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六話 天使との盟約


夜の闇に乗じて三階建ての建物と同じ背丈の木によじ登り、学校の塀を飛び越える。足の裏から伝わる痺れが、つむじまで駆け抜けていった。


「どうすればいい……」


現状考えるべきは何処に逃げればいいかだ。自転車は駐輪場に置いてきている。であれば、そう遠くまで逃げることはできない。それに僕はそれほど体力がある訳でもない。陸上部の連中のように短時間で十何キロも走ることはまず不可能だ。

となれば、何処かへと身を隠すしかないわけだが。


「何処に行けばいいんだよ……」


ズボンのポケットの中から使い古したスマホを取り出す。見慣れた液晶画面は先程窓ガラスを突き破って入校したせいか、バキバキに罅割れていた。壊れていな事を願いながら電源ボタンを押してみれば、妹からの着信履歴が三件ほど残っている。

心配しているだろうか。しているだろうな。しててほしいな。


「やっぱり警察に通報するか?」


信じてもらえるかは分からない。でも、実際にこうして命の危機に瀕しているのならば、頼るべきはやはり秩序の安寧を保つ行政機関。だが、ここで通報してはいづれ見つかる。やはり何処かに身を隠して、警察の人が来るのを待った方がいいか。


「近くに何処かあったか?」


未だ混乱は収まらず。何処へ逃げていいのか分からないまま、痛みを訴える身体に鞭を打ち、ここではない何処かを目指して歩き出す。

一瞬、人がいる場所ならば安全かとも思ったが、もしあの連中が目撃者全員殺せば問題ないなんて考えるような倫理を足蹴にする輩ならば、なるべく人の居る場所は避けた方がいい。

誰かの死に心を病むような精神はしていない。それこそどこどこの国でこれだけの人が死にましたというニュースを見たり聞いたとしても、そんな事があったんだ程度で終わる。

だが、その死の原因が僕ならば話は別だ。僕はその罪悪感と今後一生付き合っていかねばいけなくなる。そんなの僕の精神状況からしてよろしくない。


「一先ずこっちに行くか」


路地裏へと入り込んで、壁伝いに歩いていく。

窮屈な空間の中、高い壁が両端に迫り建物の影が不気味な夜の月明かりを遮ってくれている。これならば人影を見られる心配もない。


「いってぇ」


人間の身体というのは不思議なもので一先ず逃げ出せたことに安堵した途端、思い出したかのように全身がズキズキと痛みを訴え始めた。もしかしたら何処かの骨に罅が入っているのかもしれない。

痛みを堪えながら、曲がり角をゆっくりと曲がっていくと視界の奥で何か黒い影が蠢いたかのような気がした。


「うん?」


一瞬、あの化け物が僕に追いついたのかとも思ったが視界の先に広がるのは、相も変わらず不潔な路地裏だ。ただ、先程までガラクタの山の影になって見えなかったのか、それとも僕の瞳がこの闇に適応し始めたのか。ガラクタの山の背後に錆びかけた自転車が置かれていることに気が付いた。


「さっきまであったっけ」


まぁいい。軽く見た感じ、鍵もついていないし、タイヤも若干空気は抜けているが運転するのに支障はない。錆ついたフレームが少し心配ではあるが、この程度であれば乗ることが出来るはずだ。


「ちょっと借ります」


自転車のサドルに跨り、きしむペダルを漕ぐと錆ついた車輪は甲高い音を上げながら回り始める。よし、これがあれば、移動距離は大分伸びる。


「さて、何処に行くか」


自転車を漕ぎながら、ぽつりと呟く。

今のところ目途なんてものは立っていない。立っている人間がいるならば教えて欲しい位だ。

一学生の知っている場所なんて限られている。人の多い歓楽街なんて行けるはずもないし、住宅地なんてもっての外。かといってこのまま家に帰る訳にもいかない。ガラスまみれの血まみれだ。出来れば、病院に行きたい。まぁ、そんな時間があるわけないのだけれど。

細い路地を抜け、太い道路へと出た。左手に見慣れた河川があり、街灯の真下には夜のデートを楽しんでいるのであろう一組のカップルの姿が見えた。


「お幸せなこって」


僕がこんな目に合っているというのに、くそったれ。

まぁそう一人ごちた所で、これは持たざる者の妬みでしかない。隣の芝生は青く見えるもの。だが無関係な人を巻き込むのも本意ではない。


「何処まで行けば安全だ?」


夜風が傷で火照った身体を覚ましていく。橋を渡って、階段を下っていき、遊歩道から端にそれる。地主はいるが、管理人はいない竹林を通り抜ければそこにはだだっ広い田んぼだけが広がる田舎の光景。田んぼのわきを通るコンクリートで舗装された罅割れた道路の上を自転車で走り抜ける。街灯が等間隔に田んぼを照らしてはいるが、その光も十分ではない。世界は不気味な暗い群青色に染まっていた。


「あぁくっそ、脇腹いてぇ」


こんなに長時間の運動をするのは中学生ぶりだ。高校生になってからは完全なる帰宅部だ。中学までの僕ならばこの程度の運動、序の口だったというのに。身体が悲鳴をあげている。というか全身が痛い。


「帰れたら運動しよう」


あぁそうだそうしよう。体力は増やしておいて損はないんだ。年を取ってから運動をするのは遅いというし、若いうちに基礎体力を付けておいて損はない。それに明日は病院に行くんだ。絶対に。


「うぉっ!?」


静寂は突如として破られた。田んぼの中から一匹の黒い影が突進し、僕の目の前を横切った。その勢いに妨害されるように自転車の後輪ブレーキを強く握りしめた。制御を失った自転車は草の茂みにのみ込まれるように倒れ込む。ばしゃんと勢いよく水が跳ね、地面の上に映る夜空の上に波紋を広げた。

からからと虚しく回転するタイヤ。自転車のライトが田んぼの中へと倒れ込んだ僕を映し出した。


「ってぇ……」


水を吸った衣服が気持ち悪い。新たに増えた生傷がズキズキと痛む。その痛みに顔を歪ませながらも、僕はむくりと起き上がると自身を見下ろしている黒い影。一匹の黒い犬の姿を見た。


「……犬?」


いくら田舎であったとしても野犬がうろつく程の田舎では無いはずだ。それにこの犬何かを食って……?


「いっ―――――っっっ!?!?」


脇腹に何かが食い込んだような激痛と熱が脳天を貫いた。苦痛の矢が身体を貫き、一瞬のうち呼吸は止まる。痛みは次第に増幅し、体中に広がる灼熱のような感覚が全身を襲う。痛みの元凶、脇腹を抑えてみればそこにはあるべきはずの肉が無かった。食いこまない筈の掌が窪みに食い込み、流れ続ける血が掌の隙間から零れ落ちていく。


「この犬、僕の腹をっ」


喰いやがったなっ!?


「ガァゥッ!」


勢いそのままに再度、犬は僕の肩に食らいついてきた。痛みで痺れる身体では逃げることも出来ず、僕は再び地面に押し倒された。そして今度は肩の肉を食いちぎらんと顎に力を籠めているようだ。

まるで獲物は逃がさないとでも言うかのように。


「よーし、よくやったハウンド」


そして聞こえてきたのは、もう二度と聞きたくなかった聞き覚えのある男の声。田んぼの中で必死の抵抗をしている僕の姿を嘲るかのように、道路の上から僕を見下ろす男の姿。

食い込んだ犬歯が、男の言葉を受けより肉を引き裂き深く肩へと食い込んだ。


「あっ…がっ…!?」


「こんな人の居ない場所に逃げてくれて感謝するぞ、ガキ。ここなら人払いをする必要もない。誰か来れば分かるしな。おいグール」


男がそう指示を出せば、男の傍に控えていた巨体の化け物が僕の頭を掴んで持ち上げた。ミシミシと自身の頭蓋骨から嫌な音が聞こえる。


「さて、こちらとしても時間が惜しいんでな。ガキ、お前は何をどこまで知っている。なぜグールが見えている」


「知る、っか。こっちが聞きたい…っ」


男が僕の何を聞きたいのか、僕自身が皆目見当もついていないんだ。何も知らない僕に答えを求めたところで、望む言葉が返されると思うなよ!


「あくまでしらを切るつもりか。ならば仕方ない。探求術は不得意なんだがな」


そう呟いた男は僕の額へと指先を突きつけた。額に波紋が広がる。何が何だか訳が……。


「がぁっ!?!?」


その瞬間、指先から何かが僕の中へと入り込んできた。熱湯のような煮え滾る何かが僕の肉片を溶かしていくような痛みを伴って、僕の中に侵入してくる。


「お前の記憶、覗かせてもらうぞ」


視界が反転する。脳髄が激熱 を伴ったかのようだった。まるで脳味噌を直に掻き混ぜられるかのような不快感と痛みの奔流に僕は思わず目を剥いた。身体が揺れる。頭が揺れる。脳が揺れる。唇の端から泡がこぼれた。


「ゴミのような記憶しかないな。もう少し、深層に入って―――」


麻酔をかけられないまま脳味噌に電極を突き刺されたかのような電流が走る。瞳の奥。眼窩へと釘を突き刺し掻き混ぜられている。暑いのか寒いのか、もう何も分からなかった。


「うん?これは……っ!?」


そして唐突に男の体が仰け反った。痛みから解放された僕の全身がだらりと脱力する。失いそうになるほどの意識の中、僕の精神はかろうじて意識を肉体へと引き留めていた。


「……弾かれた?この俺が?」


困惑するような男の言葉が聞こえる。まるで自身に降りかかった現実を疑っているようだ。


「お前は一体何なんだ。碌な精神保護もしていないにも関わらずこの俺の探求術を途中で跳ね除けた。お前は本当に何なんだ?」


「そん、な事、僕が知りたいっ!」


「……少しばかりお前に興味が湧いた。このままお前を連れて帰ろう。簡略化された魔術では駄目だ。今度はより深層までの記憶を開示しよう」


魔術だとかそういった非現実的な言葉すらもどうでもよかった。

絶望が脳髄を焦がす。このままではこの誰ともわからない男に連れていかれる。その先で何が起こるのか。僕の凡百な脳味噌では想像すらできない。

だがそんな未来、誰が受け入れられるというのだろうか。


「ふざ、けんなっ!」


「っ!?小癪な真似をっ……」


固く握りしめていた拳を解き、隠し持っていた田んぼの中の土を男の目へと目掛け放り投げる。男の視界を奪う事に成功したその一瞬のスキをついて、グールと呼ばれた化け物の拘束から死に物狂いで逃れた。

痛む体を無理矢理にでも動かし、夜の闇を駆ける。腹部の出血は止まらない。アスファルトの道路の上に、赤黒い液体が斑模様を作り上げた。

このままでは死ぬかもしれない。だが足を止めるつもりはない。諦めればその瞬間に生存する可能性は零になる。だが、最後の最後まで足掻けば生き残る可能性が僅かにでも見出せるのかもしれない。

走りに走った。これがもし体力測定ならば、自己新記録を塗り替えているのではないかと思うほどに走った。


「いっ!?」


足に激痛が走る。見れば右足の脹脛に楕円形の小さな穴が開いていた。

地面を踏みしめる足を失った僕は道路の上に倒れ込む。どくどくと新たに空いた体の虚空からは赤い血液が流れ始めていた。


「こうも生に執着する人間は久しぶりだ、捕えろ、グール。半殺し程度ならば構わん」


二メートルを越す巨体が跳躍する。化け物の影が僕を覆いつくした。

僕は咄嗟に上半身を捻って、路駐されていた車の下へと逃げ込んだ。だが化け物の剛腕は、僕の抵抗すらも無駄だと言わんばかりにその剛腕でもって、車を玩具かのように薙ぎ払った。


「化け物めっ」


世界がスローモーションに見えた。既に意識は目の前の化け物の鉤づめへと集約している。ゆったりと、ゆっくりとした時間の中で化け物の鉤づめが僕の体目掛け近づいてくる。

抵抗手段はもうない。僕にできることはもう何もない。痛いのは嫌だななんていう考えが、どこか他人事のように僕は自分を俯瞰していた。

吐いた息が鉄のように重たい気がした。筋肉は硬直している。意識と肉体は乖離し、体はこれから訪れる激痛に耐える準備をしていた。

化け物の鉤づめが僕へと迫る。白銀に輝く爪がまるで死神の鎌のようだった。


「あぁ……」


走馬灯はなかった。それだけの思い出が僕には無いという事なのだろう。

その事実が少しだけ寂しく感じた。

瞳を閉じ、訪れる痛みに備える。


「死にたく、ないな」


そう心の底からの心情を吐露した瞬間―――


ガキンッという音が鳴り響いた。


「召喚、いや解放術式かっ!?」


「えっ?」


閉じていた瞼を開く。驚愕する男の声が聞こえたような気がした。だがそんな事はすぐに忘却され、意識の彼方へと追いやられる。


それは街灯に照らされ、天使はこの世界の祝福を受けていた。

罅割れたアスファルトの上、突如として現れたその乱入者はまるで舞台の女優のようにスポットライトを全身に浴びていた。

風が吹き、白銀の髪が嫋やかに靡いた。暗闇に居てもなお輝く赤い瞳は紅玉よりも美しい。腰から伸びる純黒の翼は、夜の闇をも切り裂きその存在感を際立たせている。

何故かは分からない。分からないがその美貌は天使と例えるに相応しい物であった。

その少女はただただ、美しかった。


「何なんだよ、次から次へとっ」


今日は厄日か。いやそうに違いない。一日で許容できるだけの範疇を超えた事象が起きすぎている。

ちらりと前方を見てみれば、突然の乱入者を警戒してかあの化け物は爪を収め、こちらの行動を伺っていた。

少女が大きく翼を広げる。それだけで先程まであぁも恐ろしかった化け物はただの生き物のように大きく飛びのく。


「ねぇ、そこの死にゆく貴方」


鈴の音のような声が静寂を打ち破った。


「助かりたい?」


天使は僕を嘲笑う。考える時間はない。

状況は依然として変わらず、より混沌と化している。

混乱しきった頭では何も分かるはずもなく、答えの出ない哲学に答えを見出せと言われているかのようであった。

それに、もうこれ以上僕は何も考えたくなかった。

自然と口は動き、僕は言葉を返す。


()()()()()()っ―――!!!!」


天使(あくま)は振り返る。悪戯っ子のような微笑を携えながら。

無邪気に邪悪に微笑む存在は、まさしく人ではない。


「えぇ、もちろん♪」


天使は笑った。楽しそうに、愛らしく、そして何よりも残酷に。

己の背丈よりも巨大な翼を広げて、天使は羽ばたき僕らを見下ろす。

月光を背に受けたその姿は化け物と呼ぶに相応しい。


「さぁ、死した今日から君は私の物だ」


そうして、悪魔は俺から何かを奪った。雲の切れ目から月光が差し込み、悪魔の掌の上で踊るのは拳大ほどの心臓だった。

直感的に理解する。あれは僕自身の心臓だと。

悪魔はまるで生肉にかぶりつくかのように、僕の心臓へと歯を突き立てた。痛みはなかった。それどころか心臓が抜かれているというのに、僕自身の身には何もない。

無傷で心臓を抜き取るという行為からして、人の身である僕に理解できるはずもなかった。

ずるりと、悪魔が僕の心臓を飲み込む。食道を通り、胃へと落ちて行く己の心臓。それを僕は第三者的な目線で眺めていた。

喪失感はない。ただ目の前の光景を呆然と眺めているだけだ。


「わけわかんねぇ」


人智を超えた超常現象という現実から目を背けるかのように、僕は瞼を下ろした。

何故かは分からない。だがようやくこの化け物達から 解放されるのだという安堵がただ僕の胸中を満たしたのだった。

そうして僕の意識は暗転する。



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