18 猫と少女
唐突に茂みから現れたのは、華房美來という名の共成者だ。青いツナギにモバイルバンドという装いは、皆と同じ。比較的背は高いものの、頑強どころか病的に細い。他に目につくとしたら、切れ長の瞳と、黒く艷やかなロングヘアー。
どこか儚げで、篠束とは違う『か弱さ』を持つ少女だった。ただし両者の外見は似ていない。狐と狸、という言葉が似合いそうだ。
「どこいったの、出ておいで〜〜。怖くないから〜〜」
華房が、しきりに舌を鳴らしながら呼びかけた。それでも成果が無いことは、顔色を見るだけでも分かる。
「猫なんて、この島に居たんだな」
羽澄の疑問に、篠束がすかさず答えた。
「少ないけど、居るらしいです。確かこの近くに、餌やり場があったと思います」
「そうか。人工島なのに野良が居るのか」
羽澄は腑に落ちないものを抱きつつも、茂みを掻き分け、手がかりを探した。しかし、この広大な森で小さな命を見つけるのは、至難の業だ。徒労にも似た捜索が続くばかり。
「なぁアンタ、華房って言ったか」
「ヒッ!? わ、ワタクシに何か!?」
「あぁ、その、なんだ。少し手法を変えないか。猫の名前を呼びながら探すとか、何か工夫すべきだと思う」
「えっと……名前は……小猫ちゃん」
「そうか、うん。だったらもっと人手が欲しい。人海戦術で、数に物言わせて探すってのは」
「私、友達いない。話し相手も猫ちゃんくらい」
「そうか、うん。悪かったよ」
かく言う羽澄も、大規模捜索を実行できるほどの知人はいない。篠束を除けば、後は根岸と伊藤くらい。その2人も頼みに応じてくれるかは不透明だ。根岸は華房を口説き倒して働かず、伊藤は報酬を求めるだろう。
つまり、今ある人手で挑むしかなかった。
「それにしても、華房。どうして猫を探すんだ? 飼い猫?」
「い、いえ。野良の子。私は、せいぜい遊び相手と言うか、飯炊き奴隷みたいなポジションで」
「だったら別に、頑張って探す理由は無いだろ。飼ってるならまだしも」
「それが、ちょっと経緯があるの……」
華房が俯きながら語るのは、数時間前の出来事だ。
◆ ◆ ◆
いつものように、猫の餌を調達した彼女は、猫の餌場へと向かった。共成所は原則ペット禁止である。だが島内に点在する指摘区域であれば、許されている。そのうち南西の一区画が、野良猫のテリトリーとして扱われるようになった。
それを知る彼女は、今日も今日とて、タッパーを片手に足繁く通う。しかし、不穏な空気に気づいた彼女は、思わず目を見張った。
「母猫が鳴いてる? 何だか、助けを呼んでるような……」
姿は見えない。しかし、悲鳴にも似た声は途切れず続く。華房は駆け回りつつ探した。
すると、彼女は森の某所で猫の姿を見つけた。ただし、子猫の方だ。母猫ではない。
「もしかして、母猫も近くに……。アッ!?」
華房の急な登場に、子猫は驚き逃げ去ってしまった。彼女も追いかけようとするのだが、足元の穴に驚かされた。見覚えのない円柱型の深い穴だ。その中に母猫は落ちていたのだ。
「何でこんな所に!? えっと、ええと……!」
華房は困惑した。どちらが火急か、判断に悩まされたのだ。逃げた子猫を追うか、それとも母猫の救出が先か。
悩んだ挙げ句、母猫を優先させた。
「大丈夫? 怪我は無い?」
棒切れで地面を掘りながら、穴を広げていく。そして、穴に緩やかな坂が繋がるように掘り終えると、母猫は脱出に成功した。
しかし一目散。いずこかへと駆け去ってしまい、その場には華房だけが取り残されたというのだ。
このままでは帰れる理由も無し。行方不明の親子を捜すうち、羽澄達と出くわしたのだ。
◆ ◆ ◆
「私が子猫を驚かせなかったら、母子がはぐれる事も無かったのに……」
「気に病む事はないだろ。むしろ助けてやったじゃないか」
「ううん。ダメなの。母子の再会シーンを見るまでは、1秒だって休まない」
華房の外見からは、気弱で虚弱な印象を受ける。しかし今、この瞬間だけは鬼気迫る程の気迫が漲っていた。言葉通り、悲願達成まで探し続けかねない。純粋さと危うさが同居するようである。
「オレにしたら、お前は行きずりの仲だ。でも、そこら辺でブッ倒られるようなら、寝覚めが悪い。見つかるまで協力してやる」
「ありがとう。1人だと心細かったから、嬉しい」
「華房さん。私も微力ながら頑張りますよ。一緒に猫ちゃんを探しましょうね」
「篠束さんも、ありがとう。こうしてお話しするのは初めてよね?」
「そうです? そうかも」
「ともかく、本当に感謝するわ。仲良くもない私なんかの為に、手伝ってくれるなんて」
華房の言葉に強く反応したのは篠束だ。ニヤケ面を浮かべつつ、急に自慢話めいた口調になる。ただし、称えるのは自分自身ではなく、相棒についてだ。
「羽澄さんは、困ってる人を放っておけないんです。メチャクチャ良い人ですよね!」
「篠束。急に持ち上げんな。オレは、消化不良が嫌いなだけだ」
「あれ? もしかして照れてませんか?」
「お前なぁ、頑張ると言った矢先だろ。口よりも手を動かせって」
「アハハ、すみません。今は猫ちゃんですよね」
こうして、少しだけ打ち解けた3人は、肩を並べて捜索を続けた。既に、短い会話程度なら成立する。それくらいには親睦を深めていた。
しかし肝心の猫は一向に見つからない。母も子も、いずれもだ。
「ふぅ……どこに居るんだろ」
「猫ちゃんって、狭い所が好きですよね。案外、こんな隙間に……」
その時だ。篠束が足を止め、無言のままで手を振った。それを合図に、羽澄達も足音を殺して歩み寄った。
「どうした篠束。もしかして……」
「縞三毛の子猫ちゃん。灰と茶と白色。この子であってます?」
篠束が指差すのは、大きく張り出した木の根の隙間だ。そこに伏せる形で、一匹の猫が潜んでいた。
どうやら正解だったらしく、華房が涙目で何度も頷いた。
これでお手伝いも一段落か。そう思われたのだが。
「さぁ猫ちゃん。そんな狭苦しい所じゃなくて、ママの所に帰りましょうね」
「みゅわぁぁぉ。みょわぁぁぉお! フシャーー!」
「ヒエッ。すんごい威嚇されましたが!」
「おい、どうすんだよコレ。せっかく見つけたのに、連れ帰るどころじゃないぞ」
子猫が全身全霊の威嚇を見せるものの、どこか愛くるしい。ついつい羽澄や篠束も、頬を緩ませてしまう。
そこで華房が割って入る。彼女は、自分の指先に唇を這わせると、それを子猫に向かって突き出した。
「ほら、怖くないよ。いつものお姉ちゃんだよ。この匂いは覚えてるよね?」
すると子猫の覇気が弱まる。小さな鼻先がヒクヒクとなり、嗅ぎ分けようと懸命に動く。そして、やはり小さな頭が隙間から現れ、華房の指先に頬ずりしたのだ。
「あぁ良かった、ありがとうね覚えててくれて。でもお姉ちゃんはアナタの事たくさん覚えてるよ。ほら、ここ撫でられると気持ちいいでしょ? ここ好きなんでしょホラ、ホラ、ホラ。あらぁ良いねぇ、気持ちよくって堪んないんだねぇ」
華房、途端に饒舌家になる。その後ろで、雁首を揃える羽澄達は、呆然として佇むばかりだ。
「なぁ篠束。コイツ、豹変したんだが?」
「アハハ。華房さんは、よっぽど猫が好きなんでしょうね」
閑話休題。この後、華房は子猫を抱っこして、母猫の元へ連れ帰る事となった。彼女が抱きかかえるまで小さくないタイムラグ、長々としたイチャつきを挟みはしたが。
「2人ともありがとう。これでどうにかなると思う」
「華房、まだ途中だろ。母猫だって逃げ回ってるんだよな? そっちも探さなきゃ」
「フフッ。安心して。そろそろゴハンの時間だから」
華房には秘策ありとの事。その自信は、姿勢にすら現れている。沈みがちな瞳は真っ直ぐに、萎れた猫背はシャンと伸びて、声にも芯が感じられる。
人はこうも変わるものなのかと、羽澄は内心で驚愕した。
やがて、餌場と呼ばれる区画へとやって来た。特に整備のされていない空き地だ。プラスチックのタッパーと、紙の器が土の上に置かれただけである。
「それで華房。何か考えがあるんだよな?」
「ンッフッフ。聞いちゃう? それ聞いちゃうの?」
「早くしろって。オレらもそろそろ晩飯時だぞ」
「あっ、すみません。秘策はこちら、ジジャーーン!」
「何だそれ。タッパー?」
「これはね、ツナ缶の中身を軽く茹でて、塩気を脱いたヤツ。結構食べっぷりが良いのよね」
その言葉を裏付けるように、華房の胸元で子猫がはしゃぎだす。早く食わせろという催促だった。
「はいはい、どうぞ。お水もあるからね」
華房は、新しいタッパーを地面に置いた。途端に子猫はまっしぐら。ミャアミャアと、美味そうな声を出しながら貪り食う。
その間に、華房は新たな紙の器を置いて、ペットボトルの水を注いだ。寮の給水器から汲んできたものだという。
「じゃあ2人とも、ここからが大事だよ。茂みに隠れよう」
「隠れてどうするんだ?」
「母猫が来るのを待つの。その間、騒いだりするのは厳禁。静かに見守る事。たとえ、どんなに可愛らしい仕草を見たとしても、絶対に駆けつけちゃダメだからね。オーケー?」
「お、おう。別に構わんが」
こうして3人は、ソロリソロリと足音を殺しつつ、茂みに潜んだ。無事に母猫と合流できる、その時まで。
「ちなみにだが、これが失敗したらどうするつもりだ? さすがに夜通しで付き合うのは厳しいだろ」
「ハァァ……かんわいい……。頑張ってツナ食ってる堪んない」
「おい華房。聞いてるか?」
「あっ、今度は水の方に行った、水に。舌ちっちゃい! ちっさい舌をペロ出ししてお水をテチテチ飲んでる、どうしようカワイイ堪えらんない!」
「声を落とせよ、静かにしろってお前が言ったんだろ」
「あぁぁ、そうだった……。辛い、苦しい。今すぐ抱きしめてしまいたいのに。こんな過酷な試練を与えるなんて、もう神様は本当に意地悪だ」
「さすがの神様も、今のクレームには仰天するだろうな」
3人が肩を並べて成り行きを見守る。うち1人は、凄まじいまでの苦痛を伴っているようだが、辛うじて、理性が僅差で勝ちを収めている。
それからしばらく。向こうの茂みが揺れ、猫の顔がヌッと現れる。茶トラの成猫。これが母猫であるかは、確認するまでもなかった。
隣で華房が号泣し始めたからだ。
「良かった、良かったぁ……。お母さんに会えたねぇ。これで安心……グフゥッ!!」
「泣きすぎだ、落ち着けよ。また驚かせたら面倒だぞ」
「ごめんなさい。ごめんなさい。人カスのお姉さん達はもう巣穴に帰ります。汚れきったクソッタレ塵芥どもの巣窟に戻りますからね」
「シレッとオレ達まで貶すのやめろ」
それから中央棟への帰路についた。所要時間はゆったりと一時間強。気力を使い果たした華房の足取りは、とにかく鈍重であった。
「ハァ、嫌だ嫌だ。人間どもの魔窟に戻りたくない。いっそ猫になって野生に還れたなら……」
「そこまでかよ。衣食住が安定してるのは、人間の約得だろうが」
「嫌なものは嫌。いっそ世界なんて1度滅んでしまえばいい。そして数千年の時を経た地球に転生して、猫の王国で楽園を築き上げるの」
「お前は色々と重症なんだな……」
羽澄はそっと目配せした。それだけで意図を察した篠束が、やさぐれて余る『傷心』に寄り添った。
「華房さんって猫ちゃんが大好きなんですね。やっぱり詳しいんです?」
「えっ、猫の話? 猫の話をして良いの!?」
「あっ、はい。私はそんな詳しくないんですけど……」
「猫はとにかく愛らしいのよね。顔つきもフォルムも最高で、声も鼓膜が蕩けそうなほど美しい。あの子達は完璧なの。荒廃した地上に、神が慰めに生み出した完全無欠の愛玩動物と言っても過言ではないわ。世の中には犬派猫派なんて愚か極まる論争があるようだけど、私の見解では――」
華房、再び饒舌に。その語りは留まる所を知らず、ひたすら喋り倒すようになる。
それは3人が中央棟へ戻ってからも、食堂の待機列に並ぶ間も、そして席について食卓を囲む間でさえも続く。
「猫の鼻には模様があるんだけど、あれって一緒じゃないの。人間の指紋みたいに、個体差があるわ。不思議よね。あらゆる模様をこの目で収めてみたくなるわね」
「そうなんですか? てっきり、品種で一緒なのかと思ってましたよ」
延々と猫の話題に終止する華房だが、以外にも篠束はコミュニケーションがとれている。特に苦痛な様子もなく、会話は程々に弾んだ。
問題があるとすれば、テーブルの正面。根岸の睨むツラと、伊藤の呆れ顔だ。
「羽澄この野郎! 結姫ちゃんだけで飽き足らず、更に美少女を囲うだなんて、人生ナメてんだろ!」
「よく見ろ根岸。華房はオレが目当てじゃない、篠束なんだよ。なぁ伊藤?」
「そうかもしれないけど。僕もちょっと、どうかと思う。羽澄君は短期間に、女の子と知り合いすぎじゃないかな?」
「基本的に成り行きなんだよ。察してくれ」
この日を境にして、篠束から紅一点の肩書が外れる。食事時には、華房という少女までも顔を並べる事が定番となったからだ。
そして日常の定番は、もう1つ追加される。羽澄達の鍛錬だ。人気のない森に入り、走り込みやら筋トレに勤しみ、瀧に打たれる。
彼らは朝から晩まで励むのだが、成果は日進月歩。筋トレの回数が微増する程度であった。
「クソッ。肝心の異界化が全然できないんだが」
「私も、いまだに武器というのが出せてないです」
「それは仕方ない。武器は異界でしか出せないんだ。つまりは、オレが先に課題をクリアしない限り、篠束も達成できないって事になる」
会話を重ねる今は、滝行の直後だ。例によって篠束は着替え、羽澄は濡れそぼったままで壁役に徹する。
ちなみに、替えの衣服は準備済みだ。服を絞る手間は省けている。
「それにしても異界化か……。どうやったら上手くいくんだ?」
「羽澄さん。おまたせしました。こちらは完了です」
「異界化、武器の出現、イービルの存在と生命の危機……」
「羽澄さん? 着替え、終わりましたけども」
「そうか閃いたッ!!」
「ええぇ!? 何がですかぁ?」
羽澄は衣服を着替えもせず、斜面を駆け上り始めた。そして高い崖の縁に立つなり、足元を見下ろした。
そこそこ高い。4階建ての屋上くらいに思える。上から覗き込むだけで、心が微かな警鐘を打ち鳴らした。
その頃になって、篠束が息を切らしながらも追いついた。
「羽澄さん、いったい何を……?」
「オレはこれから飛び降りる。崖の下まで」
「危ないですってば! この高さだと大怪我、いや、死んじゃいますよ!?」
「安心しろ。命の危機に瀕すると、力が目覚めるんだ。きっと異界化のコツも掴めると思う」
「あの、聞いた範囲では、安心できる要素がカケラも無いですけども!」
「善は急げだ、そこで大成功するオレを見届けろ!」
「あぁっ! ためらいなく行った!?」
羽澄は、水泳の飛び込みにも似た姿勢で飛び降りた。頭からの垂直落下。下は固い地面。重力加速度に手心はなく、身体はみるみるうちに加速していく。
これは命の危機と言って差し支えない。五感から逐一届く情報が、羽澄の心にヒリついた刺激を与え、全身を活性化させる。
「死ぬ、この勢いだと死ぬぞ!」
異界化は起きない。そして、地面に激突する瞬間、彼はこの土壇場で認識を改めた。
「死ぬ……いや、これ死なねぇやつ! いってぇ!!」
落下した地点で地面がひび割れ、クレーターのような窪みが生まれた。
羽澄の安否はというと、無事そのものである。痛いと騒ぎ、歩き回る程度には元気だ。出血や骨折といった、重篤な症状も無かった。つまりは五体満足の状態である。
羽澄は何の『手土産』もなく、篠束の元へと戻る。トボトボと、敗残の将を彷彿とさせる姿で。
「羽澄さん、大丈夫ですか!?」
「平気平気。額にたんこぶが出来たくらいだ。特に問題は……ふぇっ、フェックシ!!」
「ホラホラ、何にしても着替えてからにしましょうよ。このままじゃ風邪ひいちゃいますからね?」
篠束にしては珍しく、羽澄の手を強く引いた。そして、いつもの茂みスペースに追いやると、着替えを促した。
しかし、羽澄はツナギを手に持つばかりで、動き出そうとしない。
「羽澄さん、気分が優れませんか? なんならお手伝いしますけど」
「要らない。別に重症って訳じゃないぞ、頭にコブ作っただけだ」
「ええと、それならハンカチ冷やして来ますね」
篠束が離れた間も、羽澄は考え続けた。異界化について、何かを間違えているのか。そして、どうすれば自在に操る事ができるのか。分からない事ばかりである。
「そう言えば緒野寺が異界化させた時、簡単にやってのけたよな。特に叫ぶとか、力を込めるとか、そういうの無しに……」
「お待たせしましたぁ……って羽澄さん! なんで上が裸のままで止まってるんです!? 早く着ないと大変な事に!」
「いや待て。平気だ、ちゃんと着るから」
「そんな事言って、さっきからずっと『キルキル詐欺師』じゃないですか。もう遅いです、お手伝いさせていただきます」
「オイやめろって。後は袖を通してチャックを上げるだけなんだよ」
「安心してください。私は冷静ですので。もうほんと、どこに出しても恥ずかしくないくらい冷静ですから。むしろ冷静過ぎて恥ずかしいくらいかも」
「どっちだよ! 良いから離れろ!」
「不公平ですよ羽澄さん。私は裸を見られたのに、私は見てません!」
「オレだって下心があった訳じゃないし、そもそも下着が見えただけだ!」
強めのイチャつきは続いた。互いに身体をぶつけあう程に激しい。さっさと着替えろよというクレームすら届きそうである。
だがその時だ。やたら騒がしくする2人に、絹を裂くような悲鳴が風雲急を告げる。
「羽澄さん、今のは……」
「行くぞ。ボヤボヤするな!」
「はい! 分かりました!」
羽澄は袖を通しながら駆け出した。声は1度きり。2声目はない。それが良いのか悪いのか、彼には分からない。
そうして駆け出してすぐ、森の中に見慣れた姿を見つけた。華房である。しかし、顔面蒼白にして震えており、無事とは呼べない様子である。
「華房! どうかしたのか!?」
「あ、あれ、あそこ……!」
「一体何が……って、これは!?」
硬直した華房が、辛うじて指差す先。その凄惨なる光景に、羽澄だけでなく篠束までが絶句してしまう。
大木の枝から垂れ下がるロープ。そして、ロープで逆さ吊りになる茶トラの猫。その身体は血と泥に塗れており、目を背けたくなる程に汚されていた。
「いや、嫌ぁ! 死なないでお願い!」
華房が駆け寄るも、枝は高い。渾身の力で飛ぼうとも、指先すら猫に届かない。痺れを切らした彼女は、付近の棒切れを探し始めた。
その様子を見て、羽澄もようやく我に返る。
「篠束、華房を止めろ! 救出はオレがやる!」
「分かりました、お気をつけて!」
羽澄は木の幹に取り着いたのだが、登るには不向きな構造だ。次の枝まで遠い。仕方なく、幹を抱きかかえるように腕を回し、腿を全力で締め上げる。
そうすることで、少しずつ登りだし、ようやく目的の枝まで到達した。
「頑張れ、今助けてやるぞ……!」
羽澄は、枝の結び目を解いた。そして、そのロープの端を静かに降ろし、猫の身体を地面に近づける。
そこには取り乱す華房が待ち構えるのだが、「揺らすなよ」と怒鳴ると、その動きは大人しくなった。
そうして傷ついた猫は、華房の胸に戻されたのである。
「どうしよう! こんなに血が、汚れが!」
「衰弱が酷いな。とにかく医者に診せよう」
「でも、こんな島に獣医なんて居ないし。一体誰に……」
「医務室に連れていけば良い。人間も猫も同じ哺乳類だろ、だったら診てくれるはずだ」
「えぇ……?」
「良いから行くぞ! あんまり揺らすなよ」
こうして羽澄は、動転しきりの華房達を連れて中央棟へと急行した。
結論から言えば、医師に診ては貰えたし、できる限りの治療も受けられた。多少の苦言や不平は頂戴したものの、それは名誉の負傷。ひとまずは胸を撫で下ろした。
だがそれでも、事態は予断を許さない。彼らは最終的に、真夜中の森を駆けずり回る事になるのだった。




