2 入れ替わった運命
……叩けど叩けど、何の反応もない。
ふと自分の手を見下ろせば、防寒の役目など全く果たさぬレースの手袋の下で、白い肌が真っ赤に腫れていた。
こんな……こんな可哀想な手で、必死に叩いているのに! どうして誰も飛んで来ないのよ!
……そりゃそうか。
魔力云々の前に、人っ子一人居ないんだから。
平らで殺風景な大地を、ヒュウと粉雪混じりの風が抜けて行く。
とにかく……今はとにかく、屋根の下へ行きたい! 私は力の限りに叫んだ。
「すびません! 誰か居ませんがあ!? 占って欲しいんですけど! 今すぐに! じゃないと凍っぢゃ……うっ……ゲホゲホ!」
吸い込んでしまった冷たい雪が喉を直撃し、派手に咳き込む。苦しくて、情けなくて、目がカアッと熱くなった。
……泣かない。泣くもんか。
泣いたところで、誰も居ないし誰も助けてくれない。無駄な涙は、みっともない氷柱になるだけよ。
今にも滴りそうな塩っぱいやつと格闘していると、ギイと鈍い音を立てながら、分厚い木の扉が開いた。
「すまないねえ、御不浄に行っていたもんで。やれやれ、歳を取ると、何するにも時間が掛かって嫌になる」
……黒ずんだ肌と、いぼのある大きな鷲鼻が特徴的な老婆がそこに立っていた。ふわあと欠伸をした口からは、金や銀の不揃いの歯が覗いている。
昔読んだ童話に出てきた……その風貌はまさしく……魔女。
ゾッと立ち尽くす私を余所に、老婆はくるりと背を向け、部屋の奥へずんずん進んで行く。ヒュウと室内へ吹き込む風に、曲がった背中をぶるりと震わせると、迷惑そうな顔で私を振り返った。
「入るなら早く入って、戸を閉めとくれ。寒くてかなわない」
“早く入って”
入って…………いいのね!?
ざざっと雑に雪を払うと、大股で室内に入り、すぐに戸を閉めた。
温かい……冷たい風も雪もない。
屋根がある場所って、それだけでもう天国だわ。
「奥へお入り。火もくべてるから」
鋭い爪の伸びたシワシワの手が、奥の部屋からゆっくり手招きする。
……火!!
童話とそっくりなこのシチュエーション。もしかしたら煮て焼いて食われるかもしれない。
だけどこの寒さから解放されるなら、もう何だって構いやしない。(むしろ温かい大釜で、グツグツ煮てちょうだい!)
心の中ではスキップしながら、感覚のない足をよろよろと老婆の元へ向けた。
パチパチ燃える火に、自ら身体を突っ込む勢いで暖炉の前を陣取っていると、むわんと野生の香りが立ち昇るカップを差し出された。
赤茶色の濁った液体の中には、何かの骨や、どす黒い……肉片らしき物が浮かんでいる。
白薔薇の令嬢だった頃には、見たこともない怪しげなスープ。チラリと老婆を見れば、同じ物をずずっと啜り、へっへっと笑いながら唇を舐めていた。
拒否する脳とは反対に、身体が早く早くと急かす。
呆気なく勝利したのは……やはり凍死寸前だった身体の方で。カップを通して伝わる温もりに、気付けば夢中でスープを啜り、怪しい肉を貪っていた。
「魔獣の骨と、臓物で煮込んだスープだ。旨いだろう?」
「ええ、とっても! 今まで食べたスープの中で一番!」
ん……? 魔獣って……シュターレ国に生息する獣よね。
確か胴はヌメヌメした鱗で覆われていて、手足は合わせて八本、頭が三つに、目は五つずつ。筒みたいに突き出た口からは、黒い粘液を吐くとか。
そんな物が……今私の胃に……
ひきつった顔で空のカップを見つめていると、老婆がサッと取り上げ、お代わりを注いでくれた。あの野性味溢れる香りが、また鼻腔を刺激する。
まあ……いっか! いただきます!
『魔獣は美味』
空っぽの脳と胃に、完全にインプットされた。
数分後────
魔獣で膨れた胃をふうと擦っていると、老婆がテーブルに、重たそうな水晶玉をドンと置いた。
「占って欲しければ前へお座り」
そうだった……ここはレストランじゃない。私は占ってもらいに来たんだわ。
暖かくて美味しすぎて、当初の目的をすっかり忘れていた。
よいしょと腰を上げると、水晶の前に移動し座る。
うわあ……なんて美しいんだろう。
透明なのに透明ではない。神秘的な輝きが折り重なり、球体を際限なく包んでいた。老婆は向かいでそれに手をかざすと、低い声で呟く。
「……で? 今後の道標が欲しいと?」
そう! ……何で分かるの?
驚く私をみて、ニヤリと笑う。
「道標を知るには、辿った道を知る必要がある。まずはあんたの道を振り返ってみよう」
水晶玉の奥を覗きながら、何やら難しい顔をする老婆。自分も覗き込んでみるが、さっきと何も変わらない。濁ったその目には、一体何が見えているのだろう。
「……どうやらあんたは、正しい道から外れてしまったようだ」
「正しい道?」
「ああ。歪んだ道に迷い込み、誰かの運命と入れ替わってしまったらしい」
「歪んだ道……」
意味がサッパリ解らず、繰り返すことしか出来ない。
「もう少し詳しく見てみよう」
老婆はさっきよりも念入りに手をかざし、再び奥を覗く。
「うーん……どうやら、“誰か” が “誰か” ではなくなったことが原因なようだ」
余計に解らない。
ぽけっとする私に、老婆は神妙な面持ちで尋ねた。
「あんたは神の存在を信じるかい?」
「……ええ、もちろん!」
この世に神を信じない人間など居るのだろうか?
命も、魔力を授かるのも、神の御意思があるからだ。
「その通り。神はこの世の創造主だ。そして、その創造主が住む世界が、この世とは別に存在する」
「神様の住む世界ってこと? ああ、神話で読んだことがあるわ。天上にあるって」
「……天上かは知らんがね。その世界から、ある魂が降りて、“誰か” の中に入ってしまった。見た目は “誰か” のままだが、 “誰か” とは全く別人になったのさ。転生したというべきか」
転生……
「あんたの周りで、急に別人のように変わった人間は居ないかね? 言動、性格……オーラの急激な変化」
オーラ!!
私はバッと立ち上がる。
居るわ! 二人!
ピンクから緑に変わった皇太子と、黒から白へ変わったラビニア嬢!
でも……ピンクのオーラは、恋愛感情だから変わりやすい。昨日はピンクでも、今日は緑なんてことはザラに……うっ、また失恋のダメージが。
とすると……ラビニア嬢?
よくよく考えれば、あれだけ黒く淀んでいたオーラが、短期間で清らかな白に変わるなんてことはあり得ない。移り変わりやすい恋愛感情と違い、あの黒いオーラは、彼女の人間性を表していたのだから。
最後に見た夜会での姿を思い出せば、表情も仕草も言動も……纏っていたドレスのタイプでさえ違った。
“別人” と言われれば、ものすごくしっくりくる。
「中身だけが別人になったってことね?」
「そうだ。そのことが周りの人間関係に影響を及ぼし、道を歪め、あんたの運命と入れ替わった」
人間関係……入れ替わる……
そうよ、まるで私とラビニア嬢の運命が入れ替わったみたいだったじゃない。
殿下は確かに私を愛していた。オーラを見間違えたりなんかするもんか。あのままいけば、婚約して結婚して、私は皇太子妃になるはずだったのよ。
逆にラビニア嬢は婚約破棄されて、怒りのままに私を黒薔薇の魔力で攻撃して、国外追放されていたのかもしれない。
そうよ……そうよそうよ! 魔力にもずっと違和感があったじゃない!
私の白薔薇の魔力に攻撃性はないはずなのに、あの時は何故か黒薔薇の魔力のように勝手に刺が伸びて、彼女を傷付けてしまった。
嫉妬で興奮していたのは確かだけど、何を言ったのかも、攻撃に関しての記憶もどこか曖昧で。
だとしたら……悔しい。とんでもなく悔しい。
急に何処かからやって来て殿下を奪った別人も、自分から何処の誰かも分からぬ別人へ、アッサリ乗り換えた殿下も。
ラビニア嬢本人に奪われるなら納得出来るけど(元々彼女のものだし)、これは納得出来ない!
別人め……なんてしたたかであざといの!?
この恨み、晴らさでおくべきか!
元気になった足でキーッと地団駄を踏む私を、老婆は愉快そうに眺めながら言う。
「道標は訊かなくていいのかい?」
ピタリと足を止め、椅子に戻ると身を乗り出した。
「教えて……正しい道に戻る方法を教えて」
「……あんたが戻る方法はたったの一つ。“レアキャラ” を見つけて、彼の魔力を借りることだ」
れあ……きゃら。 彼ってことは、男性?
「何処に居るの? その人」
「さあ。でも地位なら分かる」
「地位……何処かの貴族? 教えて! 一体何者?」
「……我がシュターレ国の王だよ」
王……さま……
「レッドダイヤの魔力を持つ王と、共にファメオ国へ戻り、歪んだ道を復元する。水晶はあんたへそう示しているよ」