台風一過
強い風に煽られて、傘はほとんど意味を成していなかった。
横殴りの雨が頬を打つ。
髪も、コートも、靴の中まで、あっという間に水を含んで重くなる。
アパートの階段を駆け上がり、震える指で鍵を開けた。
部屋に入るなり、私はバッグを床に置いて、濡れた服を脱いだ。
そのまま浴室に入る。
雨と同じように、水に打たれる。
ただ、今度の水は温かかった。
シャワーを浴び終えても、体の奥に残った冷たさは消えなかった。
タオルで髪を拭きながら、私はテレビをつける。
画面の中では、天気予報士が明日の空を淡々と告げていた。
「台風は夜のうちに北北東へ抜け、朝には晴れ間が広がるでしょう」
ドライヤーの音を止める。
急に、部屋が静かになった。
その静けさの向こうで、窓にはさっきよりも強い雨と風がぶつかっている。
本当に、夜が明けたら晴れるんだろうか。
もし。
もしこの雨と風が明日、ウソみたいに晴れるのなら。
◇ ◇
約束をしたのは、三日前だった。
その時の台風は、まだ遠くの海の上にいて、週末の天気予報も曖昧だった。
「金曜、いつもの店で飯行ける?」
「相談したいことがあるんだけど」
その二行を見た時点で、私はもう少しだけ浮かれていた。
「いいよ。あと誰が来る?」
そう返したのは、たぶん確認じゃなかった。
期待していい理由が欲しかっただけだ。
「いや、今回は二人で」
その文字を、私は何度も読み返した。
周りから見れば、私たちはたぶん、ずっと仲のいい友達だった。
大学で知り合って、講義の空き時間に学食でだらだらしていた時も、飲み会の帰りに終電の時間を気にしていた時も、社会人になって同じ会社に入ってからも、部署は違うのに、あなたは当たり前みたいに私へ連絡をくれた。
「そっちの部署、会議長くなりそう?」
「駅前のコンビニのアレうまかったぞ」
「遅くなるなら気をつけろよ」
そんな何気ないメッセージを、私はそのたびに少しだけ大事にしていた。
一度、みんなで食事に行った時、同期に言われたことがある。
「二人って付き合ってないの?」
あなたはその時、笑って否定した。
「ないない。こいつはそういうんじゃないから」
その場では、私も笑った。
笑うしかなかった。
でもその夜、家に帰ってから、私はその言葉を何度も思い出した。
そういうんじゃない。
じゃあ、どういうんだろう。
その答えを、私はずっと自分に都合よく曖昧にしていた。
「本当に来たの?」
当日、いつもの店、いつもの席にいたあなたは、私を見るなり少し驚いた顔でそう言った。
「これから天気、悪くなるのに」
そう続けたあなたに、私は平気だよって笑った。
本当は、そんなことわかっていた。
台風が近づいていることも、夜には雨と風が強くなることも。
それでも、来た。
今日は、行きたかった。
今日じゃなきゃ、嫌だった。
店に入ると、カウンターの向こうから店員さんが顔を上げた。
「今日は二人なんですね」
何気ない一言だった。
でも私は、それだけで少し口元が緩みそうになった。
席に着くと、あなたはメニューも見ずに注文した。
「生姜焼きで。こいつは唐揚げ」
「勝手に決めないでよ」
そう言いながら、私は少しだけ嬉しかった。
私がこの店でだいたい何を頼むのか、あなたは覚えている。
そういう小さなことを、私はいつも勝手に拾ってしまう。
店員さんが笑って、水を置いた。
「相変わらずですね」
相変わらず。
その言葉にまで、私は意味を見つけようとしていた。
窓の外はまだ小雨だったけれど、ガラスの向こうの街灯が、少しずつ滲み始めている。
「じゃあ、話すか」
その声が、いつもより低く聞こえた。
グラスの水を指先で少しだけ揺らしている仕草も、緊張しているように見えた。
だから私は、また勝手に期待した。
やっぱり。
そういう話なんだ。
あなたはグラスの向こうを見たまま、少しだけ息を吐いた。
「俺さ」
心臓が、嫌なくらい大きく鳴った。
「その、好きなんだよ」
その瞬間、私は息を止めた。
ああ。
やっぱり。
そう思った。
思ってしまった。
でも、あなたが次に口にしたのは、私の名前じゃなかった。
同じ会社の、別の部署の子。
私も何度か話したことがある。
笑うと目が細くなる、感じのいい子。
「告白しようかと思ってるんだけど……どう?」
あなたはそう言って、少しだけ照れたように笑った。
その顔を、私は知っていた。
面白い話をする時とも、仕事の愚痴を言う時とも違う。
誰かを大事に思っている人の顔だった。
私に向けられたことのない顔だった。
鏡の前で何度も前髪を直したこと。
この雨の中でも会いに行く理由を、何度も自分に言い聞かせたこと。
「相談したいことがある」って言葉を、何度も読み返したこと。
「今回は二人で」って文字に、勝手に意味をつけたこと。
全部、私だけだった。
私だけが、勝手に期待して。
勝手に今日を特別な日にして。
勝手に、あなたも同じだと思っていた。
バカみたい。
「……いいじゃん」
声が少し遅れて出た。
「言いなよ。ちゃんと」
「でも、急に二人でって言ったら、警戒されない? 重いとか思われないかな」
「……されないよ、たぶん」
そう答えながら、私はテーブルの端を見ていた。
だって私は、された。
急に二人で、相談したいことがあるって言われて、勝手に期待した。
勝手に、今日をそういう日にした。
「そういうの、言わなきゃわかんないし」
言いながら、喉の奥が熱くなった。
言わなきゃわかんない。
本当にそうだ。
だったら私は、どうして今まで言わなかったんだろう。
「変に遠回しにしない方がいいよ」
「好きなら、好きって言えばいいと思う」
「たぶん、相手も嬉しいよ」
ひとつ言うたびに、自分の胸の内側を少しずつ削っているみたいだった。
その言葉を、私はずっとあなたに言ってほしかった。
私の名前を呼んで。
私の目を見て。
そうやって、まっすぐ。
それなのに私は今、あなたが別の誰かへ向かうための言葉を、一生懸命選んでいる。
本当に、何をしてるんだろう。
「やっぱ、直接言った方がいいよな」
あなたは少しだけ安心した顔で、グラスの水を飲んだ。
「うん。ちゃんと会って言った方がいいと思う」
さっきまで嬉しかった唐揚げは、いつもと同じ匂いがした。
箸でひとつ持ち上げて、口に入れる。
熱かった。
味は、よくわからなかった。
「お前に話してよかった」
あなたはそう言って笑った。
いつもと同じ笑い方だった。
私が何度も勝手に意味をつけてきた笑い方だった。
「なんか、お前だと楽なんだよな」
たぶんあなたにとって、それは褒め言葉だった。
でも私には、好きな人に選ばれないための理由みたいに聞こえた。
テレビの中で、台風の進路を示す白い線が北北東へ伸びていた。
店員さんが窓の外を見て、少し困ったように言う。
「雨、だいぶ強くなってきましたね。今日は早めに閉めるかもしれないです」
あなたは時計を見た。
「じゃあ、そろそろ出るか」
その声に、少しほっとした。
同時に、少しだけ寂しかった。
もう帰りたい。
でも、まだ帰りたくない。
そんなことを思っている自分が、また恥ずかしくなる。
◇ ◇
店を出るころには、雨はさっきよりずっと強くなっていた。
「送ってくよ」
あなたはいつもと同じ優しさでそう言った。
でも私は、首を振った。
「大丈夫。近いし、友達来てくれるから」
嘘だった。
近いからじゃない。
友達は来ない。
逃げたかった。
あなたが隣にいたら、
私はもう、あれ以上笑っていられなかった。
そこからは振り返らないで、まっすぐ帰ってきた。
強い雨と風なんてどうでもよくなるくらい、まっすぐ。
もしこの雨と風が明日、ウソみたいに晴れるのなら。
今日までのあなたへの想いも全部、
ウソみたいに消えてしまえばいいのに。
◇ ◇
翌朝、窓の外はウソみたいに晴れていた。
昨夜、あれだけ窓を叩いていた雨も風も、最初から何もなかったみたいに消えている。
アスファルトだけがまだ少し濡れていて、街路樹の葉から、遅れてきた雨粒がひとつ落ちた。
今日は休みだ。
外に出なくてもいい。
誰に会う約束もない。
それでも私は着替えて、髪を整えて、いつものバッグを手に取った。
玄関には、昨日使った傘がまだ開いたまま立てかけてある。
布地の端から、乾ききらない水滴がひとつ落ちた。
私はそれを少しだけ見てから、棚の上の折り畳み傘を取った。
こんなに晴れているのに、バッグの奥へしまう。
外は、嫌になるくらい晴れていて、嫌になるくらい暑かった。




