23 帰っちゃいけない
「手……を?」
「うん……繋いでいて欲しいの」
「ツナイデイテトイイマスト?」
……また変な声になってる。なんだかじれったくなって、私は掴んでいる手に強く指を絡めた。
「こうして眠りたいの。……ダメ?」
「ダメ……カ……ダメデナイトカ……ソウイウモンダイデハナク……イエ、ヤッパリダメダトオモイマスヨ」
「どうして?」
「ドウシテカ……トイイマスト……ソレハ……」
もごもごあわあわと動く口からは、何も言葉が出てこない。変なのと内心首を傾げながらも、もっと近くに彼を感じたくて、繋いだ手に顔を寄せた。
さすが公爵家。三個で幾らとかじゃない、王室御用達の高級な石鹸の香りね。だけどその奥の、彼自身のにおいを嗅ぎたくて。くんくんくんくん鼻を動かしている内に、唇がチュッと手に触れてしまった。
……ぷるぷるとは程遠いゴツゴツだけど。手もこんなに熱いのね。唇ほどじゃないけど、あったかくて気持ちがいいわ。夢中でチュッチュッと吸い付いている内に、ふわりと睡魔が押し寄せる。今日は色々……あったから……眠い……わ……
「アノ……リリエンヌ……サン? リリ…………」
レッドの変過ぎる声と、口からつうっと垂れる涎の感覚を最後に、ふっと意識が遠退いた。
◇
愛らしい小鳥のさえずり。花の香りのする部屋。そしてふっかふかのベッド。
これよこれ。これこそが白薔薇の令嬢にふさわしい朝よ。ムキムキの王様とハードな野宿をする夢を見ていたせいで、つい下品な伸びをしそうになるけど……こんな優雅な朝は、口に華奢な手を添え、ふわあと可愛らしく欠伸をしてみる。
パチパチと瞬きをすれば、高い高い天井に豪華なシャンデリア。あら……私の部屋よりも随分立派な気がするわ。ホテルのスイートルームにでも泊まっているのかしら。
あるあるよね。旅行に来て目が覚めた瞬間、パニックになっちゃうこと。ココハダレ……ワタシハドコ? ってやつ。そういえば誰かが、そんな変な喋り方をしていた気が……あっ、そうそう! 夢の中のあの王様だわ。
王様……優しくて、強くて、温かくて。とっても素敵な男性だったわ。どうせ夢なら、はしたなくても何でもいいから、あの立派な筋肉に触っておけばよかった。ガウンの中の……ムキムキの……
涎を擦りながら横に手を伸ばすと、熱くて厚い何かに触れた。
うん……触れたらこんな感じだったかも……王様の……レッドの素晴らしい胸板。固くて弾力も素晴らし……
「……おい」
ん?
……熱くて厚くて固い何かの方から聞こえる声。
小動物みたいに身を縮こませ、「う~ん」と可愛く言いながら、そちらへ寝返りを打った。
「…………ひっ!!」
そこには赤い眉をしかめ、不機嫌そうな顔でこちらを睨む……レッドが居た。
夢じゃ……なかったのね。
青い目は充血していて、その下には黒いクマが出来ている。心なしか頬も痩けている気が……
「あの……眠れた?」
私の問いに、レッドのこめかみがピクリと動く。
「眠れる訳がないだろう……あんな馬鹿力で手を掴まれて、おまけに……涎まで垂らしやがって」
まあっ、こんなにか弱くて可愛い私が、馬鹿力に涎ですって!? 失礼しちゃう!
……と顎に手をやれば、確かに乾いた涎の跡に触れた。見ろとばかりに突き出されたレッドの手や腕も、それらしきものでカピカピになっている。
「あら、ごめんなさいね」
素直に謝ったのに、レッドのこめかみは更にピクピクと震え出す。
「とりあえず……その手をどけてくれないか? 俺もいい加減我慢の限界なんだが」
手?
彼の顔から視線を落とせば、立派な喉仏が主張する逞しい首。その下には太い鎖骨と、茶色の艶々のガウン。その襟元に潜り込んでいるのは……私の…………ということは……さっきからもにもにと触っているものは……本物の胸……
「きゃあっ!!」
慌てて手を引き抜き、ぱっぱっと振り払う。
「お前……汚いものでも触ったみたいに……! もう許せん!」
大きな両手が私の顔に伸び、むにっと頬っぺたをつままれる。「この涎だらけの悪女め。どう処罰してくれようか」と言いながら、むにむにと上下左右に伸ばされる。
「おひゃしゅけくらひゃい~」
「うるさい」
その内頬っぺただけじゃなく、涎だらけの唇までつままれる。魔獣の口みたいにびよんと前に引っ張られ、何も喋れずもがいていると、頭の上でパタパタと羽音がした。
あら、ローズも起きたのねと、涙目でさつまいも色の羽を見上げていると……ぴゅーっと、何やら黒いものが吹き出し、レッドの顔を直撃した。
「ふん! ふんふふん! ふんふんふん!」
威嚇しながら、私を守るように羽を広げるローズ。
レッドは私の顔からするりと手を離し、目やら口やらを拭うと力なく言った。
「お前……蝶になっても粘液を出せるのか……」
花の香りから、一気に生臭い臭いへと変わる室内。
強烈な刺激に、これは夢じゃなくて現実なんだと改めて思う。
「ふっ……ふ……あはははは!!」
真っ黒なレッドの顔に、白薔薇の令嬢らしくない下品な笑い声を上げてしまう。
「ぶっ……不細工……あはは……」
「ふふふふふ~ん」
「お前ら……うえっ、ペッペッ」
ちっとも優雅じゃない可笑しな朝。でもこの騒がしい現実が、堪らなく嬉しかった。
◇◇◇
────あれから一週間が経った。
最初は感動していた公爵家の暮らしにも、何だか飽きちゃって。本を読みすぎて凝り固まった肩をぐりぐり回しながら、高級ソファーにお行儀悪く足を投げ出していた。
全く……殿下はいつになったら整理がつくのかしら。創造主に何度か様子を尋ねたけれど、あれ以来殿下には会っていないって言うし。
こんなに待つなら、もう二人でシュターレ国に帰ってもいいんだけどな。あの命懸けのスリリングな旅が、今では恋しく感じるんだから不思議。
……なんてね。ダメよ。レッドの顔だけは、何としてでももらわないと。
まさか、ずっとここに放置する気じゃないわよね? 最初から整理する気なんかさらさらなくて、ただ軟禁しているだけだとしたら? 散々贅沢をさせて、戦意を削いで……油断しているところをグサッと……
震える身体を擦りながら向かいをみれば、呑気にチェスの駒を動かすレッドの姿がある。
「ほら、チェックメイトだ」
「ふふん!? ふ……ふん……ふふん……」
「そんなうるうるしたって俺は絆せないぞ。お前の負けだ」
「ふん! ふふふふん!」
「もう一回? 飽きたよ。お前弱くてつまらないし。……うわっ、分かった、分かったよ! やるから、もう一回やるから黒いのだけは出すな!」
「ふふん」
ほら……ほらほら、最強のシュターレ王も、こんな気の緩んだところに突然攻め込まれたら……!
私はベッドの下から槍を取り出し、壁に飾られた女神の絵画へ向かい構える。
「リリー、何やってるんだ?」
最近ではもう普通に私をリリーと呼ぶレッド。リリエンヌより簡単だし、演技は徹底した方がいいからと言われたけれど。平然と呼ぶ彼に対し、私はどうにも慣れなくて。その度に、甘く熱いものが胸に疼いてしまう。
「突きのイメトレよ。いつ敵が襲ってくるか分からないでしょ? 」
「暴れていたら、それこそ怪しまれて襲われちまうだろ。大人しくしてろ」
「最近は使用人達もあまり近寄らないから平気よ。貴方が臭くてよかったわ」
「ふん。壁に穴だけは空けるなよ。それにしても殿下のヤツ、どれだけ整理とやらをしたら気が済むんだ。……あーあ、早く魔泉に入りたいなあ」
魔泉に……その時、レッドの隣に私は居ないんだろうなと考え、胸がつきんと痛む。
……本当は、あれからずっと考えていた。もし殿下が運命を元に戻す決断をしたら、私はもちろんシュターレ国には帰れない。殿下が歪んだままでいいって言っても、レッドは力ずくで運命を戻そうとするだろうし、私もそうして欲しいと願っている。ラビニアが殿下じゃなくてレッドを愛してくれたら……そうしたらきっと、素敵な顔をもらえるんだから。
つまり気付いてしまったの。殿下の決断がどちらにしろ、私はもうシュターレ国には帰れないし、レッドの為にも帰っちゃいけないってことに。
なんとなく……レッドの顔にも寂しげなものが浮かんでいる気がするのは、私の心が映し出す勝手な願望ね。
チェス盤の上で、もう何ゲーム目かの駒が動き始めた時、緊張を孕んだノックの音が響いた。
「皇太子殿下がおいでになりました」




