16 愛の魔力
「ローズ! 苦しくないの?」
「ふんふんふ~ん、ふんふ~ん」
空に向かって叫べば、なんとも心地好さそうな返事が返って来る。
「……苦しくないみたい」
ホッとし、目線を少し下へ移すと、レッドが呆然と空を見上げていた。
「どうなっているんだ……」
しばらくすると、空から私へと視線を移す。
「白薔薇の魔力か? 身体を変化させる力があるのか?」
「知らないわ。こんなの初めて。……でも魔力なのよね、きっと」
「白薔薇の魔力は、人を絆す以外にどんな力があるんだ?」
よくぞ訊いてくれましたとばかりに、私はふふんと胸を張る。
「白薔薇の魔力は愛と癒しの象徴です。愛らしく優しい美貌の私から繰り出される主な魔力は治癒で、怪我や病気を癒すことが出来ます。あと、実はもう一つ……ここだけの秘密にしてね……人の感情を、纏うオーラの色や濃淡から判断出来る力があります」
「……それだけか?」
「それだけ……って、これだけあれば充分でしょ?」
膨らみ出した頬を大きな手に潰され、ぷしゅうと空気が抜けて行く。
「愛と癒し……“愛”の方の力かもしれないな」
「そうなのかしら。“愛”は、人を絆すのと、オーラを見る力だけかと思っていたわ。人に作用するっていうよりも、自分の為に役立つ力かと。だったらすごいわね」
「ああ」
「でも私、追放される時に魔力は全部奪われたはずだけど」
「眠っていた力までは、奪いきれなかったのかもしれないな」
「……やったあ! 役に立つか分からないけど、魔力ゼロよりあった方がいいもん。ねえ、殿下には内緒にしてね」
うるうると見上げれば、レッドが微笑みながら私の頬をつねる。
「言う訳ないだろ。大切にとっておけ」
「うん」
「それより……」
コホンと咳払いし、もじもじと変な動きをするレッド。
やだ、ギリギリまで我慢するなんて子供みたいね。その辺でしてくればいいのに。
「その……俺も国境を越えたいんだが……その……ローズみたいに……その……魔力で」
「もちろんいいわよ」
「……いいのか?」
「当たり前じゃない。貴方が一緒に来てくれなきゃ、誰が私達を守ってくれるの?」
「そうか……そうだよな……じゃあ……よろしくお願いします」
そう言うと、何故か目を瞑り腰を屈めるレッド。
……何やってるの? よく分からないけど魔力ね、はいはい。…………ん? 私、さっき、どうやってローズを変化させたんだっけ?
涙を拭いてくれて……可愛かったから手に乗せて……すりすりして……そして…………
やっとレッドの行動と結びつき、きゃあっと悲鳴を上げる。
「……なんだよ。腰が辛いんだから、早くしてくれ」
浅黒い顔はいつの間にか赤く染まり、薄い唇は不満げに尖っている。
早くって……でも…………しないと彼だけ国境を越えられない。仕方ないわね……えいっ!
大きな手を掴み、ゴツゴツした甲にチュッと唇を落とす。すると、薄いピンク色の光が腕を一気に駆け上がる……が、肩の辺りで止まり消えてしまった。
「……どうして?」
「……手じゃ駄目なんじゃないか? ほら……ローズより身体の面積も広いし」
そんな……
「じゃあどこにすればいいの?」
「そりゃあ……」
またもや目を瞑り、顔をずいっと近付けられる。
仕方ないわね……えいっ!
チュッと唇を落とした浅黒い頬から、光が溢れ身体を包む……が、ちょうど屈めている逞しい腰の辺りで止まってしまった。
もうっ! 身体が無駄に大きすぎるのよ!
「そこじゃないらしいぞ。もっと……ほら、あるだろ?」
遠慮がちに、ちょんと指差した場所は……
「無理よ……無理無理! そこは恋人同士の神聖な……」
「何だよ。殿下と同じ唇なんだから、抵抗ないだろ」
「そういうことじゃなくて……」
殿下と同じでも殿下だなんて思えないわよ。これはレッドにくっついているレッドの唇で……レッドと……
「このままじゃ一生国境を越えられないぞ。別に……俺は全然気にならないんだから、お前も気にするな。ほら、とっとと済ませろ」
気にしないってなによ! 女の子の唇をなんだと思ってるの? レッドにとってはそりゃおままごとみたいなもんでしょうけど、私は初めてなのよ! 結婚式まで大事に大事にとっておきたかったのに……はあ……
うう~~~~~仕方ない! えいっ!
少しだけ触れるつもりが、勢い余って、思ったよりもしっかり重なってしまった。
……薄く見えた唇は、意外と肉厚でぷるぷるしている。レモンの味もイチゴの味もしないけど、太陽と触れたらこんな感じかなってくらい熱い。
これが…………ファーストキス。
よろけた身体を、咄嗟に支えられる。くらりと揺れる視界に映ったのは、巨大なピンク色の光だった。
消えゆくその中から現れたのは、特に変わりのないレッドの顔。ローズのように蝶に変化する訳でもなく。
あっ……同じじゃない! 変わっているとこ見いつけた!
真っ赤な顔の中、殿下の薄い唇が、肉厚のぷるぷるのオレンジ色の唇に変わっている。さっきの感触を思い出し、ああ! と納得した。
納得……なっとく……
バッと自分の唇を押さえれば、まだ熱が残っている気がする。
何……キスって、終わった後までこんなに熱いものなの? 唇の余熱に意識を集中すればする程、全身が沸騰していくみたい。
「ねえ……貴方は本当に気にならないの?」
「……ほえ?」
レッドは焦点の合わない目で、間の抜けた返事をする。
「こんなに熱いのに、気にならないの?」
「気に……な……気にならない訳……」
一瞬ひゅっと息を吸うと、レッドは唇を押さえ、身体を反らしたり屈めたり、とにかく忙しなく動き出した。
「大変! 冷やす?」
雪を手で掬いレッドの唇へ持って行くも、激しく首を振られる。
「そんな……そんなもったいないこと……! いらない! 冷やさない!」
「熱くないの?」
「大丈夫だ! こんなの何てことない! もったいない! いや……全っ然気にならない!」
「そう……ならいいけど」
手から伝わる冷たい雪の感触と、挙動不審で支離滅裂なレッドを見ている内に、自分の熱が冷めてきた。
私は掬った雪を、シュターレ国へポンと戻す。
「見たところ唇しか変わっていないんだけど……どうかしら」
「もう一度……確かめてみよう」
ギュッと手を繋ぎ、森へ足を踏み入れる。さっきとは違うレッドの穏やかな表情から、苦痛を感じていないと分かり、胸を撫で下ろした。
もう一歩……残った片足も完全に中へ入れるが、異変は見られず。無事にみんなで国境を越えることが出来た。
「やった……」
「やったな……」
思わず抱き合い、わあと喜び合ってしまう。ファメオ国の温かい気温にも負けぬ互いの熱に気付くと、さっと飛び退くように離れた。
「そういえば……レッド、貴方、服も変わっているわ」
ファーストキスの刺激に気を取られていた私は、彼の全身を見てやっと気付く。分厚い毛皮やブーツなどの防寒具、その下に隠れた旅用の動きやすい服装から一転、王族や上級貴族が身に着けるような高級服に変わっていたのだ。
肌触りの良さそうな上等なシャンパンゴールドの絹のシャツには、襟や袖に美しい刺繍が施されている。
その上には鮮やかなレッドブラウンの、これまた見事な刺繍の上品なデザインのベスト。シャツとの相性がとても良い。
深みのあるチョコレートブラウンのトラウザーズは、今まで毛皮やブーツに隠れていた、彼の筋肉質な長い足を魅惑的に引き締めており、おまけに同系色のピカピカの革靴まで。
そしてトラウザーズと同じ色のクラヴァットには、金糸で刺繍された見事な紋章が光っていた。
素敵……どっからどう見ても王様じゃないの。
「いい服だな。好みにも体型にもピッタリだし、何よりこの国の気候に適している。……ありがとう、リリエンヌ」
やっ、やだ……! そのぷるぷるの唇で微笑まないでよ!
ぶんぶん手を振っていると、額につうと汗が流れる。それもそのはず……ふと自分を見下ろせば、毛皮のコートに身を包んだ、いかにもシュターレ国からの旅人といった姿のままなのだから。
「自分に魔力はかけられないのか?」
「そうね、やってみるわ。あ……でも……」
先にコートだけを脱ぎ、丁寧に畳む。
「元に戻せなくて、消えちゃったら嫌だから」
「そうか……じゃあ俺の荷物に入れといてやるよ。重いだろ?」
「ありがとう」
優しく差し出された手に、大切なコートを預けた。
私も薄手のお洋服にして! 出来れば可愛くて、レッドみたいに豪華なのを! と念じながら自分の手に唇を落としてみるも、あの光は少しも現れない。
「……人の為にしか作用しないのね。ちょっと損した気分だわ。せっかくタダで可愛くなれると思ったのに」
諦めて地味なワンピースの襟をつまみ、風を入れながらパタパタと扇ぐ。
こうして彼と並ぶと、まるで王様と召使いみたいじゃないの。
膨れる私を見てふっと笑ったレッドは、自分のクラヴァットをするりと外す。私の背に回ると、それでふわふわの髪を一つに束ねてくれた。
「ほら、これで少しは可愛く見えるだろ? 涼しそうだし」
「せっかく似合っていたのに……いいの?」
「いいよ。お前が出してくれたものなんだから、全部お前のものだ」
微笑む唇も……くしゃりと皺が寄る浅黒い頬も……立派な鼻も……赤い髪も眉も睫毛も。全部が優しくて。
瞳と輪郭も、殿下じゃなくてレッドのものが見たい。たとえそれが、私が勝手に想像しているレッドの顔だとしても。ラビニアに本当の顔をもらったら消えちゃう、一時だけの幻だとしても。
……なんで胸がキリキリするんだろう。おかしいな。
「さあ、とりあえず森を抜けるぞ。見張りの兵が潜んでいるかもしれないから、手を離すな」
「うん」
しっかり繋いだ手の上に、「ふんふん」と可愛い蝶が嬉しそうに止まる。
「レッド、唇は鏡で見なくていいの?」
「街へ出てからのお楽しみにするよ。それに、お前が見てくれている顔なら、いい顔に決まっているしな」
「そう?」
「ああ、間違いない。きっと好きになる」
祖国の暖かい青空、暖かい風……そして何よりも、温かな貴方の手が心地好かった。




