白き爪痕
雨が降っていた。
冷たい雨だった。
春が来る前の、まだ冬の匂いが残る雨。
鴨川の水は暗く濁り、静かに流れている。
その河川敷。
橋の下に、少女が座っていた。
膝を抱えて。
濡れたコンクリートの上で。
白瀬かのん。
その時、まだ「白瀬」という名前はなかった。
空腹だった。
寒かった。
でも、それよりも。
何も感じなくなっていた。
両親は死んだ。
借金取りが来た。
家はなくなった。
親戚も、知り合いもいなかった。
だから。
ここにいる。
それだけだった。
雨が強くなる。
鴨川の水が黒く揺れる。
その時だった。
橋の向こうで、何かが動いた。
黒い影。
煙のような。
もやのような影。
その中に。
白い穴が二つ。
目。
神禍だった。
影は、ゆっくりと近づいてくる。
普通なら。
神禍は人を見つけても、ここまで真っ直ぐには来ない。
けれど。
その影は、迷いなくかのんへ向かっていた。
まるで。
最初から、そこにいると分かっていたかのように。
かのんは動かなかった。
逃げる気力もなかった。
ただぼんやりと考えた。
ああ。
終わるんだ。
神禍の影が伸びる。
黒いもやの腕が、かのんへ伸びる。
その瞬間。
乾いた銃声が夜を裂いた。
パンッ。
黒い影の胸が弾ける。
白い目が歪む。
続けてもう一発。
パンッ。
影は煙のように崩れた。
まるで最初から存在しなかったみたいに。
静かに消えた。
かのんはゆっくり顔を上げた。
そこに男が立っていた。
若白髪。
雨に濡れた髪が、淡く光っている。
長身。
細身。
黒いコートの下の身体は無駄がない。
両手には拳銃。
二丁拳銃。
そして。
驚くほど穏やかな顔立ち。
優しい目をした男だった。
白瀧和一だった。
白瀧は銃を下ろし、少女を見る。
びしょ濡れの身体。
痩せた肩。
震える手。
その時。
白瀧は、ほんの一瞬だけ違和感を覚えた。
この場所。
この空気。
何かが、少しだけおかしい。
そして。
神禍が現れた位置。
橋の下。
鴨川。
その場所を見たとき。
水面に何かが映った気がした。
白い影。
一瞬。
水の中で、何か大きな影が揺れた。
虎のような。
そんな気がした。
けれど。
次の瞬間には、もう消えていた。
白瀧は少し首を傾げた。
雨のせいだろう。
そう思うことにした。
そして少女を見る。
「……うーん」
静かな声だった。
「ここにいたら、また神禍が来る」
かのんは何も言わない。
ただ見ている。
白瀧は少し困ったように笑った。
「行く場所、ある?」
かのんは首を振った。
ゆっくり。
白瀧は空を見上げた。
雨はまだ降り続いている。
鴨川の水音だけが聞こえる。
「そうか」
少し考える。
それから言った。
「じゃあ」
「うちに来る?」
かのんは少し目を瞬かせた。
「……いいの」
小さな声だった。
白瀧は肩をすくめる。
「いいよ」
「ちょうど人手も足りないし」
かのんはしばらく黙っていた。
それから、小さく言った。
「……いいんですかね、」
自信のない声。
白瀧はその声を聞いて、少しだけ笑った。
「名前は?」
かのんは考える。
でも。
出てこない。
白瀧は川の方を見る。
鴨川。
その河川敷。
橋の下。
そして言った。
「じゃあ」
「白瀬、かな」
かのんが顔を上げる。
「白瀬?」
「うん」
白瀧は頷いた。
「川のそばで拾ったから」
かのんは小さく笑った。
「……変なの」
「そう?」
「うん」
少し間があって。
少女は言った。
「白瀬かのん」
白瀧は少し驚いた。
「下の名前はあるんだ」
かのんは頷いた。
「昔は」
「呼ばれてたから」
白瀧はそれ以上聞かなかった。
そして言う。
「じゃあ」
「白瀬かのん」
「今日から君は」
「神選組だ」
かのんは目を瞬かせる。
神選組。
その意味はまだわからない。
でも。
その時。
鴨川の水面が、もう一度だけ揺れた。
まるで。
何かが、静かに見守っているように。




