五話 未知との遭遇2
「は……っ!?」
鯉池の真上に立っているソレは、二足歩行ので化け物であった。だらりと垂れ下がる両腕は僕の胴体よりも太く、鯉池の中へと沈んでいた。猫背であるにも関わらず、その背丈は優に二メートルを超え、僕の背丈なぞソレの胸辺りまでしか届かない。赤黒い肌の下ははちきれんばかりの筋肉で膨張しており、その体表には黒い血管が幾重にも絡み付き、目の前のソレが発しているのか辺りには生臭い腐臭のような物が漂っていた。
思わず声の出そうになった僕の口を咄嗟に右手で塞ぎ、喧しいほどに鳴り響く鼓動を少しでも抑えようと胸に手を当てた。
心臓の鼓動が聞こえるほどに脈を打っている。全身へと凄まじい速度で流れ始めたかと思うほどの血液は熱を持ち、本能的に思考を加速させた。
(な、何だよあれはっ!?)
立ち去らなければ。一刻も早くこの場所から逃げ出さなければ。僕の中の生存本能がけたたましく警鐘を鳴らし続けている。しかし、そう思えば思うほどに身体も足も言う事を聞かなかった。まるで影を地面に縫い付けられているかのように。
「ったく、この大喰らいが」
そんな僕の鼓膜を震わせたのは、化け物の唸り声ではなく人間のソレであった。低くしゃがれた男の声は、呆れているかのように目の前の化け物へと向けられていた。その声からは驚きも恐怖心も感じ取れず、只淡々と目の前の化け物を咎めるかのような物言いであった。
ばれませんようにと信じてもいない都合の良い神にそう祈りながら、恐る恐ると建物の影から鯉池の様子を伺えば、池の周りには化け物以外にも、一人の人間が立っていた。
あぁ、人間だ。僕と同じく二足歩行で歩き僕と同じように衣服を纏い、僕と同じように人間の言語を話している。少しばかりの安堵ののち、男の頭上で漂うソレを目撃し、僕は再び強い混乱に襲われた。
―――ソレの頭上に光輪が浮いているのを除いて、ソレは人間の形をしていた。
(わ、訳が分からないっ!?)
一見すれば天使の輪のようなそれは月光とはまた別に薄く発光していた。しかし、天使の輪というには余りにも異様であり、左右非対称でありながらも所々が欠けていた光輪は不気味の一言であった。
「こんだけ食って、まだ満足しねぇとかどんな胃袋してんだ、てめぇは」
目の前の化け物に男はそう語りかける。対して、化け物はどこか不服そうに唸り声をあげたかと思うと池の中で泳いでいた鯉を鷲掴みにし、そのまま大口の中へと放り込んだ。化け物は丸ごと飲み込むかのように、バリバリと鯉を骨ごと噛み砕いていく。
その光景はまさに異様であり、異常。目の前の光景は僕の理解の範疇を超えていた。猛獣が横切るのを待つ小動物かのように震えて息を潜め、風に乗って聞こえてくる男の言葉を少しでも記憶する為耳を研ぎ澄ました。
この訳の分からない状況を、この理解の範疇を超す現実を理解するために少しでも多く情報が欲しい。
脳内に溢れかえる疑問の数々は、今しばらく整理がつきそうにない。
しかしそれでも男から発される言葉の数々を聞き逃すまいと、僕はただ息を殺し続けた。
そして次に男が発した言葉に僕は更に困惑することとなる。
「いや、そんだけあいつらから喰らった傷が深かったって事か。くそ、今度あったらタダじゃおかねぇ」
頭上に光輪を浮かばせた男は舌打ちと共に地面に転がっている意思を蹴り上げた。意思は地面の上を数度跳ねながら、池へと落ち水面に小さな波紋を創り出した。
その小石に反応するかのように、今まで身をかがめていた化け物が上半身をゆっくりと起こす。
化け物には片腕が無かった。まるで鋭利な刃物で切り落とされたかのように化け物の腕の断面は滑らかでそこから滴り落ちる血は池の水と混ざりあい、赤く染め上げている。
鋭利な刃物か何かで根菜を切り落としたかのような傷だ。あの化け物をあぁも害する外敵がまだ何処かにいるのか。信じられない。
「ちっ、小動物じゃ再生速度が遅すぎるな。そろそろ人間にも手を出すか?」
(っ!?)
男の言葉に僕は思わず息を飲む。
小動物では再生速度が遅すぎる?一か月前から度々起きていた小動物の失踪事件は、目の前の化け物達が関わっていた?なら何であの化け物の存在は誰にも知られていない?人間に手を出すと目の前の男は言っていたが、あぁ駄目だ。思考が定まらない。思考回路がぐちゃぐちゃに交じり合った紐になったみたいだ。
早く、早く誰かに伝えなければ。
逃げろ?助けて?言葉の意味合いなんてどうでもいい。ただ、この脅威を誰かに分かち合い、自分以外の誰かに目の前の化け物の対処をして欲しかった。
(でも、誰に?)
110番をした所で信じてくれるかどうかも怪しい。通話越しに化け物の実在を示せる証拠が無ければ、十中八九、いたずら電話と思われるのがオチだろう。そして何より、今の僕には他人に通じる会話ができる自信がなかった。今、僕の目の前にいるのは常識から逸脱した怪物だ。
この静まり帰った状況下、どのような行動が正解なのか分からない。あの怪物がどのような認識範囲を有しているのか。漣から貸してもらったことのある漫画ではあのような生命体は大抵、人間の知覚能力を超えた性能を有していた。
通報でもしようものならば眼前の化け物に気づかれるかもしれない。それだけは何としてでも避けなければならない。今の僕にできるのはこの現実をしっかりと脳に刻み込み、一瞬でも早く目の前の化け物達が何処かに立ち去ることを祈り続けるだけだ。
(大丈夫、落ち着け……大丈夫……)
連中はまだ僕には気づいていない。であるならば、このままここでこうして路端の石のように息を潜めていればいづれあの化け物達は何処かへと立ち去ってくれるだろう。
その先で赤の他人が襲われようと、僕には一切関係ない。僕以外の誰かが犠牲になっている隙に、僕は家族だけでもこの悪夢のような町から逃がさなければならない。
(早く、早く何処かへ行けっ!!)
―――しかし、そんな僕の利己的な願いを神は嘲笑った。
プルルルル
「「っ!?」」
ズボンのポケットの中で震えるスマホ。それは今まさにこの状況を逃れようとした瞬間に訪れた。
突如、着信を知らせるスマホに僕と光輪の男。そして化け物の注意が僕へと向く。しまったとそう思った頃には既に遅い。
「よりによって……っ」
己の運の悪さは知っていたが、嘆いている暇も誰かからの着信か気にしている時間もない。僕の全神経は数秒でも自身の生存時間を稼ぐことへと向けられた。
腹をくくれ。諦観しろ。冷静になれだなんて言わない。でも本質を読み解け。
「すみませんでした、お仕事の邪魔をしてしまって」
居場所がばれてしまった以上、隠れていても無駄だ。平静を装いつつ、僕は木の陰から姿を見せた。
目の前の男は人語を介していた。それも僕の分かる言語、日本語で。つまり話の通じない化け物じゃない。
「お前、何でここにいる?」
光輪を浮かばせた男が警戒色を見せた。怪訝そうな声音は僕をどう料理しようかと考えているかのようでもあった。
ぺろりと震える唇を舌で濡らし、思い通りに舌を回せるように僕は震える口で空気を吸った。目の前の男が自身の思考を終着させる前に、言葉でもってその思考を妨げろ。言葉が通じるならば、まだ望みはある。
今の僕の目的は唯一つ。この場から逃げ去る事だ。
「えっと、帰る前に一応伝えておいた方がいいかなって思いまして。残りの警備の人って何処にいるんだろうって思って探してたんですよ」
「探してた?何でだ」
「えっと警備の人ですよね。僕は忘れ物を取りに来たんですけれど、ほら監視カメラには映っちゃってるじゃないですか。だから、もしも不審者と勘違いされたらお仕事増やしちゃうなぁって思って。他の警備の人から、後二人居るよって聞いてたので。帰る前に監視カメラに映っているのは僕だって伝えておこうかと」
我ながら酷い言い訳だ。大根役者にも劣る三文芝居。でも少しでもそうなのかもしれないと思わせることが出来るのならば、希望の光が見出せる。
だが、一度でも化け物に視線を向けたらその希望すら泡沫に消えると思え。やつに視線を向けるな。僕があいつを見えていないと思わせろ。
犯罪をしているという自覚のある人間は、皆他者の視線を嫌う者。人の目が増えるような行動は避ける筈。それこそ、こんな夜更けにこそこそしているという事は目立ちたくない理由がある筈だ。だが、男は僕がこうして姿を見せたとしてもあの化け物を隠そうとする仕草も見せない。ならば、そうしていい理由があるはずだ。隠さなくてもいい理由が。
「お仕事を増やしてしまったら、申し訳ないですし」
この判断が最善だなんて今の僕では知りえない。理屈なんか分かるものか。でも僕の考えが合っていれば、こうすることが最適解。
いいやそうであってくれ。そうでなければ僕の惨めで無様な大根演技は何の意味もなさない。
「他の警備の人にはもう伝えてあるので、後一人だと思って探してたんですよ。という事で、監視カメラに映っているのは僕ですから、大丈夫だと伝えておきたかったんですよ」
騙されろ騙されろ騙されろ騙されろっ。
気まずそうな苦笑を浮かべた態度とは裏腹に、僕の心情は必死そのもの。まるで呪詛を吐くかのように、目の前の男が僕の嘘に騙されることをただ願った。
「あーそうか。なるほどな」
重圧感が全身へと圧し掛かり、全身が硬直し石像になったかのよう。永遠にも感じられる緊迫感から解放したのは男の一言。
「ならさっさと帰れ」
少しばかり悩んだ仕草を見せた後に男から告げられた言葉は、僕がこの場で何よりも求めていた言葉であった。
体内に停滞する全ての空気が全身から吐き出されたような感覚がした。全身が重たい鎖から解き放たれたかのような解放感。
「えぇ」
もしかすれば目の前の男はこの学校の何処かの監視カメラに映っているかもしれない。でもどうだ、その監視カメラに映っているのはこの学校の生徒であったら。犯罪者からしたら大助かりだろう。だって自分という存在の容疑を他の人間にかぶせることが出来るのだから。
それに加えて、僕が理由はもう一つある。
小動物の失踪事件は様々な場所で起きている。それこそ、散歩中の犬が消えたという話も聞いている。人の口に戸は立てられぬ。火のない所に煙は立たぬ。人間の口は緩いもので、それこそ少しでも火種があれば、人の話はねずみ講式に色んな人達へと伝わるだろう。
だが、目の前の化け物のような存在が居たという話を僕は一切聞いていない。
であるならば、見出せる可能性が一つある。
「お仕事頑張って下さいね」
僕は男の隣に立つ化け物を無視し、目の前を良きぎった。存在そのものが認識出来ていないかのように。
「さっさと行け」
閻魔の垂らした糸を上り終える気分だ。僕は今日に至るまで一切、この化け物の存在を聞いていない。であるならば、あの化け物は第三者が知る機会の得れない存在なのではないか。目には見えない。それこそ幽霊のように。
男の対応が僕の仮説を確定させた。しかしそれは同時に僕が他人に何を言ったとしても無駄だと言う事の意味付けにもなってしまった。
「では、失礼しますね」
僕がこのまま連中を見逃した後何が起きるのか。考えずとも理解できるが、一刻も早くこの場から逃げれるならば、最早どうでもいい。ぎこちない笑みを浮かべていると鏡を見ずとも理解できた。
恐怖に走り出さないよう一挙手一投足を制御しながら、男達の前を横切り立ち去ろうとしたその時―――
空間が歪んだ。
「!?」
「うん?」
それはまるで底無しの沼のように、ドロリと空間全体が楕円形に歪んだ。乾いていない絵の具が垂れていくかのように、楕円形に目の前の風景が歪む。
男はそれが何かを理解しているようで、かたや僕は何も理解できていなくて。ただ目を瞬かせ、更なる混乱の訪れに身動きを取れずにいた。
「おい、お前。それが見えたのか」
「え、いやっ」
運が無い、ついていないとは我ながらつくづく実感してはいた。だがここにきて新たな追加要素が来るとは誰が想像できるだろうか。
目の前の空間が歪み、思わず仰け反ってしまった僕に対して男は一抹の疑念を抱いてしまった。
対応の遅れ。判断ミス。誤魔化す時間すらも無くなった。その一瞬の遅れがこれから先の僕の運命を決定づけたのだ。
「その反応は見えているやつの反応だな。何だよお前もこっち側の人間か。おい、クソガキ。お前はどっちの人間だ」
「え、あの……どっちとは?」
違う、そうじゃない。今聞くべきはそうじゃないだろう。
「あぁ?それも知らないとは言わせねーぞ。それが見えている時点でお前は少なくとも知っているはずだ。そうでないなら何で見えている?」
何がだよっ。こっちは最初から最後まで、徹頭徹尾何が何だか良く分かっていないんだ!
そう突っ込みたい衝動を抑えながらも、僕の思考は巡り続けた。目の前の男は僕の知らない物事を見ている。あまりにも情報が足りない。こっち側って何だよ。どっち側の人間って何だよ!
いや、待て。そもそもこの現象は何なんだ?この現実で一体何が起きているんだ!?
混乱が混乱を呼び、僕の脳内で疑問が疑問を呼び続ける。 それは途切れることを知らない濁流化のように、僕の意識を疑問で飲み込んでいった。
約十秒間の沈黙。答えを返さない僕に対して男は痺れを切らしたかのように息を吐いた。
「……まぁ、いいか。面倒だが捕えて聞けばいい話か。おい、やれ」
「うおっ!?」
化け物の弛緩していた筋肉が力んだかと思えば、数メートルはあろうかという距離を一瞬にして詰め寄ってきた。
反応が出来たのは奇跡にも近い。生存本能の警鐘に従い、直感のままに半ば倒れるかのような形で無様に地面の上を転がり、化け物の剛腕を回避した。
「……おい、ガキ。お前、こいつも見えているのか。いや、見えているんだな。何だ、お前は。俺の認識妨害を超えてきたのか?」
「そんな事、僕が知るか!」
男の疑問の声に対して罵声で返答。地面の土を指先でえぐり、不格好な姿勢で校舎を目指す。とにもかくにも、一秒でもこの場所から逃げ去らなければならない。
ドアからだとか、そんな丁寧な入校の仕方をしていられるか!
「いってぇっ……」
顔面を庇いながら跳躍し、僕の全身は勢いよく窓ガラスへとぶち当たる。ガラスの割れる甲高い音。痛みに呻き声をあげつつも、僕は校舎の中へと身体を滑り込ませた。
それと同時に喧しいほどの警報が校内に鳴り響く。数分もすれば、警備の人達が駆けつけてくれるだろう。
しかし、その程度で安心できるほど僕は楽観主義ではない。例え、警備の人達を囮にしてでも僕は逃げ延びたいのだ。僕は生きたいのだ。
「いっ、っぅ……」
ガラスの破片が手や頬のあちこちへと突き刺さっていた。チクチクと鋭い痛みが走ったが、それすらも気にしている時間がない。
今、僕の心を支配しているのは恐怖と混乱だ。
どうすればいいのか、どうしたらよいのか、全てが分からない。ただ脳内では不安が黒い染みのように広がっていく。
これが夢ならば覚めて欲しい。しかし、視界は変わらず夢から醒めることはない。悪夢と言うのならばまだ救いがあるのに、現実で起きているこれは何なんだ? さっきまでの平穏な日常は何処に行った?
ぐるぐると混迷する思考に脳の処理能力は限界を迎えそうだった。
「逃げないとっ」
何処に逃げればいいだなんて、分からない。
背後を振り返ってみれば、先程僕を襲った場所から男と化け物は動いていなかった。まるで何処へ逃げたとしても、問題ないとでも言うかのようなその姿勢に不気味さを感じながらも僕は痛みを堪えながら、先へ先へと廊下を走っていく。
ふと、窓から見えた化け物のまるで血のように赤い瞳と目が合う。その瞳からは生物的な理性や本能を何も感じさせなかった。




