35.ヒルコの海
一見、平和そうに見える日常に潜む影。それは生きとし生けるものが逃れ得ない生と死にまつわる有象無象の物語。
黄泉坂結弦は父親にあこがれていた。居酒屋の店主なのだけれど部下に仕事を任せて昼間から飲んだくれている父親に。だけど、親父の周りにはいつも人がいた。彼らの相談を見事に解決してしまう親父は結弦のヒーローだった。親父のようになりたい。それが結弦の夢だった。
だけど、自分は親父に似ていない。少年の悩みは尽きない。
地獄の火が消える。
第一次地獄戦役後、冥府城を除く地獄の全てが落ちたときですら消えなかった地獄の火が消える。地獄の獄卒としては屈辱でしかない。
「近年は現代科学技術に頼り過ぎていたことは否めない。だが、昔は薪や地熱で賄っていたんだ。まあなんとかなるだろう」
「黙れ、クソ親父! 昔とは人口が違うだろう。それに薪ってどこから調達するんだよ!」
親父が雰囲気を明るくしようと言ってくれているのはわかっている。だが、どうにもできないことがある。
別に地獄は灼熱地獄だけではない。それなら代わりの苦役を課せば済むことだろう。だが、どうしようもないことがある。
「こいつは持っていくわけにはいかないからなぁ」
ビル一棟分にもなろうかという巨大な設備、スーパーコンピューターだ。
過去から未来まであらゆる死者とその罪過を記録し、苦役を管理するスパコンだ。月々の電気代だけで数千万円になる。近代以降、爆発的な人口増加により死者の管理の難易度は上がっている。今更、帳面で管理などできるはずがない。
その上、冥府城の施設すべての管理までさせていたのだ。そのスーパーコンピューターが止まる。担当エンジニアの鬼達に混ざりヒト五郎が何やら作業をしている。覚醒しているとはいえ幼稚園児が何やってるのだか。
最低限のメモリだけはバックアップ電源である発電機で賄うことはできる。それも燃料が尽きるまでだ。これだけ膨大なシステムを再起動するまでにどれほどの労力がかかるのだろう。
これから何が起こるのかわからない。だがこのままでは間違いなくこの国は亡ぶ。
*
オレは東京湾に来ていた。蛭子先輩を連れてだ。
なぜ、蛭子先輩だったかというと先輩に関係ありそうだとの情報を聞いていたからだ。
そして東京湾を一面のヒルコが埋めていた。
「かわいそう……」
浜に打ち上げられたヒルコを蛭子先輩が抱き上げる。
正体はわからない。手足はなく、グニャグニャとした薄桃色をした物体。だが、それは間違いなく生きていた。
抱き上げた蛭子先輩の腕の中でヒルコは事切れた。
海面を漂っているものも弱っているのだろう。恨めし気な視線で結弦たちを見る。
そして結弦には何もできないのだ。
それは冥府が停止してから3日目のことだった。
登校の準備をしていた結弦の携帯に着信があった。蘇我からだった。
「閻魔殿、迎えをやりましたので至急伊佐浜までいらしてください」
「何があった?」
「このような影響が出るとは想定外です。ヒルコが現れました」
冥府が停止した以上、死者の管理はできない。この国だけで毎日数十万人が死んでいるのだ。死者が死なない。その魂は輪廻の輪に戻れず徘徊するようになるだろう。地上が亡者に荒らされるのも時間の問題だ。
だが、ヒルコだと……
ヒルコ……蛭子命
日本創成の神である伊邪那岐と伊邪那美の記録に残らない子。長子でありながら不具であることを理由に流された神であって神でないもの。
そして蛭子雅美先輩のご先祖様。
オレはスマートフォンの電話帳から蛭子先輩の番号を呼び出した。
*
予算についてのごたごたが片付いた後、閻魔堂に蘇我公麿がやってきた。
「ていうと何か。あれは仕組まれたって言いたいのか?」
元閻魔が聞き返す。
「ええ、彼らは無知なのです。無知だからこそバカなことを言い出しますが、本当に無知なら気が付かないはずなのです」
「そういうことは倅に言え。今はあいつが大王だ」
「貴方も気づいているのでしょう?」
蘇我が優しく微笑む。それは息子を必死にかばおうとする父親の愛情がまぶしいかのように。
「大王様にはなすべきことがあるのだと」
やはりこうなるか……あいつはまだまだ子供だというのに……
世界の暗部を知るのは大人になってからでいい。大人になれば嫌でもかかわらなければならなくなるのだ。
気を取り直して元閻魔が問う。
「十字教か?」
「わかりません。十字教にも同じような予算がついているので、違うでしょうね。そちらに動きはないようです」
当然だろう。日本人にも十字教徒はいる。何を信じるかはその人次第だ。そこには強制力は働かない。結弦の働きによるものだ。
だが、地獄は違う。閻魔信仰は宗教というより民間伝承みたいなものだ。信仰というより聞いたことがあるレベルの話だ。それでも信じる心が地獄を支えている。
見えない敵との戦いに息子を送り出すことになる。あいつから預かった大切な息子を
代わりに地獄は俺が完璧に守り通してやる。
元閻魔は固く誓う。
*
「総理! 東京湾を埋め尽くすあの物体は!?」
首相官邸の執務室から姿を現した烏山首相を報道陣が取り囲む。
「解決の目途は!?」
「詳細な調査を指示しております。わかり次第、担当から発表させます」
「既に首都圏の物流に多大な損害が発生していますが!?」
「それも含めて調査中です」
「拙速な構造改革との関係が取りざたされていますが!?」
政府の裏組織について知らないはずのマスコミですら関連に気付き始めている。総理大臣である自分を脅してきたあの忌々しい小僧の顔を思い出す。それは自分を嘲るような笑い顔であった。
くだらない戯言だと切って捨てた。先週の閣議で裏の予算は全廃した。来年度を待たず、即時撤廃だ。それにより2兆円もの予算を獲得したのだ。これを減税に回せば世論は味方につけられる。そう思っていた。
だが、法案を提出する間もなく騒動が勃発した。これでは減税を打ち出しても庶民は納得しないだろう。
だいたい、裏の予算と今回の事件の関連だってわかってないじゃないか。
もっともマスコミに裏の予算の話などできるわけもない。
「これから対策についての会議がありますので」
烏山は群がる記者たちを振り払って先を急いだ。
だが、応接室の空気はマスコミより冷ややかであった。
「自称構造改革の即時撤廃……だけで済むとは思わないで頂きたい」
挨拶もそこそこに切り込んできたのは経済合同連盟の筆頭理事である藤宮幸三だ。経済合同連盟、略して経合連は我が国の大企業を集めた経済団体であり、その筆頭理事は財界総理とも呼ばれている。彼らの協力なしでは経済政策は何一つ実行できないだろう。
「そんなこと言われても……」
財界を敵に回したことを知った烏山は涙目になった。
「私は、いや、私たち財界はこの国の基盤に手を付けることを反対した。あれは政争の具としてよいものではない。そう申し上げたはずだ!」
机を叩いて問い詰める藤宮は怒りに顔を染めている。
「お言葉ですが、まだ構造改革と関係があると決まったわけじゃ……」
「総理!!」
これではどちらがこの国の首長だかわからない。
「早急に海上保安庁に掃海を指示します」
「ヒルコ様を掃除するだと……はぁぁぁぁ……」
思い付きの善後策を口にする烏山を藤宮は見下すように溜息をついた。
「君は何もわかっていない」
「とおっしゃいますと?」
一国の首長が君呼ばわりされたことにも気づかず烏山は聞き返した。
「こんなもの序の口だ」
「まだあるんですか!?」
狼狽えるだけの小物を財界総理は冷めた目で見つめる。
「3日前、婿の父親が亡くなった。私にとっても50年来の友人だ。通夜には私も参列した」
「はあ……」
「それが動き出した」
「……生き返ったと。よかったですね」
「ふざけるなっ!」
なぜ、怒鳴られたのか烏山は理解できない。
藤宮は体をブルブルふるわせ怒りを堪えている。
「あれが蘇りであるものか……あれはゾンビだ。親しきもののあのようなあさましい姿、娘に見せたくなどなかった」
ここにきてようやっと烏山も藤宮の言いたいことが理解できた。
経済への打撃の責任を言っているのではない(もちろんそれも含まれているが)。死者への冒涜の責任が烏山にあると宣告しているのだ。
烏山は冥府への視察で亡者を見た。あれはもう人ではなかった。腐っているわけでもないし、会話も成立した。ただ生きてはいない。生老病死という四苦から解放された存在なのだ。しがらみを浄化し輪廻の輪に還る。それが命であり司るのが閻魔である。
その説明を烏山は受けていた。だが、それがどれほど大切なことかわかっていなかった。
「私はあなたを一生許さない」
去り際に藤宮が言った言葉で遅まきながら理解したのであった。
同日夜、政府は構造改革の即時撤廃と構造改革担当大臣の更迭を発表した。
遅きに失した。
無かったことになりはしない。東京湾封鎖は45日に渡り、ゾンビ発生事件は20万件に及んだ。全てが終息したのは120日後であった。
改革民主党連合政府は瓦解し、無政府状態が2週間続いた。
混乱を収拾したのは産学官に支持された下野していた保守自由党であった。
いくら政府が瓦解したとしても民主国家である以上勝手に政権はつくれない。連合政府の高官は非難を恐れて地元に引きこもり一切、公に姿を現すことはなかった。
与党関係者で唯一、首都に残っていたのは衆議院議長の海棠一であった。烏合の衆が図らずも政権を取ってしまったことに不安を覚えていた。長老議員であった海棠は執行部に苦言を呈したが煙たがられ、衆議院議長というポストをあてがわれた。議院議長の職に就くものは党籍を離れる。つまりは厄介払いであった。
政権の空白に危機感を抱いた海棠は総選挙後の特別国会が混乱のため閉会が宣言されていなかったことを盾に保守自由党と共謀して国会を開催した。保守自由党は内閣総理大臣烏山幸夫の失踪を理由に憲法第70条に従い、内閣の総辞職を提案、議長海棠一はこれを取り上げ、議員投票の結果満場一致により内閣は総辞職したと認めた。野党だけでなく数少ない責任感のある与党議員も賛成票を投じたのだった。
参議院でも同様に決議され、同日、内閣総理大臣指名選挙が両院で行われ保守自由党党首鷹沢太郎が内閣総理大臣に任命された。
これにより20日に渡った政権の空白は埋められた。
鷹沢新首相は、非常事態内閣を宣言、収拾後は総選挙を行うことを明言した。余談であるが、半年後に行われた総選挙では旧革新民主党連合の幹部は誰一人として当選しなかった。
「天国でのうのうと暮らすより地獄を這いずり回って生きていきたい。」をお読みくださりありがとうございました。
ついに地獄が停止してしまいました。これから日本はゾンビランドと化すのでしょうか。
投稿は毎週金曜日に行う予定です。今後もお付き合い頂けたら幸いです。




