4 のっぺらぼうは愛しの殿下?
走れ、逃げろと脳が命じる前に、凄まじい瞬発力で足が駆け出す。
もう~やだやだやだやだ!!
シュターレ国には、『普通』の人間は居ないの!?
何かに足を取られたのか、躓いて、顔から地面に倒れてしまった。雪の中にぼふっと埋まるも、蒸しタオルのように心地好い。
ああ……魔獣ってば、ほんっとに最高……
危機的状況も忘れ身を委ねていたら、ザクザクと足音が近付き、自分の上でピタリと止まった。
まずい……まずすぎる……
死んだフリをしてみるが、ひょいと蒸しタオルの中から引き上げられてしまった。
「怪我はないか?」
このザラザラした声は……やはりのっぺらぼう……
跡を追われて、呆気なく掴まってしまったんだわ。えーと、えーと、童話をよく思い出して。のっぺらぼうの撃退方法は……そうだ! とりあえず、顔を見ない!
固く目を閉じ、「ありません、さようなら」と答えてみるも、のっぺらぼうの気配は消えることなく、それどころか布らしき物で私の顔を拭き出した。
「驚かせて悪かったな。怖がらずに、落ち着いてもう一度目を開けてみろ。今度はちゃんと顔が見えるから」
きっと罠だわ……リリエンヌ、絶対に開けちゃ駄目よ!
一層力を入れた瞼に、ふわりと温かい風が吹いた。
「逢いたいヤツに逢えるかもしれないぞ」
逢いたい人……
その言葉の途中から、聞き覚えのある高い声に変わったことに気付き、思わず瞼を緩めてしまった。
瞳に飛び込んだその顔に、ハッと息を呑む。
もう……のっぺらぼうなんかじゃない。
サラサラのブルーブラックの髪の下には、美しいパーツがバランス良く並ぶ、細面の輪郭。男性にしては赤味のある、艶やかな薄い唇。細く高い鼻梁。際立って美しいのは、切れ長の神秘的な青い瞳だ。角度によって青から濃紺まで。光を湛えながら、様々な色を魅せてくれる。
この世で一番……愛した瞳。
「……皇太子殿下」
私を迎えに来てくれたの?
そうよね……おかしいと思ってた。仮にも一度は愛した女から、魔力を全部取り上げて、身寄りのない極寒の地へ放り出すなんて。いくらなんでも酷すぎるもん。
「殿下!!」
広い胸板にしがみつけば、涙がボロボロ溢れて止まらない。
「……おい! 落ち着け! 俺は “殿下” じゃない! お前の目にだけ、“殿下” に見えているだけだ!」
んもう、照れちゃって! 何冗談言ってるの! こんな顔も声もそっくりな別人が居るワケないでしょ。ほら、身体だって、こんなにムキムキで逞しくて…………ムキムキ?
やっと胸板から離れて、その全身を眺める。
違う……これは殿下の身体じゃない。殿下はこんなに筋肉質じゃないもん。
転びそうになった時、たった一度だけ抱き留めてもらった、懐かしい胸を思い出す。
殿下はもっと……なんというかしなやかで。こんなに固くて、ムキムキの筋肉じゃないの。手足ももっとスラッと長くて、こんなにゴツゴツしていない。
恐る恐る視線を上げれば、太く粗野な首には不釣り合いの、優雅な美貌が輝いていた。
「……偽物?」
「人聞きが悪いな。勝手に見たいものを見ているくせに。それよりも、その鼻水をどうにかしてくれないか? 凍って橋が架かりそうだ」
偽物が着ている毛皮と自分の鼻との間には、涙と一緒に溢れた鼻水がびよーんと伸びている。
「あら、ごめんなさい」
ハンカチでササっと回収すると、改めて偽物に向き合う。本当に……顔と声だけは、殿下そのものなのに。
「俺の本当の顔は、魔力で他人には見えないようにしてある。勝手に見たい顔に映るんだよ」
「……のっぺらぼうじゃない?」
「ああ、人間だ。安心しろ」
よかったあ……! 顔を奪われることも、殺されることもないみたい。
「大抵は会ってすぐに、誰かしらの顔に見えるはずなんだが。頭が空っぽなヤツほど、のっぺらぼうに見えるらしい」
「なあんだ、そうだったのね!」
「怪我もなさそうだし、鼻水も切れたし、じゃあな」
「ええ、じゃあね」
月とは逆の方角へ歩き出す偽物。逞しい背中は次第に遠くなり……遠く……遠くなるはずが…………
急に止まった背中にドンと激突し、殿下の顔がくるりとこちらへ振り向いた。
「おい! なんで付いてくるんだよ!」
「足が勝手に動いちゃうんだもん! 殿下の顔が何処かへ行っちゃうと思ったら……離れがたくて」
面倒臭そうに首を曲げ、ブルーブラックの頭をポリポリと搔く偽物。
殿下は絶対にこんな下品な仕草をしない。偽物だって、分かっているのに。
「こんなに警戒心のないヤツは初めてだ。俺が悪人だったらどうするんだよ。のっぺらぼうよりもずっと怖いだろうが」
「殿下の顔が悪人なワケないでしょ」
「お前……本当に頭が空っ……」
偽物は何かを言いかけて、ため息を吐いた。
「大体、何でこんな夜に女が一人で歩いてるんだ。あっちには宿も民家もないぞ」
「出来るだけ夜のうちに歩きたいの。月が隠れたら、方角が分からなくなっちゃうから」
「何処へ行こうとしてるんだ?」
「王宮」
偽物の眉がピクリと動く。
「まさか……王宮まで、歩いて行こうとしてないよな?」
「歩くわ。馬車に乗るお金なんてないし」
呆れたように、更に深いため息を吐かれる。
「女の足で一体何日掛かると思ってるんだ。そこまでして、王宮に何の用だ?」
「王様にお会いしたいの」
「……王に?」
一気に怪訝な顔に変わる偽物。
大変……ペラペラ喋りすぎたわ。殿下の顔だから、気が緩んでつい。
「王に何の用だ?」
「……ちょっと、ちょっとね! すっごくつまらない用事なんだけど」
「つまらない用事で、一国の王が会うと思っているのか?」
「それは……私も無理なんじゃないかなって思うんだけど。でもね、ほら! 私可愛いでしょ? とりあえず王宮まで行って、お願いしてみるわ」
「とりあえず……ね」
可愛いのところを華麗にスルーした偽物は、腕を組み、やや怒った口調で言った。
「つまらない用事の為に、そんな軽装で、生死に関わる長旅を?」
「生死? ああ、大丈夫よ! 魔獣を食べたから、身体ポカポカだし!」
「危険は凍死だけじゃない。人肉を好む魔鳥に、生き血を好む魔蛇。盗賊だってわんさか居るぞ」
魔鳥に、魔蛇に、盗賊…………?
なんて物騒なのよこの国は! ……魔獣は美味しいけど。
「お前、何か武器は持っているのか? 魔力は?」
「魔力は、この前まではあったんだけど今は空っぽなの。武器はこの可愛さだけ」
頬っぺたをツンと指差し、白薔薇のスマイルを浮かべてみる。
「……なるほど、頭だけじゃなく、魔力も空っぽなんだな」
ん? さっきから何か引っ掛かるわね。
偽物は私をチラチラ見ながら、顎に手を当て思案顔をしている。
……どうしよう。きっと怪しまれているんだわ。
でもこの顎に手を当てる仕草。これは殿下もよくやってたのよね……色っぽくて大好きだったな……
偽物なのにうっとり見惚れていると、美しい唇から予想外の提案をされた。
「一緒に付いて行ってやる」
「え?」
「王の元へ行きたいんだろう? 一緒に付いて行ってやるよ。この辺りは結界も張られていないし、特に危険だ。お前一人じゃ、明日の朝にはきっと骨になっているだろうな」
骨……
想像し、プルプルと首を振る。
「……いいの? 私、お金もあんまりないし、お礼出来るようなもの何も持っていないんだけど」
「お前…………まあいい。偶然会ったのが俺だったことに、生涯感謝するんだな」
なによ、偉そうね。でも、こんなムキムキの人が付いてきてくれたら、すっごく心強いわ! 殿下の顔とも離れがたかったし。
「礼なら、それを今夜の食事に半分くれればいい」
偽物は、ずっと腕に抱き締めていた、魔獣の足を指差す。
「いいわよ。どうもありがとう。あっ、でもあなた、火は熾せる? 私、何も道具を持っていないの。コレ、生だからきちんと加熱した方がいいわ」
「……極寒のシュターレ国の長旅で、火熾しの道具すら持っていない愚か者はお前くらいだろう。ところで、何であっちへ向かって歩いていたんだ? 王宮へ行くんだろ?」
「王に会いたいなら、月の方角を目指せって教えてもらったの」
「誰に?」
「占い処のお婆さんよ」
「……それって、もしかして鷲鼻に金銀の歯の?」
「そう! あなたも水晶で占ってもらったの?」
偽物は一瞬遠い目をすると、ニヤリと笑い、「ああ」とだけ答えた。
「……いいさ。占い通り、月を目指そう。なんだか面白そうだ」
軽快にザクザク歩き出す逞しい背中に、愛しい人を重ねながら、再び追いかけた。




