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台風一過

作者: 九条タクト
掲載日:2026/06/25

強い風に煽られて、傘はほとんど意味を成していなかった。

横殴りの雨が頬を打つ。

髪も、コートも、靴の中まで、あっという間に水を含んで重くなる。

アパートの階段を駆け上がり、震える指で鍵を開けた。

部屋に入るなり、私はバッグを床に置いて、濡れた服を脱いだ。

そのまま浴室に入る。

雨と同じように、水に打たれる。

ただ、今度の水は温かかった。

シャワーを浴び終えても、体の奥に残った冷たさは消えなかった。

タオルで髪を拭きながら、私はテレビをつける。

画面の中では、天気予報士が明日の空を淡々と告げていた。

「台風は夜のうちに北北東へ抜け、朝には晴れ間が広がるでしょう」

ドライヤーの音を止める。

急に、部屋が静かになった。

その静けさの向こうで、窓にはさっきよりも強い雨と風がぶつかっている。

本当に、夜が明けたら晴れるんだろうか。

もし。

もしこの雨と風が明日、ウソみたいに晴れるのなら。

◇      ◇

約束をしたのは、三日前だった。

その時の台風は、まだ遠くの海の上にいて、週末の天気予報も曖昧だった。

「金曜、いつもの店で飯行ける?」

「相談したいことがあるんだけど」

その二行を見た時点で、私はもう少しだけ浮かれていた。

「いいよ。あと誰が来る?」

そう返したのは、たぶん確認じゃなかった。

期待していい理由が欲しかっただけだ。

「いや、今回は二人で」

その文字を、私は何度も読み返した。

周りから見れば、私たちはたぶん、ずっと仲のいい友達だった。

大学で知り合って、講義の空き時間に学食でだらだらしていた時も、飲み会の帰りに終電の時間を気にしていた時も、社会人になって同じ会社に入ってからも、部署は違うのに、あなたは当たり前みたいに私へ連絡をくれた。

「そっちの部署、会議長くなりそう?」

「駅前のコンビニのアレうまかったぞ」

「遅くなるなら気をつけろよ」

そんな何気ないメッセージを、私はそのたびに少しだけ大事にしていた。

一度、みんなで食事に行った時、同期に言われたことがある。

「二人って付き合ってないの?」

あなたはその時、笑って否定した。

「ないない。こいつはそういうんじゃないから」

その場では、私も笑った。

笑うしかなかった。

でもその夜、家に帰ってから、私はその言葉を何度も思い出した。

そういうんじゃない。

じゃあ、どういうんだろう。

その答えを、私はずっと自分に都合よく曖昧にしていた。

「本当に来たの?」

当日、いつもの店、いつもの席にいたあなたは、私を見るなり少し驚いた顔でそう言った。

「これから天気、悪くなるのに」

そう続けたあなたに、私は平気だよって笑った。

本当は、そんなことわかっていた。

台風が近づいていることも、夜には雨と風が強くなることも。

それでも、来た。

今日は、行きたかった。

今日じゃなきゃ、嫌だった。

店に入ると、カウンターの向こうから店員さんが顔を上げた。

「今日は二人なんですね」

何気ない一言だった。

でも私は、それだけで少し口元が緩みそうになった。

席に着くと、あなたはメニューも見ずに注文した。

「生姜焼きで。こいつは唐揚げ」

「勝手に決めないでよ」

そう言いながら、私は少しだけ嬉しかった。

私がこの店でだいたい何を頼むのか、あなたは覚えている。

そういう小さなことを、私はいつも勝手に拾ってしまう。

店員さんが笑って、水を置いた。

「相変わらずですね」

相変わらず。

その言葉にまで、私は意味を見つけようとしていた。

窓の外はまだ小雨だったけれど、ガラスの向こうの街灯が、少しずつ滲み始めている。

「じゃあ、話すか」

その声が、いつもより低く聞こえた。

グラスの水を指先で少しだけ揺らしている仕草も、緊張しているように見えた。

だから私は、また勝手に期待した。

やっぱり。

そういう話なんだ。

あなたはグラスの向こうを見たまま、少しだけ息を吐いた。

「俺さ」

心臓が、嫌なくらい大きく鳴った。

「その、好きなんだよ」

その瞬間、私は息を止めた。

ああ。

やっぱり。

そう思った。

思ってしまった。

でも、あなたが次に口にしたのは、私の名前じゃなかった。

同じ会社の、別の部署の子。

私も何度か話したことがある。

笑うと目が細くなる、感じのいい子。

「告白しようかと思ってるんだけど……どう?」

あなたはそう言って、少しだけ照れたように笑った。

その顔を、私は知っていた。

面白い話をする時とも、仕事の愚痴を言う時とも違う。

誰かを大事に思っている人の顔だった。

私に向けられたことのない顔だった。

鏡の前で何度も前髪を直したこと。

この雨の中でも会いに行く理由を、何度も自分に言い聞かせたこと。

「相談したいことがある」って言葉を、何度も読み返したこと。

「今回は二人で」って文字に、勝手に意味をつけたこと。

全部、私だけだった。

私だけが、勝手に期待して。

勝手に今日を特別な日にして。

勝手に、あなたも同じだと思っていた。

バカみたい。

「……いいじゃん」

声が少し遅れて出た。

「言いなよ。ちゃんと」

「でも、急に二人でって言ったら、警戒されない? 重いとか思われないかな」

「……されないよ、たぶん」

そう答えながら、私はテーブルの端を見ていた。

だって私は、された。

急に二人で、相談したいことがあるって言われて、勝手に期待した。

勝手に、今日をそういう日にした。

「そういうの、言わなきゃわかんないし」

言いながら、喉の奥が熱くなった。

言わなきゃわかんない。

本当にそうだ。

だったら私は、どうして今まで言わなかったんだろう。

「変に遠回しにしない方がいいよ」

「好きなら、好きって言えばいいと思う」

「たぶん、相手も嬉しいよ」

ひとつ言うたびに、自分の胸の内側を少しずつ削っているみたいだった。

その言葉を、私はずっとあなたに言ってほしかった。

私の名前を呼んで。

私の目を見て。

そうやって、まっすぐ。

それなのに私は今、あなたが別の誰かへ向かうための言葉を、一生懸命選んでいる。

本当に、何をしてるんだろう。

「やっぱ、直接言った方がいいよな」

あなたは少しだけ安心した顔で、グラスの水を飲んだ。

「うん。ちゃんと会って言った方がいいと思う」

さっきまで嬉しかった唐揚げは、いつもと同じ匂いがした。

箸でひとつ持ち上げて、口に入れる。

熱かった。

味は、よくわからなかった。

「お前に話してよかった」

あなたはそう言って笑った。

いつもと同じ笑い方だった。

私が何度も勝手に意味をつけてきた笑い方だった。

「なんか、お前だと楽なんだよな」

たぶんあなたにとって、それは褒め言葉だった。

でも私には、好きな人に選ばれないための理由みたいに聞こえた。

テレビの中で、台風の進路を示す白い線が北北東へ伸びていた。

店員さんが窓の外を見て、少し困ったように言う。

「雨、だいぶ強くなってきましたね。今日は早めに閉めるかもしれないです」

あなたは時計を見た。

「じゃあ、そろそろ出るか」

その声に、少しほっとした。

同時に、少しだけ寂しかった。

もう帰りたい。

でも、まだ帰りたくない。

そんなことを思っている自分が、また恥ずかしくなる。

◇      ◇

店を出るころには、雨はさっきよりずっと強くなっていた。

「送ってくよ」

あなたはいつもと同じ優しさでそう言った。

でも私は、首を振った。

「大丈夫。近いし、友達来てくれるから」

嘘だった。

近いからじゃない。

友達は来ない。

逃げたかった。

あなたが隣にいたら、

私はもう、あれ以上笑っていられなかった。

そこからは振り返らないで、まっすぐ帰ってきた。

強い雨と風なんてどうでもよくなるくらい、まっすぐ。

もしこの雨と風が明日、ウソみたいに晴れるのなら。

今日までのあなたへの想いも全部、

ウソみたいに消えてしまえばいいのに。

◇      ◇

翌朝、窓の外はウソみたいに晴れていた。

昨夜、あれだけ窓を叩いていた雨も風も、最初から何もなかったみたいに消えている。

アスファルトだけがまだ少し濡れていて、街路樹の葉から、遅れてきた雨粒がひとつ落ちた。

今日は休みだ。

外に出なくてもいい。

誰に会う約束もない。

それでも私は着替えて、髪を整えて、いつものバッグを手に取った。

玄関には、昨日使った傘がまだ開いたまま立てかけてある。

布地の端から、乾ききらない水滴がひとつ落ちた。

私はそれを少しだけ見てから、棚の上の折り畳み傘を取った。

こんなに晴れているのに、バッグの奥へしまう。

外は、嫌になるくらい晴れていて、嫌になるくらい暑かった。


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