70.這いよる混沌
一見、平和そうに見える日常に潜む影。それは生きとし生けるものが逃れ得ない生と死にまつわる有象無象の物語。
黄泉坂結弦は父親にあこがれていた。居酒屋の店主なのだけれど部下に仕事を任せて昼間から飲んだくれている父親に。だけど、親父の周りにはいつも人がいた。彼らの相談を見事に解決してしまう親父は結弦のヒーローだった。親父のようになりたい。それが結弦の夢だった。
だけど、自分は親父に似ていない。少年の悩みは尽きない。
異形は一見するとタコのように見えた。巨大なタコだ。その頭部からうねうねと蠢く触手が生えていた。不気味に蠢く触手はこの世のものとは思えない。つまり……
「侵略者であるな」
阿修羅王は断定した。
理屈ではない。感覚的に異物であると認識したのだ。
折伏できる代物ではない。それどころか言葉……はもちろん、意思の疎通も取れるとは思えない。それだけ、行動原理も価値観も異質なのだ。
「滅ぼす」
王の一言で配下の武神は臨戦態勢を取った。
鍛えに鍛え上げた側近たちなのだ。阿修羅王の一言からすべてを察し、動いていた。
阿修羅は「滅ぼす」と言ったのだ。戦うではない。
闘うとは共通の価値観を持った者同士が、己が正当を懸けて争うものだ。価値観を共有しないものとは戦いにもならぬ。それは生き残りを賭けた生存本能の衝突でしかあり得ぬ。
話には聞いていた。
クトゥルフといったか……
素戔嗚尊を滅した異形であると。
異界からの流れ者というのは本当かもしれない。星の彼方からの来訪者であるとも聞いた。それは本当かもしれない。生き物としての共通点をまるで持たない異形を見てそう思う。
凶悪とは思わない。禍々しいことも悪であることも、とある価値観の下での評価にすぎない。かつては仏と争い、悪神と呼ばれた阿修羅だからこそ抱ける感想であろう。
邪神だとも思わない。邪であることは一つの価値観の内での比較にすぎない。価値観を異とするものを正邪で比較することなど無意味なのだ。
だから、阿修羅は考える。
この異形と己のどちらが強いのかと
*
黙認という許諾を帝釈天から捥ぎ取った吉祥天は現世に来ていた。
現世には吉祥天を唯一支配できる母たる女神、鬼子母神が来ているはずである。今、彼女に会うのは避けたい。
だが、逃げ回るから捕まるのだ。捕まらないためには鬼子母神を後からつけていくことが最善である。安全圏とは離れていることではないのだ。
吉祥天が現世に下野したのは、逃げる為だけではない。帝釈天に啖呵を切った通りこの状況を引っ掻き回し、面白くするためであった。
狙いのものはすぐに見つかった。
とあるビルの地下に衆生が集まっていた。黒衣に身を包んだ若者たちが次々と入場していく。
どうやらライブハウスらしい。だが入り口には『闇にさまよう者の集い』と掲げられている。
ライブではなくRPGゲームイベントに貸し出されているようだ。
吉祥天はこのような下賤のものたちの遊びが嫌いではない。元々は芸事の神なのだ。ライブハウスなどは親和性が高い。サイリウムなど握らせればステージ上の主役をも置き去りにしてしまうほど見事に舞ってみせる。まあ、芸に身をやつす者は吉祥天にとっては子も同然なのでそんなことはしないが。
若者たちの流れに乗り、吉祥天は気安く階段を下り、戸を開けた。
思っていたより人が多い。皆一様に黒い服を着ている。だがその装いはさまざまであった。喪服のような黒スーツを着た男、修道服のような服を着た女子高生、コスプレのような黒の薄絹を纏うOL風の女性、黒のシャツにパンツ姿の普段着のような恰好をした気弱そうな男の子……黒を纏っている以外に共通点はない。
吉祥天はハンガーラックから誰のものか知らない黒のコートを勝手に借りるとそれを羽織った。これで違和感なく溶け込める。受付に座る若者も何も言わなかった。
入場料を払いドリンクチケットを受け取る。
会はまだ始まらないのか集まった人々は手持無沙汰にただ待っている。仲間と示し合わせて参加しているものもいたが、何かにおびえるように低い声で一言二言交わすのがせいぜい。妙な緊張感が場内を支配している。
ドリンクコーナーでコロナビールを受け取るとき、店員がひそひそ声で話しかけてきた。
「お客さんも、その……黒魔術の人ですか?」
「あら、どうして? そう見えないかぇ?」
「ええ、まったく。黒魔術にお姉さんみたいなきれいな人いないし……それにお姉さん、何かに縋りたいって感じじゃないから……」
「うふふ……よく見てありんすね」
「そりゃ、こちとら客商売ですから……ねえ、お姉さん……帰ったほうがいいんじゃない?」
吉祥天は微笑む。
「ありがと。でも大丈夫よ。これでも楽しんでいるのですぇ」
店員に手を振って別れるとコロナビールを一口含む。
ほのかな苦味を柑橘の酸味が洗い流してくれる。
芸事と酒は切っても切り離せないものである。酒精は神経を日常から切り離し、神霊のステージに感覚をつなげてくれる。それは神たる吉祥天にとっても変わらない。
吉祥天は異国の酒精を楽しんだ。
人ごみを泳ぎ、ひとしきり雰囲気を楽しんだ。
ひそめた会話を聞いてわかってきた。今夜の『闇にさまよう者の集い』に主催者らしきものはいない。掲示板にスレッドを立てた者はいるはずだが、どこの誰とも知れない。ただ何となく闇にさまよう者に関心がある同士で集まらないかということになり、いつの間にか日取りが、会場が決まっており、誰が決めたのかもわからない。
『集い』のルールはたった一つ。黒を纏うこと。それだけだった。
そんな怪しい集会だったが、若者を中心にネット上では噂が広まっていた。今夜の『闇にさまよう者の集い』には本物が現れると。
本物とは何なのか。誰も知らない。
だれが言い出したかもわからない。それでも噂は信憑性をもって広がり続けた。
会場を支配する緊張感はそれが原因だったのだ。
『闇にさまよう者の集い』にふさわしくない言動をするもの……疑いを持つものははじき出される。もしくは闇に飲み込まれる。
だから、人々は緊張と不安の中で場を乱さぬよう囁くのだった。
いつの間にかステージの上にその男はいた。
黒のローブを纏い、フードを深くかぶり顔の見えない男がいた。
男が両腕を高々とかかげた。
無言のままだったが、そこにいる者すべてが理解した。これから儀式が始まるのだと。
男が口を開いた。
「にゃる・しゅたん!」
「「「「にゃる・しゅたん!」」」」
そこにいる者が男に応えて唱和する。
再び男が口を開く。
「にゃる・がしゃんな!」
「「「「にゃる・がしゃんな!」」」」
衆生が応える。
「にゃる・しゅたん! にゃる・がしゃんな!」
「「「「にゃる・しゅたん! にゃる・がしゃんな!」」」」
「にゃる・しゅたん! にゃる・がしゃんな!」
「「「「にゃる・しゅたん! にゃる・がしゃんな!」」」」
いつの間にか灯りは落とされ、暗闇の中、怪しげな声だけが響き続けた。
「にゃる・しゅたん! にゃる・がしゃんな!」
「「「「にゃる・しゅたん! にゃる・がしゃんな!」」」」
「にゃる・しゅたん! にゃる・がしゃんな!」
「「「「にゃる・しゅたん! にゃる・がしゃんな!」」」」
「にゃる・しゅたん! にゃる・がしゃんな!」
「「「「にゃる・しゅたん! にゃる・がしゃんな!」」」」
「にゃる・しゅたん! にゃる・がしゃんな! にゃる・しゅたん! にゃる・がしゃんな! にゃる・しゅたん! にゃる・がしゃんな! にゃる・しゅたん! にゃる・がしゃんな! にゃる・しゅたん! にゃる・がしゃんな! にゃる・しゅたん! にゃる・がしゃんな! にゃる・しゅたん! にゃる・がしゃんな! にゃる・しゅたん! にゃる・がしゃんな! にゃる・しゅたん! にゃる・がしゃんな! にゃる・しゅたん! にゃる・がしゃんな! にゃる・しゅたん! にゃる・がしゃんな! にゃる・しゅたん! にゃる・がしゃんな! にゃる・しゅたん! にゃる・がしゃんな! にゃる・しゅたん! にゃる・がしゃんな! にゃる・しゅたん! にゃる・がしゃんな! にゃる・しゅたん! にゃる・がしゃんな! にゃる・しゅたん! にゃる・がしゃんな! にゃる・しゅたん! にゃる・がしゃんな! にゃる・しゅたん! にゃる・がしゃんな! にゃる・しゅたん! にゃる・がしゃんな! にゃる・しゅたん! にゃる・がしゃんな! にゃる・しゅたん! にゃる・がしゃんな!」
永遠に続くような詠唱は会場をトランス状態に導いた。
ガシャン!
詠唱を遮り、ガラス瓶の割れる音が響き渡った。
詠唱していた者たち全員が気を失って倒れ伏している中、ステージ上にいたフード姿の男が女を見つめる。
儀式を中断せしめた異音は彼女がビールの空き瓶を床に落としたためだった。
「茶番にはもう厭きたわ」
女はあくびを隠そうともせず言い放った。
「あちきを追い払おうったってそれはムダどすぇ」
男もそれを理解していた。
「なぜ、このようなことをなさるのです? あと少しで儀式が完成するところでしたのに……」
だが、女は男の言葉を一蹴した。
「茶番は厭きたと言いましたぇ」
見つめ合う二人
それは一種の力比べであった。
やがて、折れたのは男の方だった。
「茶番のつもりはなかったのですが……異界の邪神を召喚する大事な術式だったのです」
「異界の邪神とやらなら……もう居るではないかぇ」
女は男を見つめる。
「今……この世界の女神さまと戦うのは分が悪いですね」
男は敗北を認めた。
「そうとも言えないのではないかぇ。儀式とやらで100人の若者の生気を吸い尽くせば勝てぬまでも楽しませるくらいはできたのではないかぇ」
男は苦笑した。
女神はそれを知っていて邪魔をしたのだ。
「出直してくると致しましょう」
「それには及ばぬ」
再会を誓う男を女神は止めた。
「あちきを楽しませてくれるというなら、手を貸すのもやぶさかではないぞぇ、邪神殿」
どこまでも享楽的で破滅的な女神に男は跪いて恭順の意を示した。
「ところで、ぬしの名を聞こうかぇ」
「ニャルラトホテプ……」
異界のトリックスターは混沌の女神と意気投合したのであった。
「天国でのうのうと暮らすより地獄を這いずり回って生きていきたい。」をお読みくださりありがとうございました。
『這いよる混沌』ことニャルラトホテプは既に現世に紛れ込んでいました。それを目敏く見つけたのは吉祥天です。異界のトリックスターと手を組んだ混沌の女神は何をやらかすつもりなのでしょうか。
投稿は毎週金曜日に行う予定です。今後もお付き合い頂けたら幸いです。




