プロローグ
鋼鉄を切り裂く鋼の刃が迫る。
真実、その剛腕は路駐していた軽自動車を薙ぎ飛ばし、その爪は車体の真下に逃げ延びだこの身へと迫った。
微かに軌跡の見える爪先。地面に倒れ込んだ状態では回避は不可能。
奇跡的にその攻撃を認識できたとして、人の身である以上人間という肉体のシステムから逃れることが出来ない。
失禁をしなかったのは奇跡的。恐怖に麻痺した心に肉体が追いついていなかっただけなのかもしれないが。
脳裏によぎるは、数秒先の残酷な現実。
化け物の鉤づめでもって、三つに分かたれる己の肉体。
走馬灯がよぎるような時間もなく
辞世の句を読むような猶予もない
ただ、己の人生は今日という日をもって終わるのだと直感し目を閉じた。
もう痛いのは嫌だな、なんていう現実逃避をまじえながら。
しかし
いくら待てども、皮膚と肉を裂く感覚もなければ痛みもない。
もしや、あまりの痛みに脳味噌が自覚をすることを拒否しているのかと、恐る恐る目を開けてみれば、視界の先には天使がいた。
否、形容するならばまた別の存在なのだろうが、その佇まいは天使と形容するに相応しいほど美しかった。
夜風にあおられ、白銀の髪が揺れ動く。
日本人ではないのだろう。その前に人の身ですらない。
目の前の彼女も異形だと、そう示すに相応しい程の夜の闇を切り裂く純黒の翼が腰から生えていた。
三日月が鈍く輝く。頼りない月光は文明の明かりに掻き消される。
罅割れた田舎のアスファルトの上、主役を照らすのは羽虫の纏わりつく街灯の明かり。
その明かりすらも、彼女がただ佇んでいるだけでまるで舞台のスポットライトのように彼女という存在を引き立てた。
観客者はここにはいない。いるのは全て三流役者。そうだと知らされていないのは舞台の上に立つ役者達だけ。
彼女が大きく翼を広げる。それだけで先程まで傲慢に振る舞っていた異形の存在は大きく飛びのき、獣のように唸り声をあげた。
攻撃手段になるとも思えないあの翼の何を恐れるというのだろうか。
只の人間には分かるはずもない。
「ねぇ、そこの死にゆく貴方」
悪戯っ子にも近い声で、天使は言った。
「助かりたい?」
状況は何も変わっていないどころか、より混沌と化した。
目の前には異形の化け物に天使のような女性。
自分の身にどのような災厄が降りかかり、何に巻き込まれたというのだろうか。
だが、それを考えるには時間もなければ血液も足りない。
血を流し過ぎたのか、思考は愚鈍で脳に霞がかかったかのよう。
延々と答えのない哲学に解を求めているかのように、思考の終着点は見当たらない。
しかし、不思議と口が自然と動き、言葉を返した。
「俺を助けろっ」
天使の質疑に対し返すは、傲慢な程の命乞い。
目の前の存在が何であろうと、命が助かるならばもうなりふり構ってはいられなかった。
ただ化け物に喰われるくらいならば、少しだけマシだと思ったのかもしれない。
だが、そんな言葉こそがこの場では正解であるような気がしたんだ。
天使は振り返る。その顔に微笑を携えて。
無邪気に邪悪に笑う姿は、まさしく人では無い。
物語の始まりにしては情けなく、運命の始まりにしてはあまりに滑稽で。
誰かにその出逢いを語るにはあまりにも恥ずかしい。
しかし、語る相手がいないのであれば、事実を知るのはこの場にいる俺と異形のみ。
ならば、何も構うまい。
「えぇ、もちろん」
天使は笑う。楽しそうに、愛らしく。
そして己の背丈よりも巨大な翼を広げて、天使は見下ろす。
月光を背に受けたその姿はまさしく化け物。
「さぁ、死した今日から君は私の物だ」
そうして、悪魔は俺の心臓を奪ったのだ。




