82.新たな邪神
一見、平和そうに見える日常に潜む影。それは生きとし生けるものが逃れ得ない生と死にまつわる有象無象の物語。
黄泉坂結弦は父親にあこがれていた。居酒屋の店主なのだけれど部下に仕事を任せて昼間から飲んだくれている父親に。だけど、親父の周りにはいつも人がいた。彼らの相談を見事に解決してしまう親父は結弦のヒーローだった。親父のようになりたい。それが結弦の夢だった。
だけど、自分は親父に似ていない。少年の悩みは尽きない。
天界を一匹のハエが飛んでいた。
何の力もない一匹のショウジョウバエであった。
その体躯は小さく、無限ともいえる天界においてその存在はあまりに矮小である。
その羽ばたきは微かで広大な天界を翔け抜けるにはあまりに非力である。
それでもハエは飛ぶ。ただ己が信じるがままに
*
混沌の覚醒は突然であった。
澱みの中からもやもやとした霧が出たかと思うと収束した。
「ヒト型じゃの……」
恵比寿が呟くが蛭子は同意しない。恵比寿もわかっている。その存在はあまりに異質なものであった。
異形の虚ろな目がこちらを見た。
「!」
恵比寿が飛び退り視線を外す。
「見ない方がいい」
蛭子も同意する。
頭の中で何かが聞こえた。
「そのようじゃの。こやつ、儂の頭の中を覗こうとしおったわ」
テレパシーのようなものだろうか。このような得体のしれない力を使う異形はいなかった。これまでとは違う戦いになりそうだ。
恵比寿は蛭子を背に庇い岩陰に身を隠す。
『#$%&(!“#$%)=~|!#』
「こやつめ。視線を防いだとて意味がないようじゃ」
どうやら異形は発声に寄らない意思疎通の手段を有しているようである。
『#$%&れる#$%)の~~|!#』
頭の中の声は続いている。何かの言葉を繰り返しているようにも思える。
『#$%&れることは%)のほ~~|!がみよ』
『あ、あー……恐れることはない。この星の土地神よ。私の名はヨグ=ソトース。ここではない世から渡りし旅人だ』
ついに言葉を習得したようだ。
「ヨグ=ソトース殿か。それほどの情報を与えたつもりはなかったのじゃがな」
『気にすることはない。そなたらが抵抗するので、かつてここでなされた会話を基に言語を解析した。それでそなたらはこの星の土地神で間違いないだろうか』
心を読まれぬよう遮断したつもりだったが、無駄だったようだ。
時空を操る権能なのだろうか。過去に黄泉平坂で交わされた会話を参考にしたと言っているのだ。先には天界神軍が、常なら天寿を全うした屍者が通っていたはずの黄泉平坂だ。隠しようもない。
『どうやら私の息子たちは討ち滅ぼされたらしい』
「儂は知らぬ。じゃが、そうであっても済まぬとは申さぬ」
『構わぬ。あれらは力にばかり頼るので困る』
それにしても並外れた能力である。そんな相手が友好的に話しかけられたといって安心はできない。先に根の国を蹂躙し、現世を荒らした邪神どもの係累であることは間違いないのだ。
てれぱすとか言うのじゃったか。頭の中に直接話しかける技術は珍しいものではない。御仏も普通に使うものである。だが、高位の仏が使う技を使うことができるということはそれほどまでの法力を使えるということだ。
「とりあえず頭の中に語りかけるのをやめい。うっとうしいわ。ヒト型を取ったのじゃからそれくらいできるのじゃろう」
「あ、あー……これでよいだろうか?」
とりあえずてれぱすは止めさせた。しかし、これからどのように交渉すればよいのだろうか。その前に何を交渉するのか……
しかし、その悩みは杞憂であった。悪い方に
「えっち……」
それまで黙っていた蛭子が言う。
「えっちとはなんであろうか?」
異形は過去の神々の会話を参考に言語を解析したと言った。まあ、荒くれの武神どもが『えっち』などという言葉を使うことはあるまい。
「女子高生の秘密を覗こうとする変態のことよ」
「じょしこーせいとはなんであろうか? また、へんたいとは?」
「私みたいなうら若き乙女のことよ。そして『変態』とはあなたのようなもののことよ」
「それは肯定的な意味合いであろうか?」
「逆」
「逆……否定的ということか……では、せぬ方がよいということか?」
「もう遅い。私はあなたのことを変態だと認識した」
どうやら妻はヨグ=ソトースに怒っているらしい。恵比寿としても同感なのだが、ファーストコンタクトの会話がこんなものでよいのだろうか?
「どうやら誤解をさせてしまったようだ。私はあなた方をよく知らない。コミュニケーションを取ろうとした気持ちだけは理解してほしい」
互いを知らぬ状態での接触である。やむを得ぬ部分はあろう。
そう考える恵比寿を蛭子がたしなめる。
「恵比寿は人が好過ぎる」
「まずは話してみなければ始まるまい」
だが、蛭子は頑なだった。
「さっきから私の子宮に接触しようとしているのも、ファーストコンタクトと言い張るつもり?」
「なに!?」
「サノバビッチ」
「さのばびっちとはいかなる意味であろうか?」
蛭子の罵倒を分からぬふりでかわそうとするヨグ=ソトース。だが、もうそれは通用しない。所詮、異形は異形なのだ。
「儂の妻に何をした!」
恵比寿が詰問する。
開き直ったのかヨグ=ソトースは誤魔化そうともしない。
「人間のことを知らないなんて嘘。こいつはいかなる生物とでも子をなせる能力を持っている」
「なんと……それでは現世に渡らせるわけにはいかんな」
「ん。邪神との混血が生まれちゃう」
そう言うと蛭子は眷属を呼び出した。例のあれである。
「さあ、ヒルコたち。あいつをやっつけて!」
きゅう!きゅう!
手も足もないヒルコたちがヨグ=ソトースに襲い掛かる。噛みつき、砕き、飲み込んでしまう。それが次から次へと襲い掛かる。
邪神はヒト型を取り切れなくなった。
霧となって逃げようとするがその霧ですら飲み込んでしまう。毒ではあるのだろう。ヨグ=ソトースを飲み込んだヒルコは弱弱しく横たわる。
「いい子ね。ありがとう」
蛭子が優しく撫でるとヒルコは光の粒となって昇華した。
我が妻は邪神を浄化させることができるようだ。
恵比寿は気になって仕方がないことを口にした。
「それでじゃ……おぬしの……いや、やつに攻撃されていたと言うておったが……」
蛭子は抱擁でそれに答えた。
「大丈夫。守り切った。……私の操は恵比寿だけのものだから」
*
その日、荒れ果てた宵が原の街に人々が集まっていた。どこに隠れていたのかと思うほど大勢の人々だった。街は死に絶えてはいなかったのだ。
人とは強かな生き物だ。生まれ育った街が荒廃しようとも再生を信じて立ち上がったのだ。復興を信じて集まってきたのだ。
集まった人々は商店街の中で奇跡的に被害を免れた稲荷神社の社務所を集会所の代わりとしていた。警察、自衛隊にボランティアも加わって行方不明者の捜索やとりあえずの瓦礫の撤去などが行われている。政府から派遣された関係者もそれに加わる。だが、組織的な復興には手が付けられていない。被害の把握すらできていない状況なのだ。
内閣官房付参事官である蘇我公麿もその中の一人だった。
「東口から先はかなり被害が大きいようです。その先の光が丘地区は壊滅状態といえるほどです」
自衛隊の先遣隊の報告である。
その小隊が乗っていたオフロード車は瘴気にやられ、腐食していた。ガラスは溶け、バンパーは落ち、ボンネットは剥がれエンジンがむき出しになっている。タイヤは4本のうち3本が破れていた。ノーパンクタイヤでなかったら走ることもできなかっただろう。戻ってこられたのが奇跡というほどだ。
異形の血で汚染された地域はそれほどの惨状だった。生存者は望めないだろう。
「商店会長もよくぞ御無事で」
蘇我が呼びかけた男こそ商店街の中心人物。神々の戦いにおいてはキーマンともいえる。それは黄泉坂閻蔵である。
「無事じゃねえけどな。史の子倅がやられた……」
口調に後悔が透けて見える。もっとうまいやりようがあったのではないか。被害を最小限にする方法があったのではないか。元閻魔としても悔いが残っていた。
「冥府に寄ってきた。もう生存者はいねえよ」
元閻魔大王のことだ。とすれば行方不明者は黄泉の国に渡ったのだろう。少なくとも五千人以上の人たちが異形2体のせいで死んだのだ。
「大王様も最善を尽くされました」
「これだけの被害を出して最善とは言えねえよ」
「やむを得ぬことです」
蘇我の言葉に閻蔵も頷く。
予想もできぬ異界からの襲撃なのだ。未知の力は強大で天界でも武神の多くが殺された。神々はいずれ甦るが、被害は大きかった。
そんな中で結弦は2体の邪神を討ち滅ぼしたのだ。邪神の血で土地は汚染されたが、やむを得ぬことではあったろう。
ならば問題は閻蔵自身である。
息子に任せきりにして自分は最善を尽くしたのか? 神々の領域はそれでよしとしても地上においてはやりようがあったのではないか?
「黄泉坂様、お疲れ様でございます。主がご挨拶を申し上げたいとのことでございます」
神使の声に我に返った。
そうだ。稲荷明神は結界を張って社を守ったではないか。そのおかげで被災者たちの避難所として貢献している。やりようはあったはずなのだ。
「うむ、荼枳尼天殿にも世話になる旨、挨拶したかった」
「ではこちらへ」
神使の狐は境内の奥にある小さな社に閻蔵を導く。
稲荷神社の主神は稲荷神と呼ばれるが、その正体は宇迦之御魂神という五穀豊穣の神である。また神仏混交により荼枳尼天とも習合した。そのため稲荷は神社だけでなく寺院に祀られることもある。日本で最も信仰されている神の一柱といえるだろう。
「閻魔天殿、此度も世話になります」
「こちらこそ荼枳尼天殿、家も店も潰れてしまったのでな。しばらく厄介になる」
「お互い様です」
二柱は宵が原の守り手として助け合ってきたのだ。協力の合意はできた。だが、互いに聞きたいことはそれではない。
「これで終わりではないでしょうね」
「残念ながら」
二柱の神々は最後の戦いを確信していた。
「天国でのうのうと暮らすより地獄を這いずり回って生きていきたい。」をお読みくださりありがとうございました。
必死の思いで結弦がクトゥルフとハスターを倒しましたが、まだ邪神は残っていました。ヨグ=ソトース、クトゥルフの父にして混沌の邪神です。この世の混沌蛭子と異界の混沌ヨグ=ソトースの対決です。
投稿は毎週金曜日に行う予定です。今後もお付き合い頂けたら幸いです。




