ててひたすら静かにするよう訴えてきた。
「誰か寝てるんですか……ぎゃあっ!」
額にスリッパが勢いよく投げつけられた。
「山崎てめえ気配を消しやがれ」
「お、大谷さん……」
高井はだから言ったのにと笑みを噛み殺して呟く。
「俺だって眠いんですから」
「今のうちに寝とくんだな。そっち空いてるぞ」
「高井さん、なんか機嫌いいですか?」
高井の顔にはうっすらと笑みが残っていた。指摘されるとすぐに表情を変えたが、大谷が付け加える。
「さっきまで叱られてしょげてたんだけどね。にやにやしちゃって気持ち悪いったら」
「誰がにやにやしてんだよっ」
二人は高井の抗議も耳に入らない。山崎は大谷から取調べ中のいきさつを聞いて驚いていた。
「追い出されるほど熱くなったんだ」
「うるせえな」
「どうせ原田さんに許してもらってご機嫌なんだぜ」
「大谷は黙ってろっ」
必死に弁解する様子が、なんだか微笑ましく見えた。彼らにとって束の間の休息であった。
あれから真一は血を吐く事はなかった。検査の結果は軽い胃潰瘍だった。
真一が一番参っているのは、嫌な夢にうなされることだ。竹内の殺人現場の紅い光景が脳裏に浮かび、自分の吐いた血もそれと重なる。気分が悪くなって苦しんでいた。
「何でだろ。悪い夢とか見てるからかな」
真一は到底眠る気がしなかった。というより、悪夢ばかり見てしまうので寝たくなかったのだ。処方された睡眠薬もなんだか飲む気になれない。
ベッドから下りて窓を開けた。空は雲に覆われていて、星も月も見えなかった。
「みんなに、会いたいな」
すぐに窓を閉める。する事もないので仕方なくベッドに戻った。
「あ……」
くらくらと歪む視界。真一はそのままベッドに倒れこんでしまった。のたうち回りながらナースコールを呼ぶ。
この禁断症状が厄介なものだとは、まだ誰も気付いていなかった。
病室で三日目の朝を迎えた。弥央は一人で車椅子を動かせるようになった。傷はそこまで大きくなく、前髪が剃られたショートカットも今では気に入っている。
今朝は一人で真一の部屋にやってきた。もっと仲良くなりたくて、歩み寄りたくて。
もしかしたらお互い事件によって孤独になった被害者という共通点を知らないうちに意識しているのかもしれない。
「真一、おはよう」
「弥央……? おはよう」
弥央の姿を見て、笑顔がこぼれる。真一もまた弥央に会えて嬉しいのは同じだった。
「真一っ」
「なに?」
「その、髪の色……」
弥央は口元を手で覆い、おそるおそる真一に近付いた。
「昨日何があったのっ」
「えっと……胃潰瘍で血吐いちゃった」
「胃潰瘍なの」
弥央はしばらく真一を見つめて大きく目を見開いていたが、やがて穏やかな笑顔を見せた。
「胃潰瘍はちゃんと治るから。うちのお父さんもそうだったんだ」
「弥央のお父さん……」
お父さん、と聞いて真一の表情が曇る。弥央は「謝ったら怒るからね」と付け加えた。
「あたし、真一がどれだけ辛いのかわかってなかった。見習わなきゃな」
「弥央はすごく強い人だね」
「そんなことないよ」
否定しながら、前にも誰かに同じ事を言われた気がした。
山崎さんだ。思い出して、少し後悔した。
真一の部屋に担当医師が入ってきて、弥央は真一に「また来る」と言って部屋を出て行った。
数時間前、真夜中の仮眠室。
月明かりで起こされた高井はカーテンを閉めようと窓に近寄った。
「すんげーキレー……」
思わず一人言が出る。高井は満月に見惚れていた。
外で煙草が吸いたくなって、ベッドの脇に置いてあったウインドブレーカーを羽尾って部屋を出た。
こんな月を見ていると、余計に真一が心配になる。
何も知らない故に笑っていられるのか?
それとも周りを見れる程余裕のある強いやつなのか?
真一の頭の中まではわからないが、あいつが常に周りに気を配って笑顔でいるのはわかっているつもりだ。
ひとつ溜め息をついて煙草の灰を落とした。
「高井さん、上着に匂いつくんだけどな」
後ろからいきなり声をかけてきたその男、山崎進。パーマネントが幾らか大人しくなっているその顔を見つめ、高井はしばらく考える。
「ああ、山崎のかこの服。あったかい」
「だろうね」
二人ともまだ寝惚けてるのか、声にも会話にも水々しさや張りといったものがない。
「高井さん一本ちょうだい」
山崎は高井の隣に腰を下ろした。
「なんだ、お前体力なくなるとか言って吸わなかったじゃねえか」
「ときどき吸ってたよ。それに……何だかこんな夜は心が落ち着かないから」
二人は煙草の先端の火種を重ねた。
「綺麗過ぎだな」
「綺麗過ぎて怖いね」
月を見上げて一服。たまにはこんな休息も必要なのかもしれない。
「月見で一服ってのもいいな」
「これで酒があればもっといいですよ」
「いやいや、団子でしょう」
二人は後ろからの声に驚きそのまま地面へ突っ伏した。
「大谷……気配消すのやめて」
間もなくして朝を迎えた。三人揃ってトイレで顔を洗っている光景も見慣れたようだ。朝の会議にはボサボサの頭にくしゃくしゃのスーツで出席する。
「皆さんおはようございます」
原田も疲れているようなのか、挨拶もそこそこに本題に入る。話の内容の中心はやはり小杉と香織だった。
「一応の処分は決まった。裁判等で必要な時は何人か狩り出す。他、報告のある者は?」
幾秒か部屋が静まる。
「会議を終ろう。今日の平和を祈って。というか休みたい」
言うだけ言って原田は部屋を出て行った。
「みんな疲れてるんだね」
山崎は瞼を半分おろしたまま一人言のように呟いた。大谷がそれに答えて口を開く。
「山崎……俺昨日の逮捕経緯の報告書がまだあるんだあ」
「大谷さんまだやってなかったんですか? って俺も病院の調査書出してねえっ」
「元気だねえ山崎。その調子で俺のもやっといて」
「睡眠不足は時に怒りを呼び起こすんですよ」
隣でじっと二人のやりとりを聞いていた高井がため息をついた。
「お前ら二人ともたっぷり休んだだろうが。俺が仮眠室で仕事してるにも関わらず、ぐーすかと寝やがって」
言いながら高井は煙草のフィルターの方に火をつけようとしていた。山崎がすかさず「逆ですけど」と突っ込む。
「高井さんも休んだら?」
口の中の葉を吐き出しながら頷く高井。大谷が立ち上がると、残りの二人もそれに続いた。
すると後ろからかすかに山崎を呼ぶ声が聞こえた。高井と大谷は気付かずにぼーっとしながら歩き続けている。
話しかけてきたのは、山崎の後輩だった。
どうやら別の事件について原田警部補に用事があったらしい。山崎は原田を探しに出た。
原田は喫煙コーナーにいた。フィルターの方に火をつけようとしながら。
「親子というかなんというか……」
小声で呟くと、山崎は原田に近付いた。
「逆ですよ、原田さん」
「え? あ、舌が苦い」
「お疲れですね。そんな所になんですが、僕の後輩刑事がお呼びでしたよ……露骨に嫌な顔しないで下さい」
原田は「後で行く」と頷き、煙草を新しく取り出した。
「お前はこれからまた病院か?」
「あ、はい。真一くんの検査結果も出た頃でしょうから」
「そうか……あいつもややこしい体になっちまったみたいだな。俺は今から行こうかと思ってんだ」
「ええ、だいぶやつれてます……。でも弥央ちゃんが励ましてるからその辺は元気かもしれませんね」
「弥央が?」
一体いつの間にそうなったのか。原田は山崎を問い詰めた。
「昨日のことです。会って謝りたいって言い出して」
原田は弥央に真一も事件の被害者であることを聞かれたことを思い出した。
「そうか……なるほどな」
その日は捜査に進展は無く、真一の部屋に訪れる者が多かった。