12 裏鏡
外はもうすっかり夜の帳が下りていて、地面の雪と雲のかかった月が、呼応するように光っていた。
ローズのお母さん……を食べたせいで、まだ身体は温かいけれど、踏みしめる雪は凍り、ざくざくと音を立てている。
本当はきっと、相当寒いんだわ。何処かに柔らかい雪が残っているといいんだけど。
レッドと共に、茂みや木の上に手を伸ばしてみるも、凍りついた固い雪だけだ。試しにローズの口元へ持って行くも、いらないと首を振る。
「困ったわね……どうしよう」
「あの雲を見るに、朝になればまた雪が降りそうだ。一晩くらい空腹でも死なないだろ」
「だけど……腹ペコで眠るなんて可哀想じゃない」
「そうは言ってもなあ」
「凍ったやつを溶かしてみたらどう?」
そんな話をしていると、ローズがうねうねスルスルと私の腕から抜け出し、何処かへ歩いて行く。
「おっ、逃げたか? じゃあな」
手を振るレッドをくるりと振り返り、真ん中の顔をぷくっと膨らませる。そしてうねうねで手招きをした。
「付いて来てって言ってるわ。何かあるのかしら」
ローズの方へ駆け出すと、後ろでレッドが叫ぶ。
「おい! あんまり結界から離れるなって! ……あ~もう仕方ねえな」
あっという間に横に並ぶと、大きな手を私に重ね、しっかりと繋がれる。
すっごい安心感……だけど、胸の柔らかい部分がきゅうっとなる。ダンスを踊る時に、殿下と手を繋いだ時の感覚に似ているかも。なんでだろう……男の人だから?
彼を見上げれば、また耳が赤い。結界を離れたから怒っているのね。はいはい、ごめんなさい。
ローズの後に付いていくと、見覚えのある場所が現れた。高い茂みに囲まれたそこは、朝お湯に浸かったあの場所。一つ違うのは、小さな丸い温泉が、小さな丸い氷に変わっていることだった。
……そういえば、夜は凍るって言っていたっけ。
温かな湯気ではなく、冷気を放出する氷。朝とは違う寒々しい雰囲気に、コートを失った哀しみが甦る。
風が木々や茂みをざわざわと揺らす。恐怖にびくりと身体を震わせれば、レッドが繋いだ手に力を込めて言った。
「何も気配は感じない。俺の傍を離れなければ大丈夫だ」
今度は胸の柔らかい部分が、きゅうっを通り越して、つんと切なくなる。私ったら……本当にどうしちゃったの? 男の人が苦手なのかしら。
ローズはふんふんと氷の上へ乗ると、真ん中の頭から口を突き出し、ピトリとその表面へ付けた。
……氷を舐めている?
「美味しいの?」と訊くと、「ふん」の代わりにうねうねを躍らせる。
凍った雪は嫌いなのに、凍った泉は好きなんて変なの。でもよかった。少しでもお腹の足しになるといいんだけど。
ひび割れて中に落ちたりしないかしらと氷を覗けば、白く濁っていて全く底が見えない。温泉の時は透明だったのに不思議ね。
少しずつ場所を変えながら、夢中で舐め続けるローズ。まだまだ時間が掛かりそうだと、泉の横に腰を下ろした。
「やれやれ、昨日は魔獣を食べて、今日は魔獣の食事風景を見守るなんて……人生分からないものだな。さて、明日はどっちだろうな」
ちゃんと聞こえていたらしく、ローズは氷を舐めながらも、うねうねでレッドを威嚇する。
一通り舐めてやっと満足したのか、ローズは氷の上にこてんと仰向けになると、首とうねうねの付け根辺りを擦る。尖った口からは、げっぷらしきものまで出た。
「お腹いっぱいになった?」
「ふん」
「よかったわ。じゃあこっちにいらっしゃい」
食べすぎ(舐めすぎ)て身体が重いのか、立ち上がるもよろよろしている。
抱っこしてあげないと無理そうね。
まだ繋いでいたレッドの手を離し、氷へ身を乗り出す。片手をローズへ差し出せば、ふんふんと嬉しそうによじ登ってくれた。
ふふっ、どこがお腹か分からないけど、さっきより重くなってる!
可愛いなと思いながら立ち上がろうとするも、バランスを崩し、咄嗟にもう片方の手を氷へ突いてしまった。
……え?
私が手を突いた部分から、白く濁っていた氷がすうっと透明に変化していく。だけど底は見えない。まるで丸い鏡のように、自分の姿をはっきり映していた。
こうして見ると私…………まだ可愛いじゃない!
くたびれたワンピースに、片方だけのリボン。沢山泣いたせいで顔もまだ腫れぼったいけど、それでもどこかキラキラして見えた。
うん、正直で良い鏡ね。
白薔薇の笑みを浮かべた途端、ふにゃりと鏡の向こうの自分が歪み、その中へ手が吸い込まれていく。
「きゃっ」
「リリエンヌ!」
手から腕、腕から肩、肩から頭、胸と、柔らかいくせに強引な力に、みるみる全身が持って行かれる。
腰を掴んでいるのはレッドかしら。
彼の剛力も敵わず、そのままみんなで仲良く鏡の底へ落ちて行った。
ぼふっ!!
柔らかい何処かへ落ちた背中は、ふわふわと弾んでいる。開けた目に飛び込んできたのは天井ではなく、何処までも広がる暗闇。その中に小さな丸い光が見えた。
きっとあそこから落ちたのね。
「うっ……リリエンヌ! 大丈夫か!?」
私よりも下の何処かへ転がったらしいレッドが、がばっと起きてこちらを見つめる。その赤い頭にはローズがちょこんと乗っかり、ふんふんと何かを喋っていた。
「大丈夫よ! 二人も無事だったのね。よかった!」
「ここは……泉の中か?」
私と同じように上を見上げて、レッドが言う。
天井が暗闇であること以外、そこは誰かの部屋のような空間だった。机に本棚、クローゼットに小さなテーブル。そして、自分が座っているベッド。ランプもカーテンも床に敷いてある絨毯も、その何もかもに装飾が全くない。材質もどことなく安っぽい、実にシンプルな部屋だった。
「信じられないな……」
「ほんと……鏡みたいになって、自分の顔を見ていたら、落っこっちゃった。ごめんなさいね」
『深い深い、裏鏡の底にある』
「鏡……裏鏡……」
「えっ……?」
「きっとここが裏鏡だ」
「どういうこと?」
「占いの婆さんに言われたんだ。白薔薇の魔力を持つ者と共に探せば、鏡に辿り着けると」
「白薔薇……って、私?」
「ああ。お前が手を突いたら、白い氷が鏡に変わった。お前を助けようとして、鏡の中へ落ちた。間違いないだろう」
レッドは立ち上がると、不思議な空間をぐるりと見回す。
「この空間の何処かに、創造主の意思があるはずだ。それを見つければ、俺は自分の顔を得ることが出来るかもしれない」
つついたら倒れてしまいそうな程薄い本棚を開け、中を漁り始めるレッド。
そうね、創造主……意思……とくれば、一番そこが“らしい”かも。あとは……
ベッドから下り、ランプで照らされた机の前に立つと、見たことのない奇妙な物に首を傾げた。
黒い薄っぺらい本のような物が、開かれた状態で机に乗っている。何も書かれていない真っ黒いページと、細かい四角で区切られた中に、記号らしきものが書かれたページ。その一つに指で触れると、カチリと沈む感触がして、黒いページが光り出した。
よく見ると、眩しい光の中に文字が浮かんでいる。
『白薔薇の聖女と千恋万華』
白薔薇……聖女?
ぼんやりそれを見つめていると、いつの間にか高い壁が光を遮っていた。
「危ないから近付くな。何かの魔力かもしれない」
私を背に隠し、黒い本から離れようとするレッド。一歩後ずさるごとに、光はますます強くなる。その内目も開けていられなくなり、意識がふうっと何処かへ吸い込まれていった。
心も身体もふわふわ浮かんでいる。目ではなく頭で見ている光景は、さっきの机で、黒い本に向かう女性の後ろ姿だった。すうっと、か細い声が響く。
『……小説投稿サイトで恋愛小説を書き始めて三年。全然読まれなかった処女作がSNSで話題を呼び、書籍化やコミカライズを果たす人気作となった。
売り上げも好調で三作目の書籍化が決まった時、ゲーム制作会社から、乙女ゲームのシナリオに使う為の、原作を書いて欲しいとの打診があった。
嬉しかった……昔からゲームは大好きだし、自分の原作からシナリオが作られるなんて夢みたいだった。
依頼されたのは、魔法が溢れる切なくてロマンティックな恋物語。夢中で書き上げ送ると、担当者さんに思わぬ提案をされた。
ヒロインを逆にしてもいいか……と。
私が本来ヒロインにしたかったのは、黒薔薇の令嬢ラビニアだ。公爵令嬢であり皇子の婚約者でありながらも、悲しい生い立ちや魔力のせいで誤解されているという不遇のヒロイン。少しずつ心を開き、皇子との愛を育てていくという物語だった。
だけど、担当者さんがヒロインに選んだのは、誰からも愛される白薔薇の令嬢リリエンヌだった。人を絆す魔力で皇子や男達を虜にする。ラビニア嬢との敵対シーンもある、いわばライバル的存在だ。
二人を逆にし、リリエンヌを聖女、ラビニアを悪女にした方が、シナリオも作りやすいし華やかだとの理由で。
更に、リリエンヌと皇子が結ばれるハッピーエンドルートに入ったプレイヤーの為に、ラビニアの断罪シーンを用意して欲しいとも言われた。……断罪は流行りだから、思いきり派手にと。
極寒の隣国シュターレ国へ追放され、魔鳥に食べられる。魔蛇に生き血を吸われる。盗賊に襲われる。
体調の悪さも重なって、パソコンを叩き壊したい衝動に駆られた。
分かってる……分かっている。
これは仕事なのだから。好きなものを好きなように書いていたあの頃とは違う。ここを強いメンタルで乗り越えなければ、プロとは言えない。だけど…………』
黒い本をパタリと閉じ、女性は紙にペンで何かを書き始めた。
『たとえば……占い処で、魔女みたいな怖い顔のお婆さんに助けてもらうのはどうだろう。黒ずんだ肌と、いぼのある大きな鷲鼻、口には金や銀の不揃いの歯。だけど本当はとても優しいの。
そこで私の大好物のタコみたいな魔獣を食べて、身体が温まり元気になる。足はもちろん八本、面白いから頭は三つ、目は……全部で十五個も。頭が良くて人を絆すから、捕まえるのが大変。威嚇すると、真ん中の頭にある口から、黒い墨……じゃなくて粘液を吐くの。一度浴びたらなかなか臭いがとれない程臭い。あっ、あと卵も美味しい。
行き先を占ってもらい歩いていると、お忍び視察をしていたシュターレ国王に逢い惹かれ合う。最強のレッドダイヤの魔力で、降りかかる危機から守ってもらおう。
優しい初老の女性が営む雑貨屋で、薔薇の石鹸を買い、魔力が湧く温泉で哀しみや疲れを洗い落とす。
元気になったらまた出発して、国王の勧めで首都へ向かう。最後はシュターレ城で、正体を明かした国王と結婚するの。
断罪からのハッピーエンド。そんなレアルートがあってもいいんじゃない?
ヒロインにしてあげられなかった可哀想なラビニアには、温かくて優しい最高のヒーローをあげたい。
ええと……強いのだから、身体は筋肉質で逞しい方がいいわね。背もうんと高くて、190cmは超えているわ。名前と顔の特徴は…………』




