9 天国から地獄へ
「わあ! いい匂い!」
王様の話によると、夕べ魔鳥を退治した後、偶然見つけたという魔獣の巣。
魔獣(多分私に粘液をかけたアイツね)が留守の隙に、卵を沢山盗ってきたみたいで、今こうして鍋で焼いてくれている。
「全部無精卵だから絆されることはない。安心しろ」
出来上がったのは、灰色の黄身が何とも不気味な目玉焼き。でも匂いも味も、鶏卵よりずっと濃厚で美味しい。
粘液はこんなに臭いのに……永遠の謎ね、と自分の髪をくんくん嗅ぐ。
肉程ではないけど、卵にも保温効果があるみたいで、また身体がぽかぽかしてくる。
次は絶対に肉も捕まえて、オムライスを作ってやるわ!
汗と涎を拭いながらコートを脱ぐと、丁寧に畳んで鞄へしまった。
朝食を済ませ洞窟の外へ出ると、雪は止んでいるものの、雲に覆われた白い空が広がっている。
明るい場所で魔鳥の焼き鳥を見るのが怖かったが、降り積もった雪が綺麗に覆い隠してくれていた。
「で、その『裏鏡』は何処にあるの?」
「さあ、全く検討もつかない」
「そんな! ほら、何か目印は? 星を目指せとか、太陽の下を歩けとか、お婆さんから教えてもらわなかったの?」
「何も。とりあえず深い所にあるらしいから、谷底だの湖だのを見て回っているんだけどな」
ハハッと悠長に笑う王様に不安を覚える。
ちょっとお……とっとと見つけてもらわないと、こっちの目的はどうなるのよ。探している間に皺々になっちゃったら、もう殿下と結婚どころじゃないじゃない!
「とりあえずその前に、良い所へ連れて行ってやる」
導かれるままに一時間程歩くと、平らな雪原の中に、木々や緑が生い茂る小高い場所が現れた。白い大地に浮かぶ丸いそこは、まるで島のようだ。
木々の隙間から中へ入りすぐの所に、一軒の古びた家が建っている。王様は迷わず家の横に回り、カーテンの閉じられた広い窓ガラスをコンコンコンと三回叩いた。
「はいはい」と高い声と共に顔を出したのは、初老のぽっちゃりした女性。
「おかえりなさい、あんた」
「ただいま、マリーン」
……おかえり? あんた? ただいま?
もしかしてここ、王様の妾宅? で、この女性は……王様の愛人?
あれ、ということは、王様って結構お歳? 雰囲気や身体つきからして、二十代だと思い込んでいたけど。
どうしても年齢の釣り合わなそうな二人を交互に見ては、勝手に妄想を膨らませる。
「いつ見てもいい男だねえ。ほんと、亡くなった主人の若い頃そのものだよ」
胸の前でうっとりと手を組む女性。
「マリーンも、いつ見ても綺麗だよ」
「きゃっ。嬉しいこと言ってくれちゃって! 仕方ないから安くしちゃうよ。今日は何が欲しいの?」
「石鹸とタオルある?」
「もちろん! あら、そちらの可愛いお嬢さんは?」
女性が窓から、ひょっこりと顔を出す。
“可愛いお嬢さん”…………ふふっ、素敵な愛人ね!
「旅の連れ。臭いから風呂に入れたいんだ」
「ああっ、その臭い。もしかして魔獣にやられたの? 可哀想に。どっかに消臭効果のある石鹸があったはず……ちょっと待っててね!」
そう言うと、女性はいそいそと奥へ消えて行った。
「此処、一見ただの民家に見えるけど、この国で唯一の雑貨屋なんだ」
「唯一!?」
なるほど、よく見れば、窓の上に『雑貨店マリーン』と書かれた、色褪せた看板が掲げられている。
「旅の物資はいつも此処で調達している。俺の顔が亡くなった夫に見えるらしくて、いつも来ると喜んで安くしてくれるんだ。あっ、王ってことは内緒な」
綺麗な唇にしっと指を当てる彼に、こくりと頷く。
なんだ、そういうことだったの。白薔薇の令嬢ともあろう者が……いかがわしい妄想をしてしまったわ。
それにしても不思議ね。私には赤い髪以外殿下にしか見えない顔が、あの女性にとっては自分の夫に見えている。見たい顔に見えるって、本当に本当なんだわ。
「お待たせ。はい、薔薇の石鹸。お隣のファメオ国から仕入れた貴重な品だよ」
「あっ……」
思わず身を乗り出してしまう。白と薄いピンクが混ざった、薔薇の形の美しい石鹸。それは私が祖国で愛用していた物だった。温かな湯に、ふわふわの泡。毎日当たり前に浸かっていたあの時間は、今思えば幸せの象徴だった。
「綺麗だろう? 香りもいいんだよ。何故だか一つだけ売らないで大事に取っておいたんだ。タオルと合わせて本当は銀貨一枚ってとこだけど、特別に銅貨三枚でいいよ」
銅貨三枚……私の全財産だ。これを払ったら一文無しになってしまう。でも、どうしても欲しい。
巾着袋を取り出そうとした時、横からすっと太い腕が伸び、女性の手に何かを置いた。
「銅貨三枚。はい、確かに」
「いつも安くしてくれてありがとうな。これ、夕べ手に入れた魔獣の卵。よかったら食べて」
「あら、いいの? 嬉しいわあ! どうもありがとう。それで、お風呂はどうする? 家のを貸してあげてもいいけど……泉の方が臭いが取れるね」
「そうだな、泉に連れて行く」
「ちゃんと見張っててあげなよ。昨日から、魔鳥がやたらと騒いでいるんだ。どっかに旨そうな人間でもいるのかねえ」
店の窓が閉まると、王様は何処かへ向かい歩き出した。
「ねえ、お金……」
「ああ、いいよ。顔は無いのに、金は沢山持ってるんだ。王様だからな」
「ありがとう! 助かるわ。私追放されたから、銅貨三枚しか持っていなくて。無事にファメオ国に戻れたら返すわね」
「別にいい。それよりも、ちゃんと臭いを落として来い」
太い指がくいっと差した方を見れば、高い茂みの奥に、白い煙が立ち込めている。雪の重みでしなだれる葉を掻き分けると、そこには人一人がやっと入れる程の、小さな丸い泉が湧き出ていた。
「魔泉だ。魔力を秘めていて、身体を長期間清潔に保つことが出来る。さっきの石鹸を使って、この中に浸かれば臭いも取れるだろう」
「もしかして……これ、温泉!?」
「ああ。朝から昼まで限定のな。それを過ぎると徐々に温度が下がっていくんだ。夕方には冷水になり、夜には完全に凍る。だから今の時間しか入れない」
「すごい……童話で見たけど、本当にあるとは思わなかったわ。頭にタオルを乗せた猿達が、まるで天国みたいって言っていたから、ずっと憧れていたの」
温かい湯気が、風に煽られむわっと顔を包む。それだけで何とも心地好い。
「それはよかったな。じゃあ、さっさと脱いで入れ。俺は茂みの裏で魔鳥を見張っててやるから」
「ええっ!!」
思わず叫んでしまう。
結婚前の乙女が、殿方のすぐ近くで裸になるなんて……
そんな私の心の声が聞こえたのか、彼は呆れた顔で言う。
「覗きやしねえよ。お前みたいな子供っぽいのには一切興味ない。安心しろ」
「……なっ!」
なんてことを!! こう見えて結構胸はあるし、腰もくびれてるんですからね! 失礼しちゃうっ!
湯気にも負けぬ鼻息を噴出する私へ、彼は続ける。
「魔鳥に食われてもいいなら遠くへ行くけど? じゃあな」
…………気付けば、何処かへ行こうとする彼の腕をむんずと掴んでいた。
「そこで見張っててください。お願い」
仕方ない。お母様がお知りになったら卒倒しそうだけど、状況が状況だもん。
茂みの裏に腰を下ろしているらしい王様をチラチラ窺いながら、服と下着を鞄の上へ雑に脱ぎ捨てる。石鹸を手に泉へ向かい、爪先を恐る恐る湯につければ、全身に痺れるような温もりが広がった。
これが……温泉……
少しずつ身体を沈めれば、あまりの心地好さに自然と瞼が下りる。そう、そこはまさしく天国だった。
当たり前の幸せは失ってしまったけど、もう新しい幸せを見つけてしまうなんて……
しばらく動けずにいたが、ハッと石鹸を泡立て、髪やら顔やらを洗い始めた。泉の底から絶えずぶくぶくと湧き出る新しい湯が、汚れた泡を自然と洗い流してくれる。
はあ……さいっこう……
きっと綺麗好きの殿下もお気に召すと思うわ。無事に運命と愛を取り戻したら、此処へ新婚旅行に来たいな。追放じゃなくても、国境を越えられたらいいのだけど。
半分うとうとしながら、そんな夢を見ていた時────聞き覚えのある羽音が耳を貫いた。
まっ……魔鳥!?
空を見上げれば遥か頭上、羽の裏側だけが血の色をした、紫色の巨大な鳥が旋回していた。
一目で分かる……あれは悪いヤツだわ。あんな気持ち悪い色の鳥、みたことないもん。
恐ろしさに固まっていると、鋭い嘴を開け急降下してきた。
食べられる!
咄嗟に湯に潜り縮こまると、ドオンという爆音と共に、泉の水面が大きく揺れた。
これ、きっと王様の魔力だ! レッドダイヤの……
息が苦しくなり、ぷはっと湯から顔を出すと、辺りは焦げ臭いにおいが充満している。チリチリと燃える音に目をやれば、潰れた茂みの上に、魔鳥が羽を広げたまま赤い炎に包まれていた。こんなに激しく燃えているのに、葉の雪は少しも溶けていない。周りを傷付けずに、攻撃したい対象だけ的確に燃やす。すごい魔力だわ。
なんて呑気に分析していると、再び別の羽音が上空に響き出した。一体何羽いるのよ!
急いで湯から上がると、空を警戒しながら身体を拭き、下着を身に着ける。
大丈夫よね? 王様、アイツらも燃やしてくれるわよね?
彼が居るはずの茂みの裏に意識を送ると、ガサガサと葉が揺れた。
良かった! ちゃんと見張ってくれているわ!
と胸を撫で下ろしたのも束の間……葉の間からぬっと現れたのは、見知らぬ数人の男達だった。
顔には眼帯や傷痕、手には槍と剣。下着を纏っただけの無防備な自分を舐め回す彼らの視線は、決して友好的とは言えない。
もしやあなた方は……『盗賊』ですか?
天国から地獄へ、一気に突き落とされる。
追放された罪人に、そう都合良く新しい幸せなんてやって来ないんだわ。
咄嗟に服で隠した素肌を、汗がつうと滑った。