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37.羽化登仙

 一見、平和そうに見える日常に潜む影。それは生きとし生けるものが逃れ得ない生と死にまつわる有象無象の物語。

 黄泉坂結弦は父親にあこがれていた。居酒屋の店主なのだけれど部下に仕事を任せて昼間から飲んだくれている父親に。だけど、親父の周りにはいつも人がいた。彼らの相談を見事に解決してしまう親父は結弦のヒーローだった。親父のようになりたい。それが結弦の夢だった。

 だけど、自分は親父に似ていない。少年の悩みは尽きない。

 光さす

 柔らかな光が蛭子雅美(ひるこまさみ)を包んでいた。

 それは柔らかくも目映(まばゆ)く、暖かくも(おごそ)かな金色(こんじき)の空間であった。


 ああ……

 結弦(ゆづる)(さと)った。蛭子先輩は覚醒したのだと


     *


 気が付くと目の前から祭壇が消えていた。

 隣にいたはずの黄泉坂(よみさか)祝詞(のりと)を上げていたはずのなんとかいう宮司(ぐうじ)もいなくなっていた。代わりに和服のような作務衣(さむえ)のような服を着た小太りの男が目の前にいた。

 男は左足を右ひざの上に置き、左手に鯛、右手に釣り竿を抱えていた。その姿の神を雅美は知っていた。

「あなたが恵比寿(えびす)ね」

「なんと口の悪い娘御(むすめご)じゃ」

 恵比寿は顔を(しか)めてぼやいた。


 まあ、神様を呼び捨てにしたのだから不興(ふきょう)は当然かもしれない。でも、雅美はご先祖さまと混同される神に(へりくだ)りたくはなかった。

「まあ、(わし)の父、大国主命(おおくにぬしのみこと)も祖をたどれば素戔嗚尊(すさのおのみこと)じゃからの。そなたの祖先である蛭子命(ひるこのみこと)殿は素戔嗚様の兄君じゃ。文句も言えんわい」

「そうなの?」

「そうなのじゃ」

 聞き返す雅美に恵比寿は溜息をつくと答えた。


「それで恵比寿が私に何の用なの?」

「神……年長者に対して少しは敬意を払わんかい」

 度重(たびかさ)なる呼び捨てはさすがに神様も許してはくれなかった。

「で、恵比寿()()が何の用?」

「まあ、ええわい……」

 (おそ)れ入らぬ小娘に恵比寿は早々に(あきら)めた。


「蛭子殿を(そな)えてくれたことに感謝を申す」

 恵比寿はヒルコを(とむら)ったことに感謝しているようだった。

「あなたにお供えなどしていない。私は身罷(みまか)った(ヒルコ)を弔っただけ」

「同じことだわい」

 雅美は言い返すが恵比寿は取り合わない。

「蛭子も(えびす)ももとは同じ。海の幸じゃわい。偉大なる始まりの神の長子であらせられるぞ。不遇を得て流されることになったが、子孫に御魂(みたま)(しず)めてもらえたのは幸いじゃ。蛭子殿も無念をいささかでも晴らしてくれたじゃろうて」

 ご先祖を敬ってくれる恵比寿に雅美は少しだけ好意を持った。

「わかってるじゃない」

 感情に乏しく、コミュニケーションに不慣れな雅美にとってそれは最大限の賛辞であった。


「でもなんでヒルコに肩入れするの? まさか間違い続けられたせいで本当に同一神格化したわけじゃないでしょ」

 恵比寿の真意がわからない。

「当たり前じゃ。未だ混同されることに互いに迷惑しておる。じゃが、蛭子殿の不運に思わんことがないわけでもない」

「不運って? 四肢(しし)なく生まれ付いたこと? それとも親に捨てられたこと?」

 ご先祖様に何があったのか。それは半端な覚醒にしか至っていない雅美の知らないことである。

「本当に四肢なく生まれておったらおぬしら子孫を残せるわけなかろう。蛭子殿はそれは立派な男神(おがみ)であったそうな」

「でも、それじゃあなんで流されることになったの?」

「あのなあ、考えてもみろ。当時、伊邪那岐(イザナギ)様はできたばかりのこの国の王であったのだぞ。その彼の誰もが認める第一王子が国を追われたのだ。何かあったに決まっておろう」

 誰も知らない神々だけが知っている真実であった。


「うそ……そんなの知らない。吉祥天(きちじょうてん)様だって教えてくださらなかった……」

「吉祥天には様を付けるんかい……」

 ショックを受ける雅美に恵比寿がぼやく。

「当時の東亜細亜(アジア)の中心は大陸じゃった。伊邪那岐様たちはそこから独立を果たそうとしておったのじゃ。当時は()とかいったじゃろうか。覇権国家はそれを簡単には許すまい。戦があった。伊邪那岐様は勝って領土を広げていった。それが国引きじゃ。まさか本当に神が力技で領土を引き寄せたと信じているわけでもあるまい」

 学校の理科の授業で習っているはずのことだが、神話の世界の人間としては知識と実感が結びつかないのだ。


「蛭子殿は第一王子として勇敢に戦った。夏王国も簡単に独立を許しては面子(めんつ)が立たない。最後の力を振り絞り周辺諸国を巻き込んで最終決戦に挑んだ。だが、内情はボロボロだった。戦費の負担に耐えかねて内乱が勃発(ぼっぱつ)。異民族の来襲も重なった。最終決戦どころではなかったのじゃ。

 夏国の将軍は交渉した。独立は認める。ただし第一王子を許すことはできない。伊邪那岐様は条件を飲んだ。建国の英雄になるはずだった蛭子殿の四肢を切り落とし、葦船(あしぶね)で流したのじゃ」

「ひどい……」

 国を治めるときには珍しくもない話である。だが、事情を知るものとしてはいたたまれない。


「わかったか。なぜ儂が蛭子殿を(いた)もうとしているか」

 雅美は涙を流しながらも頷いた。

「恨むでない。蛭子殿はそう言い残して去っていった。一族郎党が何十隻もの葦船で付き従ったとのことじゃ。その後、蛭子殿の存在は歴史から消された。噂では播磨国(はりまのくに)国津神(くにつかみ)(ひめ)と結ばれたとか……」


 謎は解けた。

 覚醒してもヒルコの記憶が戻らなかったのはそういう訳だったのだ。ご先祖様、蛭子命はヒルコではなかった。

 不遇を恨み、混沌(こんとん)を願う蛭子雅美の受け継いだ思いは偽物だった。ご先祖様の本当の思いは国を作り民を守ること。蛭子様は四肢を失っても(くじ)けなかったはずだ。正史から消された英雄として。


「悲しむな。誇りを持つのじゃ。そなたの偉大なご先祖様に掛けてな……せっかくの縁じゃ、少し手助けしてやろう」

 恵比寿天は(いん)を組むと真言を唱えた。

「おん いんだらや そわかて ……むん!」


     *


 島波(しまなみ)宮司の上げる祝詞が終わると蛭子先輩は祭壇へにじり寄る。三方に供えられたヒルコの遺骸を抱きしめた。

 光が強くなる。目を開けていられないほどの一瞬の光の奔流(ほんりゅう)が去ると先輩の腕の中に残ったのは一抱えもある翡翠(ひすい)(ぎょく)だった。


「ヒルコ様は本来のお姿を取り戻されました。それが貴女様のお力なのですね」

 島波宮司の言葉にも、蛭子先輩は何が起こったのかわかっていないようだった。

「その翡翠の玉がヒルコの本来の姿なのですか?」

 結弦は宮司に聞いた。

「いえ、閻魔天(えんまてん)様。玉は単なる象徴でしょう。ヒルコも戎ももとは海からの漂着物。海外からもたらされた福のことです。彼女の力で見えやすい形になっただけです」

「この変容は蛭子先輩の力だと?」

「はい、間違いありません」

 結弦の問いに島波宮司は大きく頷いた。


 どういうことだ? 弔っている間に何が先輩に起こった。

 蛭子先輩は蛭子命の子孫である。吉祥天に覚醒を促されたが本来の姿には程遠い。未だ普通の人間と変わらなかった。少しばかり……だいぶ変わったところはあるけれど

 これほどまでの宝玉(ほうぎょく)を生み出す力はなかったはずだ。ヒルコの遺骸という触媒があったとしても簡単ではない。少なくとも結弦にはできない。閻魔の力は守ることであって生み出すものではないのだ……そうか、これがヒルコの力か……福をもたらす力。己が福を得るのではなく福をもたらす力。それがヒルコの力だ。だとすれば先輩は神になったのだろうか?


 愛おしそうに玉を抱きしめている先輩に結弦は問いかけた。

「これは先輩の力ですか?」

「ん……恵比寿が手伝ってくれた」

 相変わらずだ。神を神とも思わぬ魔王の物言い。それが蛭子雅美だ。

 まあ、本物の魔王はうちの店で酔いどれているのだが


     *


 オレたちは蛭子先輩から恵比寿神とのやり取りを聞いた。

 納得した。やはり先輩は覚醒したのだ。恵比寿神の力を借りて。もう人でも神でもない混沌の落し子などではない。立派な神様だ。

「それにしてもまさかそんな影の歴史があったとは蛭子様のイメージが変わったよ」

「ん……ご先祖偉い」

 そんな軽いものじゃないと思うが。


 仕方がないことではあっただろう。伊邪那岐様も苦渋の選択であったはずだ。将来を嘱望される跡継ぎの我が子を放逐(ほうちく)しなければならなかったのだから。

 蛭子命がいなければこの国そのものが成り立っていなかったかもしれない。建国の偉業を成し遂げながらも放逐された。しかも手足を切り落とされるという残虐(ざんぎゃく)な仕置きを受けて。歴史から抹殺されて。

 信長を恐れて長子信康を殺した家康もこのような気持ちだったのだろうか。


 蛭子命様の印象が変わったせいか、蛭子先輩まで輝いて見える。いつもは感情が薄くぬぼーっとしているように見えて、コミュニケーション能力が低くて言葉が足りないせいで毒舌を振りまく不思議ちゃんだったのだが。

「ご先祖がヒルコじゃない、英霊(えいれい)であったと知ったから……混沌を求めるのは止めたわ」

 そうか。それはなにより


「不思議に思われませんか?」

 不意に島波宮司を疑問を呈した。

「蛭子命は大神の長子でありながらなぜヒルコと名付けられたのでしょう?」

「それは手足がなくてぐにゃぐにゃしていて蛭みたいだったから……あっ」

 そうか。それでは順序が逆だ。手足が切り落とされたのは名付けられた後の話だ。

「そうなんです。蛭子であったはずがないのです」

「どういうこと?」

 尊敬するご先祖様の話だ。先輩も気になるようだ。

「蛭子というのは当て字ではないかと。漢字が我が国に伝わったのは5世紀の初め頃と言われています。というか蛭子様の時代には大陸でもまだ文字は生まれていませんでした。何せ神代(かみよ)の時代のことですから。漢字が生まれたのは夏王朝を滅ぼした(いん)の時代になってからです。だから当時の蛭子様は蛭子であったはずがないのです」

「どういうこと?」

 オレにもさっぱりわからん。

 戸惑(とまど)うオレたちに諭すように島波宮司は話を続けた。

「ヒルコという音は本来別の意味が充てられていたのではないでしょうか。大神(おおかみ)の嫡子ですよ。蛭よりももっと大事な役割を与えられたのではないかと」

「例えば?」

「太陽とか……ヒルコとは本来、昼子(ひるこ)という字を当てたのではないかという説があるのです」

「昼子……」

 島波宮司は大きく頷いた。

「蛭子命が五体満足の立派な男神であり、建国の犠牲となった英雄であったという話はすぐには信じられ……いえ、恵比寿社の主神である恵比寿天様のお言葉ですから事実なのでしょうが……」

 独立を果たしたとはいえ太陽神であった蛭子命(ひるこのみこと)を失った大八島国(おおやしまのくに)は混迷を極めたはずだ。そしてそれは新たなる太陽神、天照大御神(あまてらすおおみかみ)を授かるまで続いた……


 荒唐無稽な話だ。宮司が戸惑うのも無理はない。オレも半信半疑だ。だが、蛭子先輩は違った。靄が晴れたかのようなすがすがしい表情をしている。今までのぬぼーっとした不思議ちゃんが覚醒したようだ。神々しさまで感じてしまう。

「恵比寿の行ったことが真実かなんてどうでもいいわ。ただ私は信じた」

 ご先祖様に降りかかった悲劇を払拭(ふっしょく)するように凛々(りり)しく言い放った。

「ただ、今この世においてご先祖様を(おとし)めているやつ、そいつだけは絶対に許さない」


 先輩の言う通りだ。

 今、この国の近海を埋め尽くしているヒルコの大群。恵比寿の言うことが正しいとしたら、国のために甘んじて刑を受けた英雄を(けが)すことに他ならない。

「ああ、先輩、行こう!」


 諸悪の根源は蛭子生誕の地、淤能碁呂島(おのごろじま)にあるはずだ。

「天国でのうのうと暮らすより地獄を這いずり回って生きていきたい。」をお読みくださりありがとうございました。

 蛭子先輩が恵比寿神の助力を得て覚醒しました。日本正史の闇に係る事件が契機でした。建国を成し遂げた悲劇の英雄蛭子命を汚すことは許されません。結弦と先輩の旅が始まります。

投稿は毎週金曜日に行う予定です。今後もお付き合い頂けたら幸いです。

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