紅い飛沫
その惨劇は、物静かな村の民家で起きていた。
都会のように背の高い建物に邪魔されない、自然が広がる豊かな村。
村民のほとんどが農業で生計を立てており、若者などをなかなか見かけない世界だ。
民家はそれぞれ畑や田んぼを持っているので、隣の家が声が届くほど近いなんてことは、あり得ない。
この家もまた、他の家と少し離れたところに建てられていた。
のびきった白地のタンクトップに薄手のシャツを羽織り、年代物の短パンを穿いた中年男性。
家主の白石幸雄は、この村を愛していた。今日も畑仕事で一日が始まる。
「あのお、すいません」
幸雄が庭先で畑の野菜を見ていると、村では見かけない男性に声をかけられた。
見たところ自分と近い年齢だろう。上半身を覆うポロシャツはひどく汗をかいていた。
「あんたは誰だったかな?」
幸雄が目を細めて尋ねると、その男は目深にかぶった帽子をはずして軽く頭を下げた。
「山中の民家に住んでおる竹内といいます。申し訳ないのだが、電話をお借りしてもよろしいだろうか」
ここから少し離れたところにある家を思い浮かべた。それはこの家よりも周りと孤立した一軒家である。
そうか、あの家か。まさか人が住んでいたとは。
「やあ、あの家の人かい。ちっとも見ないから、てっきり空き家かと思ってたよ。どうぞどうぞ、遠慮せず使ってください」
幸雄は笑顔で竹内と名乗った男を玄関に通した。男はいやに丁寧だったが、行動の端々にどこか挙動不審な印象を受ける。
「ありがとうございます。時に、主人はお一人で?」
竹内はとった帽子で自分を仰ぎながら、幸雄に粘着質な笑顔を向けた。
「いや、娘が一人奥におりますわ。女房は病で他界したもんで」
幸雄は一人で畑仕事をし、娘を養っていた。二年前からのことである。
「それはとんだ失礼を」
「いやいや、構いやせん。さあ、奥に入って」
竹内は軽く会釈をして家の中にあがり、居間へと続く廊下に置かれてある電話へ案内された。
「冷たいお茶でも持ってきますよ。ここらは秋でも暑いから」
幸雄が廊下を突き進むと、居間の奥から彼の一人娘が出てきた。
「お父さん、お客さん来たの?」
年の頃は二十歳。長い黒髪をさらりと流して、丸く輝く瞳が印象的だ。
「いやなに、電話を借りにきたらしい。麦茶用意できるか」
「はあい」
娘は居間に戻って、棚の上に飾ってある母親の写真に手を合わせた。
「……あれ?」
その写真を覗きこむ。いつもとどこかが違って見えた。
お母さんの顔が、何だか悲しく見える……。
廊下の竹内は、なかなか電話が繋がらないらしく額の汗を拭っていた。
「繋がりませんか? ここらの回線は適当だから」
幸雄に話しかけられると、竹内は一目でわかるほどに動揺した。
「あ、ああ、そうですか。私の家もなんです」
幸雄は少しばかり不思議に思ったが、驚かせただけだと思って話を続けた。
「山の中だとねえ。そうだ、いま娘が茶を用意してるんで、ゆっくりしてって下さい」
「どうも。娘さんはおいくつなんですか?」
幸雄の後ろから娘が現れる。竹内はやはり少し驚いていた。
「二十歳です。これ、どうぞ」
娘から麦茶が手渡される。
「これ弥央、お客さんを驚かすな」
「あ……すいません」
弥央と呼ばれた娘は、黒く長い前髪の隙間から瞳をのぞかせた。そして竹内を見上げて軽く頭を下げる。
「いや、気にしないで下さい。綺麗な娘さんで」
弥央は俯いて頬を赤く染めた。幸雄は心なし声が大きくなる。
「本当に、私に似なくて良かったです」
自慢の娘を褒められて、嬉しそうに頭を掻く幸雄。
竹内はそんな彼に目を細くして質問する。
「ずっとこの村に住んでるんですか?」
「いやあ、女房が療養始める頃でしたから……もう八年前ですかね」
白石家は八年前からこの村で農業を営んでいる。
病気が治る見込みの薄かった幸雄の妻は、美しい空気を吸って六年間幸せに暮らした。
「はあ、すると引っ越してきたわけですか」
「そうそう、こいつの小学校卒業と同時ですよ」
幸雄は麦茶を飲み干して、横にいる弥央の頭を軽く叩いた。
弥央は子ども扱いが気に入らなかったのか、つんとそっぽを向いて居間へと姿を消した。竹内は微笑ましいと言って薄く笑う。
「……じゃあ白石さんは、十五年前はどこに?」
突然幸雄はよくわからない質問をされる。なぜ十五年前なのだろう。この人が越してきた年か?
「十五年前ですか? まだ都内に住んでましたね……」
言いながら幸雄は違和感を覚えた。竹内がコップを置いて、電話をかけなおすその一連の仕草に──。
辺りの空気が震えている。何故だろう。冷えたコップから垂れていく水滴が、電話の横で小さな水溜まりとなっていた。
そんな幸雄の不安に基づくように、竹内は突如不適な笑みで話し出した。
「じゃあ、あれなんか覚えてるんじゃないですか。一時期話題になった殺人事件」
竹内の持つ受話器からは、電話のベルの音が漏れて聞こえた。
まるで夏を生き抜いた蝉の鳴き声のようだ。竹内は尚もこちらを見据えてにやりと笑っている。
不気味だ。幸雄は本能的にそう感じた。これ以上関わってはいけない気がする。
なのに、体が動かない。
竹内はゆっくりと口を開いた。
「……十五年前に妊婦とその家族が殺害される事件があっただろ。犯人は誰だと思う」
幸雄の方に体を向け、受話器を握る手をぱらぱらと遊ばせている。
十五年前の事件。なんとなくだが、事件のことは覚えている。
幼い子どもがいる親として、妊婦が二人も殺された事件はあまりに残酷で胸に焼きついたからだ。
いや、それだけじゃなかった気がする。犯人は殺すだけでは飽き足らず、確か、他にも──。
「思い出したみたいだな」
もう駄目だ。耳を塞ぎたいのに、蛇に睨まれた蛙とはこういう状況を指すのか。
そうだ、弥央が危ない。娘をここから離さなくては!
「犯人は俺だよ」
その瞬間、すべての空間で時が止まったように感じた。
会話のなくなる廊下。不可思議な空気を感じた弥央は、再び居間から顔を出した。
「父ちゃん? ……どうしたんですか?」
「弥央、逃げろ!」
「え?」
弥央は突然「逃げろ」と言われて、わけもわからずただ目を見開いていた。
竹内は続ける。
「今から民家の家族を殺す。捕まえられるもんなら捕まえてみな」
終了する電話の会話。受話器は音を立ててぶら下がった。
「なに……?」
「弥央、早く!」
幸雄のすぐ後ろには、白刃の凶器を手に妖しげな笑みを浮かべた竹内が迫り寄っている。
弥央はようやく命の危険を感じた。
「やめてっ! 危ない!」
そう叫んだ直後、幸雄の胸に鈍く輝く銀色が突き出る。
幸雄の背中は深く包丁で貫かれていた。
「弥央……は、早、く……」
竹内は倒れた幸雄に跨り、腹部をなおも包丁で突き刺す。やけになったように、何度も、何度も。
目の前で行われるスプラッタな情景。弥央は最早意識を奪われていたが、返り血を顔中に浴びた竹内に見つめられ、はっとした。
「いや……た、助けて……」
慌てて振り返り全力で玄関へと走るが、竹内はすぐに立ち上がり弥央へと追い付く。
そして弥央の首根っこを掴んで思いきり床に叩きつけた。
「ひっ!」
弥央の腹の上に何かが落ちてきた。封筒だ。
「やだ、やめて、取って」
「いいか聞け。この先一キロメートル登った山中の一軒家に、俺が十五年間閉じ込め続けた坊主がいる。警察が来たらその金と共に保護させろ。誓え。でなきゃ殺すぞ」
「はあ……はっ……」
「誓え」
閉じ込め続けた? 警察に保護させろ? 金を渡して? この男は何を考えているのだ。
弥央には最早まともな判断力は残っていなかった。恐怖で金縛りに遭い頷く事も出来ない。
そもそも竹内は先程の電話で、警察に十五年前の事件の自白と殺人予告をし、この家に来るように仕向けていたのだ。
一体、何故。
「……なんで……なんで」
「黙れ。お前にはわからん。ただひとつ理解すべき事は、命を犠牲にしても守るべきものがあるという事実だ。この世はそこまで腐ってない」
弥央の服にぽたりと一滴の血が降ってきた。
「……おとう……さ……」
その血は先程殺された父親のもの。
確かに、さっきまで生きて笑っていたのに。気が狂いそうになる。目の前で死んだ。父親は殺された。
「あ……ああ」
弥央は俯き涙を溢した。
「うぐうっ」
直後、弥央の上に覆い被さるようにして倒れてきた竹内。
突然目の前が暗くなり、弥央は戸惑う。
「な、に……?」
「頼んだからな……女……」
竹内の口の端からは赤い液体が流れていた。そして、それは腹部から大量に流れている。
どうやらその原因は、何故か竹内の腹を貫いている包丁だった。
まさか。自分で──。
やがて竹内は息を引き取った。
動けないのを確認する。呪縛から解け、静かに死体の下から這い出した。
目の前で二人死んだ。悲鳴をあげることもなく、父親の死体と自分の側に居る今まさに倒れこんだ死体を交互に見つめる。
「……腐ってる……」
ひゅう、と喉が鳴る。次第に弥央の体は小刻みに震え始め、遅れてやってきた恐怖を象徴していた。
「い……いやあーー!!」
叫ぶ声が途切れた後、座り込んだ彼女の耳に遠くからパトカーのサイレンが鳴り響いた。