10 隷属の鎖
ヨチヨチ、ヨチヨチ。羽澄俊は、緒野寺求稀の誘導で懲罰房から抜け出ようとしていた。
しかし完全なる目隠しと、不慣れな施設ということもあり、歩みは極めて遅い。緒野寺と繋いだ両手に、掛け声だけが道標だった。
「良いよ良いよ、そのまま真っ直ぐだ」
赤子の歩行訓練かのような口ぶりには、閉口した。たとえ悪意が無いとしても、羽澄は都度、苛立ちを覚えてしまう。
「さて、もうじき曲がり角だよ。まずは右、次は左に曲がる。最後は直進だ。その先には、出口に繋がる登り階段があるよ」
「本当だろうな? 妙に長く感じたぞ」
「それは君の足が鈍いからさ。これならまだ、生後間もない仔鹿の方がマシだろうね」
「しょうがないだろ、何も見えないんだぞ」
「咎めている訳ではないよ。引き続き、歩く事に集中したまえ」
「まったく。こんな所を襲われでもしたら。きっとヤバい……ッ!?」
羽澄はこの時、背筋に冷たいものが走った。少し緒野寺を信用しすぎてはいないかと、不安を覚えたのだ。
同じ能力者だとしても、味方だと断言できる理由にはならない。そして目隠しは罠かもしれない。そう考えれば、所員たちと繰り広げた対立も、芝居だった可能性がある。
迂闊にも、極めて危険な状況に陥っていた。襲われれば確実に先手を取られる。気付けば袋の鼠、という事態だって有り得た。
不意に湧いた不安の割に、妙なリアリティが感じられた。心から取り憑かれてしまい、疑惑の念は瞬く間に膨らんでいく。
そのせいで、緒野寺からの指示に反応が遅れた。
「昇り階段だ。足を高くしたまえ」
「階段……うわっ!?」
羽澄、勢い良くつまづく。両手は不自由なので、必然的に顔から倒れ込む事になった。
そんな彼を受け止めたのは、硬く冷たいコンクリートではない。柔らかで温かい、ムニュんとした感触だった。
鼻先から頬にかけて、柔らかな物の狭間に埋まる。何かしらの擬音が、それも特段にふくよかな音が聞こえて来そうな、未知なる感触だった。
羽澄は酷く困惑する一方で、鼻先から伝わる物を感じ取った。どこか汗ばんだような、濃い香りが鼻腔を染める。
そこまで理解すると、ようやく彼も察しがつき、慌てて態勢を立て直した。それと同時に緒野寺が吐き出す、聞こえよがしの溜息を聞いた。
「君ねぇ。目隠しをして淑女の身体をまさぐるとは。その若さで助平ジジイみたいな真似をするのかい?」
「いや、わざとじゃない! 不可抗力だ!」
「だから、歩くことに集中するよう言ったろう。大丈夫、私に君を襲撃する理由など無いからね」
「なぜそれを!?」
「突然、殺気を放つようになったからね。消去法で考えれば、予想もつくというものさ」
緒野寺に隠し事は難しいようだ。少なくとも今ばかりは、腹の探り合いをすべきではない。そうと分かっていても、羽澄の探究心を抑えきるには至らなかった。
「副所長、アンタは」
「緒野寺で良い。命運を共にする同胞だ。歳や立場の違いなど些細なものだよ。何なら親しみを込めてクレアと呼んでくれても――」
「緒野寺。アンタの目的は何だ? オレに接近した理由は?」
「ここでは話しづらいねぇ。後日、場を改めてから伝える事にするよ」
「気持ち悪いな。今すぐ教えろよ」
「君は気づいてないのかい? あちこちで聞き耳が立てられているよ。奴らの耳に入れば厄介だ」
「今も監視されてるって事か……」
「その通り。今しがた、君が変態的な乳遊びをしたシーンも、しっかり目撃されただろうね」
「だから! 不可抗力!」
「ともかく後日だ。それほど待たせる予定は無いから、安心したまえよ」
続けて緒野寺は『施設から出た』と告げた。
言葉に偽り無い事は、羽澄も五感で感じ取った。カビ臭く湿った空気が、乾いたものに変わる。辺りは日向なのか、日差しが微かに肌を焼く。鳥のさえずりに加え、土を踏む感触もある。
ようやく外に出たのだと、実感した。
「どうだい。久しぶりのシャバは?」
「どうも何も、閉じ込められて1日も経ってないぞ。感想なんか出てくるかよ」
「君ならそう言うと思ったよ。全く風流でない」
「ところで、アイマスクは?」
「もうしばらく着けておくれ。良き時に声をかけよう」
「別に、懲罰房の場所がバレたって構わないだろうが……」
外に出た後も、手を取り合っての行進は続く。どれだけ歩かされたか、羽澄には判別できない。ただ、小一時間くらいは歩かされた気がしている。
「緒野寺。まだかよ?」
「ウフッ。もうしばらくだね、ウフフフ」
「なにを笑ってんだ?」
「いや済まない。少しね。ウフフッ。ウフフフフフ」
羽澄は全身に怖気を感じた。この、口調が乱れていく様は、イービルを彷彿とさせた。
遂に正体を表したのか。今までの会話は全て油断させる為か。
そう判断すると、羽澄は素早かった。アイマスクをかなぐり捨て、その場で飛び退った。
「とうとう正体を現したな、化物……ンン?」
羽澄は、想定したものと現状がかけ離れている事に、肩透かしを食らった。
辺りは木々の生い茂る森の中。人気のない小路の上で、緒野寺が肩を竦めつつ立ち尽くしている。枯れ葉も草花も、全てが色彩を保っており、異界化の片鱗さえ見つからなかった。
「あぁ、実に残念だよ。もう少しくらい堪能したかったものだ」
「どういう事だ? アンタ、急に態度がおかしくなったぞ」
「いやね、若いツバメを甲斐甲斐しく世話する事が、少し快感になってきてね。何だか癖になりそうだよ」
「じゃあ今のは、本当に笑ってただけ!?」
「なぁ、近い内にまた頼むよ。その代わりと言っては何だが、多少の『不注意』であれば目を瞑ろう」
「覚えておく。緒野寺の笑い方は気味が悪いってな」
「君の素直さには容赦が無いなぁ」
ようやく完全な自由を取り戻した羽澄は、中央棟へと急いだ。篠束の安否が気がかりである。
緒野寺もその後に続いた。最後まで見届けると言って譲らなかった。
それから2人揃って中央棟まで辿り着く。すかさず総合受付に向かうのだが、カウンターは無人そのものだった。
「誰も居ないぞ。篠束は!?」
「おかしいね。普段なら、誰かしらが常駐している所だが」
緒野寺がタブレットPCを取り出すと同じ時、受付の女性が遠くに見えた。すると気忙しくも、タブレットを操作しながら問いかけた。
「待ちたまて。先刻、篠束結姫という娘を預けたはずだが?」
「はい副所長。ファイル整理や、備品チェック等をお願いしました」
「その篠束君はいずこに?」
「思ったより廃棄物を出してしまったので、焼却炉へ行きましたよ」
羽澄は緒野寺と顔を合わせるなり、にわかに駆け始めた。
「緒野寺、焼却炉はどこにある!?」
「近辺に2箇所。中央棟の裏手、もう1基は体育館裏だ」
「近場から回るぞ!」
すかさず玄関口から飛び出しては、壁沿いに裏手へと向かう。
速やかに中央棟裏手へと急行した羽澄達。しかし人影は見当たらず、焼却炉付近は無人だった。
「誰も居ない、篠束はコッチじゃないのか!?」
「彼女の座標を調べてみたが、そうらしいね」
「だったら体育館の方か!」
羽澄達は、走る間もしきりに周囲へ目を向けた。行き違い、追い越しを懸念したのだが、駆け抜ける途中でも篠束の姿は見当たらない。
「クソッ、どうしてこんな事に! 安全な場所に居るんじゃなかったのかよ!」
「落ち着け羽澄君。彼女の座標は変わらず体育館裏にある。適切な監視カメラは無いものの、そこに居る事は確実さ」
「無事な姿を見るまで安心できるか!」
2人は間もなく、焼却炉へと辿り着く。
そこには、持ち主のないビニール袋が放置されていた。袋の口は開け広げで、中からクリアファイルや書類がこぼれ落ちている。
その傍らには、ゴミに紛れるようにしてモバイルバンドも転がっていた。画面には『篠束結姫』の名前がある。
「篠束、どこにいる! 篠束ーーッ!」
腹の奥底から叫んだ。しかし、声は虚しく反響するだけで、呼び声に応じる姿は無かった。
羽澄は、見当たらないと知るなり手がかりを探す。しかし、都合よく見つかるはずもない。目撃者も、足跡も、犯人を示す遺留品も無い。
「クソッ。どこに消えたんだ!」
「まぁまぁ、落ち着きたまえよ。何をそんなに恐れてるのやら」
「事情を知らないからそんな事が言えるんだ!」
「それはそう。ロクに聞いていないからね」
羽澄は、クワと込み上げる血潮を堪えつつ、端的に説明した。篠束と、彼女を取り巻く状況について。
ようやく温度感が伝わったらしい。緒野寺の瞳が次第に尖っていく。
「売春だって……? それは由々しき事だね」
「篠束は酷く思い詰めてる。1人きりにしたら危険なんだ!」
「待て、ようやく監視カメラの映像を見つけた。ちょうど良い子機を探り当てるのには苦労したよ」
緒野寺がタブレット画面を見せつけた。やや遠く、角度も怪しいのだが、間違いなく篠束の姿がある。焼却炉付近で、誰かに声をかけられた。所員の制服だ。
そしてしばらく会話が重ねられると、所員は篠束の手を引き、どこかへと立ち去っていった。
「恐らくだが、この男は警備担当者だね。見覚えがあるよ」
「向かったのは南、だったら船着き場の方か。他に情報は?」
「そうだね……監視カメラを見るに、めぼしい所に姿は無いね。あの娘が端末を装着していたら、話は早いのだが」
緒野寺は、羽澄の手に握られたモバイルブレスを見ては、ため息を溢した。
「ボヤいても仕方ない。消去法だ。島の南側で、監視カメラの無い場所は?」
「基本的に森だの原っぱだの小川だの、まともな施設の無いエリアだね。一口に言っても広範囲だが」
「手分けして探そう。オレは森の西、緒野寺は東だ」
「待ちたまえ。単独行動は下策だ。もしイービルどもの罠だったら、各個撃破される危険性がある」
「ノンビリ探してる時間は無いんだよ、任せたからな!」
「お、おい! 羽澄君!?」
羽澄は、緒野寺が止めるのも聞かずに走り出した。
体育館の脇から幹線道路へ。進路は南。そして最寄りの小路を見つけるなり、一気に右折。緑地の遊歩道へと駆け込んだ。
「篠束、どこだ! 聞こえたら返事をしろ!」
叫びながら駆け続ける。しかし何ら成果はなく、ついには息があがって立ち尽くす。
「ハァ、ハァ……。クソッ。何か手がかりさえあれば」
辺りは見通しが良い訳では無い。林立する木々が視界を遮り、見通しの良い原っぱであっても、小高い丘が死角を生み出す。
更には時間だ。太陽が空を真っ赤く染め、影を長くする。このまま日が暮れてしまえば、捜索は更に困難を極めるだろう。
「何か、手がかり寄越せオラッ!」
羽澄は動きを変えた。闇雲に進む事を止め、高い木に登り始めたのだ。樹齢ウン百年という大先輩の胸を借りるつもりである。
「どこだ篠束、どこに……!」
人の姿は所々で見られる。小道を談笑しながら帰路につく集団、違う。原っぱの小川で水遊びをする二人組、これも違う。
篠束は強引に拐われたのだ。誘拐と言って差し支えない。だから、何か不自然な痕跡があるはずだ。隠しきれない悪意が、何かしらの形で刻まれているに違いないのだ。
それを一刻も早く見つけてしまいたい。
「ん……、何だあれ。あんな所を人が通ったのか?」
小道から外れた位置で、雑草がなぎ倒されている。しかも2人分の足取りが、木々のひしめく森へと続いていた。
あれだ。そう直感した羽澄は、全力で走り出す。それほど遠くない。正解であってくれと祈りつつ、一心不乱に駆け続けた。
先程見つけた二筋の軌跡は、今もハッキリと残されている。辺りに人の気配はない。ここを通った者達は、まだ森の中に居るように思える。
「ここに居るのか? 正解であってくれ!」
羽澄は雑草の跡を辿る、辿る、ひたすら辿る。この辺りは木々が多く、日暮れという時間も手伝い、相当に暗い。本格的に夜を迎えたら、一寸先すら闇になるだろう。
それまでに見つけ出す。決意を新たにするうち、人の気配を感じ取った。茂みの向こう。2人分の声。ここに違いない。
「見つけたぞ、そこに居たのか!」
「ヒィィーーッ、誰!?」
羽澄は勢いそのままに、茂みを突破した。そうして見たのは、2人組のカップルだ。男も、女にも見覚えはなく、羽澄は首を傾げてしまう。
「ええと、アンタらは、何してんの?」
「いや、その、僕らは……人生相談だよ! 誰にも聞かれたくないからさ。そうだよね?」
「ああウン。そうなの。結構重たい話になるから、2人きりになれる場所が良くって〜〜」
「なるほど。2人はそういう経緯で、わざわざこんな無人の森までやってきたのか〜〜アッハッハ!」
「そうだったんだよぉ〜〜。だから、所員に通報とか止めてね、お願いだからさ」
「紛らわしいなこの野郎! 人が必死になってる時にイチャつきやがって!」
「アワワワ、ごめんなさいーー!」
逃げようとする2人。そこで羽澄は男の方の襟首を掴んで、その場に引き止めた。
改めて問い詰めてみると、別の人影を見たと言う。場所は小道を挟んで向かい側。芝生の先にある森の中だ。
「数少ない手がかり、今度こそ当たってくれ!」
再び走り出す。道を横切り、芝生を抜け、またもや深い森へと突入した。
見たところ、人の通った形跡はある。しかし数が多い。2人分にしては、倒れる雑草が多すぎた。
「また空振りか? いや、迷ってるヒマはない!」
暗く静まりゆく森の中を突き進む。後ろ髪引かれる想いに堪えながら、正解であると信じて。
すると願いが通じたのか、確信を得るだけの手がかりを掴んだ。聞き覚えのある声を耳にしたのだ。
――これで分かっただろ。2度とアタシに逆らうなよ。
寝谷の声だ。間違いなく近くにいる。そうして駆けていると、木々の隙間から赤い大海原を見た。陸地と海は崖で隔たれており、足元は開けた草原だった。
そこに佇む数名の男たち。その隙間に、篠束の立ち尽くす姿もある。
「見つけたぞ、ここに居たのか!」
飛ぶように駆けて木々をすり抜け、草場に躍り出た。
すると何人かが振り向き、いくつもの視線が突き刺さる。それらのうち1つは寝谷のもので、羽澄の全身に絡みつくような不快感が駆け巡った。
「うわクソウザ……もう来たし。懲罰房にブチ込まれたんじゃなかったのかよ」
「ハァ、ハァ……。篠束を離せ、今すぐ解放しろ!」
「別に? 好きにすれば?」
「何だと?」
「連れ帰りたきゃ、好きにしろっつの。でも残念だけど、篠束はもうお終い。アタシの命令しか聞かないよ」
「そんな訳あるか!」
羽澄は篠束の傍に駆け寄った。
しかし、向き合う瞳に生気はない。虚ろで、焦点が合わず、羽澄の視線からも逃げるようである。
「おい篠束、大丈夫か!? コイツらに何をされた!」
「ごめんね羽澄さん。心配しないで。私さえ我慢したら、それで良いの」
「何を言ってんだ、こいつらの口車に乗るな! とにかく帰るぞ」
「私さえ我慢したら、それで丸く収まるの。私さえ我慢したら、居場所を守れるの。私さえ我慢したら、ずっと皆と仲良く出来るの。私さえ我慢したら」
「篠束、正気に戻れ……ッ!?」
その時、羽澄は信じられないものを見た。それはほんの一瞬、まばたきの間の出来事だ。
篠束の身体をがんじがらめにする鎖がある。首や手首にも大きな枷が着けられていた。華奢な身体では、抗いようのないほど、重々しい縛めだった。
だがそれは幻覚のように、次の瞬間には消え去ってしまう。
「寝谷、お前何をしやがった!」
「別に? ただ『お話』しただけだっつの。まぁ、だいぶ効いたっぽいけどさ」
「お前はどこまで性根が腐ってんだ! 篠束に謝れ、そして元に戻せ!」
「あぁクソが。マジでウザすぎんだよお前。調子に乗んなよ。マギカ・コア持ちだからってさ」
「どうしてそれを!?」
「いくらコア持ちでも、異界化が出来なきゃ雑魚と変わんねぇんだよ」
寝谷は掲げた指を鳴らした。パチン。それで周囲の所員達が闘気を宿し始めた。そして、二段式の警棒を構え、終いには殺気を放つようになる。
「この場で殺すぞ、全員で掛かれ。トドメはアタシがやる。後はいつものように処分しろ」
すると、所員達は一斉に攻め寄せてきた。羽澄に目掛けて警棒を振り上げ、躊躇なく振り下ろす。
その攻撃を、羽澄は転がる事で避けた。そして距離を取って構える。
対峙する敵は4人の所員、そして寝谷だ。その全員が羽澄の方を向いている。篠束に対する警戒は薄いように見えた。
「篠束、受け取れ! お前のだ!」
羽澄は篠束の方へモバイルバンドを投げた。草場の上で虚しく転がるばかりで、装着どころか、拾い上げる仕草も見せない。
羽澄は縋るように続けた。
「それを着けて早く逃げろ! そのうち助けが来てくれる、だから今すぐ走れ!」
「ごめんね羽澄さん。私さえ我慢すれば良いだけなの」
「チッ。埒があかねぇ!」
羽澄はすかさず視線を戻した。そこには、殺意に塗れた所員達と、寝谷の嘲笑う顔が並ぶ。
「どうやら、お前らをブチのめさない限りは終わらないようだな。このくだらない茶番は!」
「やってみろクソザコ野郎。ここでブッ殺してやるよ」
羽澄はこの頃になって気づく。右手が小刻みに痙攣する事に。
しかし頼りにすべき剣は無い。羽澄は悲壮な決意を抱きつつ、静かに構えた。




