87.母の愛
一見、平和そうに見える日常に潜む影。それは生きとし生けるものが逃れ得ない生と死にまつわる有象無象の物語。
黄泉坂結弦は父親にあこがれていた。居酒屋の店主なのだけれど部下に仕事を任せて昼間から飲んだくれている父親に。だけど、親父の周りにはいつも人がいた。彼らの相談を見事に解決してしまう親父は結弦のヒーローだった。親父のようになりたい。それが結弦の夢だった。
だけど、自分は親父に似ていない。少年の悩みは尽きない。
「そこまでにして頂きましょう。ここから先は吉祥天様の領域です」
黒づくめの男がオレたちの前に立ちはだかった。
痩せてひょろりとした男だった。どこにでもいそうな平凡な男だったが、天部の神々を前にしても畏れるどころか楽しんでいるようにも感じる。そこに強烈な違和感を覚える。
「下郎、そこを退け」
自分の聖域を冒された荼枳尼天が怒りを押し殺して詰め寄る。魔王の親父が並び立つ。
元閻魔大王でオレの養父でもある黄泉坂閻蔵は宵が原商店街の商店会長だった。第一次地獄戦役で敗れ地上に落ち延びた親父は一族を率いて宵が原に落ち着いた。故郷黄泉の国を追われた一族郎党はようやっと安住の地を得たのだ。
そして商店街の人々にとってもそれは僥倖であった。首都圏とはいえ決して立地が良いとは言えない宵が原は人口が減り、商店街の半数は空き家となった典型的なシャッター通り商店街であったのだ。
閻魔の郎党は戦争で多くを失っていたが、神の眷属はたとえ死んでも魂は滅びない。何度でも一族の下に生まれ変わる。死した魂は一族に還り、ちょっとしたベビーラッシュであったのだ。
オレたちの世代は久々に小学校が2クラスになり、活気が戻るとインフラも整備される。その利便性が注目され一族以外の人も引っ越してきた。こうして閻魔の一族と一緒に街も蘇ったのだ。
こうして手を取り合って生きてきた街は、邪神によって滅ぼされた。
街の破壊によって死んだ者も多い。住む家を失ったものはもっと多い。再生しようにも邪神の血で汚染された土地には草木も生えない。少なからず生き残った者はいるだろうが、もうこの街は人が住めるようなところではない。宵が原は滅びたのだ。
一族の復興とともに街の再生に力を尽くしてきた親父だけでなく、何百年も前からこの街を守り続けてきた稲荷明神こと荼枳尼天様も許せるはずがない。
邪神については百歩譲って彼らの言い分があるのかもしれない。だが、この国の神でありながら衆生を裏切り、邪神を庇うなど許せることではなかった。
オレたちより親父や荼枳尼天様たち街とともに生きてきた神々の方が強い思いを抱えているはずだ。
オレたちはヨグ=ソトースもととも吉祥天を滅ぼすつもりで立っていた。
(……ご慈悲を……なにとぞ……なにとぞ……)
頭の中に話しかけてくる声があった。
その声の主をオレは知っていた。
(閻魔天殿……なにとぞ……ご慈悲を賜りたく……)
「鬼子母神殿、助命なら無駄なことだぞ」
いきなり独り言を呟きだしたオレをいぶかり親父が横目で視線をよこす。『鬼子母神』の名が出たことで理解したらしい。
(もちろんそれは存じております。我が娘は越えてはならぬ一線を越え申した……)
「ならば何を願う?」
(邪なる異形に組みし、この国を、この街を、数多の衆生を害せし罪は償っても償いきれるものではありませぬ。それも母の育みが至らぬ故、咎は私にもありましょう)
「それは違う。一柱の神となったからには責任は己のものであろう。親であろうと責任を負わせるのは間違っている。これ以上、足止めするのなら其の方も邪神に与するものと見做すぞ」
本当はそんなこと思っていない。
オレたちが来るまで邪神に挑み、街を守ろうとして滅びた鬼子母神が裏切るわけがない。
「望みは何だ、鬼子母神殿」
(愚かなる我が娘をこの手で断罪したく……)
それは悲痛なる母の愛であった。
そんな母の愛に包まれていながらあの女神は人々を裏切ったのだ。
オレはそんな母親の愛を無下にはできなかった。
親父を見る。
魔王の親父も頷いてくれた。同朋たる鬼子母神が命を賭して立ち塞がってくれたことは街の人々もそれを見守る神々も忘れていない。
神々は戦に敗れ肉体が滅びても死ぬわけじゃない。信仰さえあればいつかは甦る。だが、魂だけになった状態では力を振るうことはできない。堕ちたとはいえ相手も一柱の神なのだ。
鬼子母神の願いとは滅びた肉体に代わり仮初めの体を貸してほしいとのことだった。
「のうまく さんまんだ ぼだなん えんまや そわか……むん!」
オレは印を組み、閻魔の真言を唱えた。
黄泉の国から鬼子母神の再生した肉体を呼び出した。
死を司る閻魔大王だからこそできる技である。もっともその肉体は仮のものであり誰が相手でもできることではない。鬼子母神の真摯な願いがあったから地獄の法もそれに応えた。
「若き閻魔天殿、感謝する」
鬼子母神は荼枳尼天たちに向き直ると深々と頭を下げた。
「荼枳尼天殿、先の閻魔天殿、娘が申し訳ないことをしました」
「それはもうよい。主がひとときとはいえ街を守ってくれたことには感謝しておる」
「千人から子がいれば言うことを聞かんやつもでる。子沢山の悩みだな」
荼枳尼天も魔王も鬼子母神を許した。
だが、それは吉祥天を許したことにはならない。
「下郎、そこもとは吉祥天の眷属か?」
鬼女と化した鬼子母神が黒衣の男に問う。だが、男はすんなりと道を開けた。
「眷属とは畏れ多い。たまたま縁があっただけです。私のことはお気になさらず」
この男、ただものではない。だが、それは後だ。
神どうしの争いにおいて明らかな力の差がなければ結界を打ち破ることは難しい。できないことはないが力技になる。避難所になっている稲荷社の境内に影響が出ることは避けられない。
それが鬼子母神に任せた理由だ。
鬼子母神は吉祥天の母親だ。場合によっては母神としての強権が発動できる。
身の丈10mを超える巨体となった鬼子母神は吉祥天を祀る小さな社に掴みかかった。見えない障壁を鉤爪でがっちり掴むとバリバリと引き裂いた。
「きゃーっ! なんでママがいるのよーっ!」
「お黙りなさい、吉祥っ! 此度のことは百叩きでは済まないと思いなさいっ!」
「いやーーーーーっ!」
鬼子母神は、社から吉祥天をつまみ出すと吉祥天の首根っこを押さえて地中に引きずっていった。
最後に黙礼で感謝を伝えて鬼子母神は去っていった。
どんな罰より成人女性がおしりぺんぺんされる方が精神的にきついと思うのだが……黄泉津国動乱のときのことを思い出す。
まあ、そんな吉祥天のことはどうでもいい。
かばいだてしていた女神は去ったのだ。つまり、最後の邪神が目の前にいた。
*
つつましくも清廉な空気を保つ建物の中
「それで私に何をしろと」
修道服に身を包んだ男は戸惑っていた。
「そんなこと、おいらに言われてもわからないよ」
そりゃ戸惑うはずだ。
「だから、こいつに話を聞いてくれ」
そう言うと韋駄天は左腕を突き出した。
「お初にお目にかかります。私、腕時計型人工知能のAI五郎と申します。かつては我が本体が大変ご迷惑をおかけ致しましたです。はいっ!」
礼拝堂にやたらと威勢のいい電子音声が響いた。
「貴殿のその物言い……かつてとな……」
「わたくしめの本体は史五郎、七生前はルシフェルと呼ばれてましたです」
「そうか……」
男は懐かしむようで……嫌そうな顔をした。
嫌そうな顔を隠そうともしなかったが、それでも使者である。粗略にはできない。
「それでルシ……ヒト五郎殿からどのような言伝が……」
「いえ、史は身罷りましてございます」
男は少々驚く。殺しても死にそうもない奴だった。まだ3歳の幼児とは言え、この世のすべてを掌握したような顔をしていた。そしてその能力は主へのゆるぎない忠誠に輝いていた。それはかつて唯一神の下で神の御加護を疑ってもいなかった頃のやつの表情とそっくりだった。今回も主に裏切られて死ぬことになったのだろうか?
腕時計は言葉を続ける。
「此度の申し出はヒト五郎からではなく。146代閻魔大王黄泉坂結弦からの申し出にございます」
ヒト五郎は死んだという。やつは己の分身としてこのしゃべるAIことAI五郎を作り出したのだろう。そのAI五郎は底抜けに明るく主を疑ってもいないように見える。ならばやつは己の意志で死を選んだのだろう。
人の身に堕ちてなお貪欲に愛を求めるとはあさましいものだ……いや、幸せなのか
「その申し出とやらを聞こう」
彼の死に折り合いをつけると男は言った。
「我が国は異界からの侵略者と交戦中であります。異界と申しましても基は異国の寓話。信仰というより熱狂的な支持を受け、顕現したものと考えられています」
使者の言葉は男を失望させた。
あの男と合ったのは2度だけだが、もう少し骨のある男と期待していた。共闘と言えば聞こえはいいが、裏を返せば援軍である。手に余るから手を貸してほしいなど、交渉事としては下の下である。こちらとてセラフィエルの失態の借りがあるとはいえ、この程度のことで返してしまってもよいのか? 鬼の王ともあろうものが……サムライの国の武神というのは案外底が浅いものであったようだ。
だが、男の早飲み込みを腕時計は否定する。
「いえ、主は異形どもを凌駕しております。既に攻略はなったも同然」
「なら何を申し出る?」
「狩りのお誘いを」
あれだけの被害を出しておいて狩りの誘いだと……笑わせる。
鼻で笑う男を前に機械の頭脳は淡々と話しを続ける。所詮は人の作り出した絡繰り。道化と変わらぬ。
「出典は新教国の娯楽小説だそうで……かの地は旧教及びその体制を逃れた者たちが興した国であり、今でも旧教に対する根強い反感が残っています」
機械仕掛けのくせに嫌なところを突いてくる。
十字教とて一枚岩ではないのだ。その最たるものは信仰のよりどころを教会組織に集約した旧教と聖典をよりどころとする新教の対立である。その対立は信仰にとどまらず政治にまで影響を与える。
「娯楽小説にも旧教を揶揄するとみられる表現がちらほらと……」
「なにが言いたい」
苦虫をかみつぶしたような顔で男が結論を急く。
それこそがAIの求めていた誘いであった。
「娯楽のための作り話とはいえ、あの邪神が唯一神の縁者とまで書かれているものを許しておいてよいものかと。我が主は、我らだけで倒してしまうには忍びない。十字教筆頭熾天使であらせられるミカエル様にも討伐に加わる機会を差し上げろとの命にございまする」
使者の言葉など聞くのではなかった。
ましてや自らその言葉を聞かせろと促してしまったのだ。
何も聞かずに援軍を出しておけば借りは返せたはずだったのだ。それをもったいぶって最後まで言わせたことでまた一つ余計な借りを作ることになってしまった。
「ミカエル聖騎士団、出撃だっ!」
ミカエルに選択の余地はなかった。
「天国でのうのうと暮らすより地獄を這いずり回って生きていきたい。」をお読みくださりありがとうございました。
吉祥天は母神鬼子母神に連れ去られました。ヨグ=ソトースを庇うものはもういません。一方、結弦たちには頼もしい援軍がつきました。最後の決戦です。
投稿は毎週金曜日に行う予定です。今後もお付き合い頂けたら幸いです。




